第16話  崩れ始めた世界

沙耶の失踪という重苦しい知らせで始まった一日も終わりを迎え、放課後の時間を迎えていた。

茜は、今日一日、常に自分の方へ突き刺さるような視線を感じていた。特に、あの、沙耶が家出した事を真っ先に椛に知らせてくれた女子生徒‐茜は名前も知らないが、椛と沙耶のグループの中でも、かなり上のカーストにいた事だけは薄っすらと知っている‐は、茜と偶々、目が合うと露骨に眉を吊り上げた。

『柊木さんがいた、あのグループの子達は皆、柊木さんがおかしくなったのは、私のせいだと思ってる・・・。でも、嫌われても当然だ。私が、そのきっかけになってしまったのは、本当だから』

クラスの中の透明人間。いてもいなくても、同級生の誰も特に気にかけない。つい先日まで、そんな存在だった自分が、皮肉な形で今、クラスメイトらの注目を集めてしまっている。全てのきっかけは、自分のごとき人間が、椛の隣にいたいと願ってしまったが故に。

ついこの間までは、茜の一応の居場所だった、昔のグループの子らにもちらりと視線を茜から送ってみる。教室の窓際の一角で、下校時間になっても、何やらひそひそ話していた彼女らは、茜が見ている事に気付くと、一斉に、ある者は表情を硬くして、またある者ははっきりと、茜からそっぽを向いた。

直接は口に出さなくても、彼女達からも、もう自分達に関わるなと、はっきり拒絶されていた。

「そもそも、穂波の奴が、霧島さんに近づいてからだよね、柊木さんがおかしくなったのは。穂波も何考えてたんだろうね。あいつなんかが、自分と霧島さんが釣り合うとでも思ってたのか、ほんと、意味わかんない・・・」

「柊木さんは、霧島さんに滅茶苦茶執着してたから、そこにぽっと出に乱入してこられたら、おかしくなるのも当たり前だよね。穂波も何を考えてるのか訳分かんないし、それに、言いたくはないけど、霧島さんの方だって、何か変だよ。今まで穂波とは別世界の人間、一言も話した事もない関係だったのに、急にあんなくっつき出すとかさ・・・。二人にどんなきっかけがあったのか知らないけど・・・」

そんなやり取りを今日一日、何度も聞いた。茜と椛の、血晶の刻印の事など知る由もない、ただのクラスメイトらからしたら、茜は、椛と沙耶の親密な関係にいきなり入り込んだ乱入者。安定していたグループを掻き乱し、秩序を破壊した。そう思われて仕方ないのは、茜も分かっていた。一日中、教室の中で身を竦めて、ひたすら、そうした影口に、聞こえないふりをしていなければならなかった。

下手に、彼ら、彼女らに茜から何か反論などすれば、より事態を悪化させる結果にしかならないのは目に見えていたから。茜だけが責められているのならば兎も角、クラスメイトらには椛の事も不審な目で見る風潮が広まってきている。椛まで、悪者扱いされる事だけは避けたかった。

放課後の教室の喧騒の中、茜は視線を椛に送る。彼女は、じっと本を読んで、特に、そうした周囲の声などものともしないように振る舞っていた。

あの堂々とした姿勢が、茜には羨ましい。

茜の方は、空気のような、希薄な存在の自分から抜け出したいと前は願っていた筈なのに、今は、この周囲からの冷ややかな視線から逃れられるなら、また空気にでもなりたいと思っている程だと言うのに。

彼女のいつもの取り巻きのうちの二人が、椛にいっしょに帰ろうと声をかけていたが、椛はそれを断っていた。

明らかに、椛に声をかける女子生徒の数も、つい先日までより減っていた。以前は、椛と沙耶を囲んで、あれだけ、喧しいくらいに仲良しアピールをしていた筈の彼女のグループの彼女らも、徐々に椛と距離をとり始めているのが垣間見えた場面だった。

『私のせいで、椛の周りの人間関係も変わり始めている・・・』

そんな、自責の念も沸き始めた頃に、気付けば、椛は、茜の席の傍に立っていた。鞄を下げて、帰り支度も整えている。

「一緒に帰ろう。穂波さん」

椛のその言葉に救い出される思いがして、茜はそそくさと鞄に教材やらペンケースやらを詰め込んで、席を立つ。椛の隣を並んで歩く、茜へ教室に残る生徒らの視線が刺さる心地がしたが、それらは一切気付かないふりをして、逃げ出すように教室を出る。


椛の隣を並んで歩き、ある程度、学校から離れた、市内の、街路樹が立ち並ぶ大通りにまで出てきたところで、茜はやっと一息をつけた。ベンチの上で、重なり合って落ちている紅葉達を払い除け、そこに二人は腰を下ろす。ここなら、学校の生徒らと顔を会わせる可能性も低い。

ベンチに座るや否や、茜は、深く溜息をつく。

「学校、息が詰まりそうだった・・・。今日一日は・・・。皆、私と椛の関係を疑ってる。私が、椛と柊木さんの間に割って入ったから、柊木さんがおかしくなったんだって噂してる。でも、それは、事実でもあるからね・・・、私もそれを責められたら、言い返せないよ」

路上を、風に吹かれてサラサラと流れていく落葉達を眺めながら、茜は、椛にそう言った。

落葉は次第に、その色を、鮮やかな赤からくすんだ茶色に変えつつあり、紅葉の季節も終わりが近いのと、もうすぐ冬が来る事を予感させた。今年は、例年よりも特に、寒波と、冬の到来が早いらしい。

「・・・沙耶の家出の事は、後悔してもどうにもならないよ。学校の皆は、僕と、茜の、血晶の刻印の事なんて何も知らないし、好きなだけ言わせておけばいい。それよりも、僕達は、沙耶がこれから、暴走して何か起こすのだけは、何としても止めないといけない。絶対に。沙耶は僕の大切な友達で、人生で最初の理解者なんだから」

椛はもう、既に学校の皆の影口などよりも、沙耶を救い出す事の方を優先して考えている。目先の事に動揺している茜と、その達観ぶりの差を思い知る。

「椛はやっぱり強いね。私は、学校の影口くらいできつくなってしまってるのに、椛はそんなの気にもしないで、柊木さんを助ける事を考えてる」

「・・・僕だって、特別に強い訳なんかじゃないよ。ただ、もうすぐ、サヨナラすると決めたこの世界で、誰かに今更、影口を言われたところで、そんなのはどうでもいい事でしょう?僕にも、茜にも。だから、気にしないだけ。昔から、僕が、こんな音の子みたいな話し方だったり、髪を絶対伸ばさないのを、『霧島って男みたいだ』ってバカにしてくる男子とかはいたよ。だけど、そんなのはどうでも良かったんだ。あの頃からもう僕は、いずれはこんな世界からいなくなるって決めていたんだから。ただ何も理由もないまま、ぼんやりと生きていくだけの連中の言葉なんて、聞く必要はない」

そうだ。茜は、まだ椛の事を理解しきれてはいない。

椛は決して、強く、何事にも動じない『王子様』などではない。今回の沙耶の失踪では、あれ程に動揺して、茜に縋り付く、脆く崩れやすい一面も見せた。ただ、彼女の心を感動させるのも、苦しませるのも「死を決意した人間」の言葉や行動だけという事だ。何の為に生きているのかの答も持たず、それで良しとして、漫然と生きる人の言葉は、彼女には最初から何も届かない。

だからこそ、茜の言葉であれば、椛の言葉を動かす事が出来る。彼女にとっては、茜もまた、沙耶と同じく「死を決意した人間」であるから。

「僕は、沙耶にずっと甘えていたんだ。だから、その償いをする責任がある。自分の感情を爆発するまで押し殺して、僕の隣にいてくれていた沙耶に、甘えていた償いをね。沙耶が、これからどんな行動に出るか分からないけど、今までのあの子との人生の償いだと思って、僕は止めなければならない・・・僕の命を引き換えにしてでも、ね」

椛が沙耶に、自らの気持ちを封印させた日-、沙耶の告白を断った、「償いの日」がもう近日に迫っている。沙耶が椛への復讐を考えているなら、因縁のその日に向けて何か行動を起こすと考えるのが妥当だろう。

椛は、沙耶を止める為になら、死ぬつもりでいる。そして、彼女の言葉の中に、「茜」という名はなかったから、場合によっては、椛一人で沙耶と刺し違えるつもりなのだろう。‐それによって、茜を一人遺してでも。

そう思った瞬間に、また、ネックレスの先の血晶が熱を発して、胸の刻印に痛みが走りだす。茜は、その痛みを悟られぬよう、唇を噛み締めながら、椛の膝の上の、手の甲に自分の掌を重ねる。

「駄目だよ・・・!例え柊木さんの暴走を止める為であっても、私を一人、置いていったら、許さない。約束して、くれたでしょ・・・?血晶の刻印に導かれた時に。二人の間に『聖刻』が出来るまでは、一緒に生きて、そして『聖刻』が出現した時に、一緒にこの世界にサヨナラをしようって」

椛と、共に『聖刻』を見る事のないまま、一人、この世界に遺されてしまっては、茜は堪らないから、つい、口調もわがままじみた物になる。

食い下がるようになりながら、茜は椛に、尚も言葉を重ねる。

「それに・・・私だって、柊木さんの事では、責任があるから・・・。椛の血晶が、柊木さんじゃなく、私を選んだ事で、柊木さんは壊れてしまったから。だから、椛が行くなら、私も行く。柊木さんを止めに。椛、言ってたでしょ、大切な人が傷つく事も、誰かを傷つけるのも絶対に嫌だって。私だって同じなの。椛が一人苦しんで、傷ついていくのを見るのは嫌なんだよ。柊木さんの事で。だから、椛一人には絶対背負わせたくない。椛は、ただ、血晶に選ばれただけの相手じゃない。私を理解してくれた、大切な人なんだから」

椛の、秋風に冷えていた左手の甲をいつしか両手の掌で包み込むようにして、茜は彼女と、ベンチの上で向き合っていた。椛と、一瞬、真正面から目が合う形となり、彼女は咄嗟に茜から、目を逸らす。その頬に、薄い朱を指しながら。

「そんなに、手を掴みながら、必死になって大切な人だなんて言われたら、僕も流石に恥ずかしいよ・・・」

今までの、決意を語る硬い面持ちからは一変して、少しだけ緊張が緩んで、恥じらうような表情で彼女は言う。

そして、「うっ・・・!」と顔をしかめて、制服の上から胸元を、空いている右手でおさえる。丁度、血晶の刻印が出現しているあたりだ。

「ごめん、ちょっと、刻印のあたりがまた、痛くなってきた・・・。茜の言う通り、感情の揺れ動いた時に、刻印が反応するみたいだ・・・。」

二人の感情がお互いに揺れ動く程、お互いの血晶の刻印は影響されて、より色濃く変容していく。『聖刻』の出現条件ははっきりしないが、少なくとも、二人の血晶が、感情の力に反応して、変化を続けているのは明らかだ。

「不思議だよ・・・、椛と出会う前は、私が、家でも学校でも、生きてる意味が分からない透明人間だった頃は、何を貰ったって、どんな言葉をかけられたって、心がこんなに動く事はなかった。だから、皆、そのうち、『つまらない奴』って思って私から離れていった。でも、椛と、『聖刻』を二人で見届けてから死ぬって、決めてから、こんなに自分の心って動くんだ、嫉妬とか、大切に思う感情があったんだって気付けた。今まで人生16年振り返っても、こんな事なかったっていうくらいに、心が活き活きとし始めたんだから」

「僕も、それは同じだよ。やっぱり人っていうのは、何の為に生きて、そして死んでいくのか、その大義・・・とか言うと大げさかもだけど、理由がなければ、自分の為だけには生きていけない生き物だからね。僕は、今やっと自分の為だけに無理やり自分を生かしてきたような人生を抜け出して、残された時間を生きる理由を見つけられたような気持ちでいるよ」

それは、以前も椛が口にした、聞き覚えのあるフレーズだった。確か、彼女が愛読している文豪の、三島由紀夫の言葉をもじった物だった筈だ。

茜は、彼の作品は読んだ事がないし、難しい事など分からない。しかし、「自分の為だけに無理やり、自分を生かしているような人生」を抜け出せるような気がしているのは、茜も同じだ。

「心配しないで。茜を置いて、沙耶と刺し違えるような、自分だけ先に死ぬような真似はしないから。こんな温かい手を離して、僕だけが先に死んで行くなんて、出来ない」

椛は、そう言って、自分の左手の甲を包み込んでいる、茜の両手を優しく、右手で撫でてくれた。


椛がそう言ってくれた矢先だった。彼女のスマホに着信音が鳴った。メッセージが届いた音だ。その音を聞いた瞬間、茜の耳からは、ベンチの前の歩道を歩き去っていく群衆の声も、すぐ後ろの道路を走る車の音も、全てが遠のいていったように感じられた。空気が張り詰める。

少し、緊張の緩んでいた椛の表情が忽ちに曇っていく。すぐにスマホの画面に目を通し・・・彼女は戦慄していた。

「柊木さんから・・・⁉」

椛の表情の変わりようから、それ以外には考えられなかった。メッセージの文章に目を通しているうちに、椛の顔は、血の気が引いていった。

「これを見て・・・茜」

そう言って、椛は自分のスマホを、茜に手渡した。薄暮の中で光るスマホの画面に表示されたメッセージを見た瞬間、茜も、背筋が凍る感覚に襲われた。

『親愛なる霧島椛さんへ。今日6時、○○駅の構内に来てみたらいい。美しい光景を、私に忠誠を誓ってくれる子が、見せてあげるから。貴女の仲良しの穂波茜も是非、連れて来るのをお勧めするわ』

○○駅とは、この街の中心の駅で、通学、通勤などによく使われている駅だ。そこで、一体沙耶は、茜と椛に何を見せる気でいるのだろう。

茜はスマホで時刻を確認すると、もう時計は5時を回っている。沙耶が指定した時間は既に、間近だった。

兎に角、駅に急がねばならなかった。


分譲マンション住まいの『彼女』の、車に乗ったまま、沙耶は駅前の駐車場内で、その時が来るのを待っていた。車の後部座席には、今日の為にダイレクトメールで呼び寄せた、『メインキャスト』が乗っている。

「ありがとう。今日は、私の為に来てくれて」

沙耶は、フードを被ったままの『メインキャスト』に声をかける。沙耶の声に、フードを外す事もないまま、返事を返す。それは、沙耶と年の変わらない少女の声だった。

「はい。SAAYA様の為に、この命を差し出す覚悟はできています」

黒ずんだ、ネックレスの先の血晶をぶら下げながら、その解答に沙耶は満悦の笑みを浮かべる。『彼女』が教えてくれた通り、「邪印」を手にした自分は今や、人の生き死にをも、意のままに操れる。血晶の力で。

「これを持っていきなさい」

沙耶はウエストポーチを、フードを被ったままの彼女に渡した。彼女がそれを開けると、ポーチの中に、布でぐるぐる巻きにされた何かが入っていた。彼女が、その布を取り払うと、薄暗い車内で、鈍い銀色の刃が現れた。『彼女』の家から持ち出した包丁だった。

「やる事は分かっているわね?駅の時計が6時になったら、学校や仕事終わりの人達の前で、見せつけてやりなさい。盛大な、血の噴水が立ち昇る瞬間を、貴女が、皆の忘れられない存在になって、『この世界にサヨナラを』する瞬間をね」

「ええ、分かっています」

死を目前にしているというのに、彼女の声には一切の抑揚がなく、恐怖も緊張も、その他のあらゆる感情も見いだせなかった。これが、血晶で操られた人間の姿だった。

「この子の一部始終は、私が後を付けて、ちゃんと見ておくわ。沙耶ちゃん」

『彼女』が運転席からそう言った。彼女は実に上手く、会社帰りの女性といった出で立ちに「仮装」していた。働いていないらしい彼女なのに、ごく普通の社会人に擬態している。

「ええ、よろしく頼むわ。そしたら・・・」

腕時計を見て時刻を確かめる。6時まであと15分を切った。今頃、あの二人‐、椛と茜は息を切らして、駅に駆け付けているところだろうか。

「いってきなさい」

その沙耶の言葉と共に、ジャケットのフードを被ったままの少女は、『彼女』に連れられて、車から降りた。包丁を忍ばせたウエストポーチを下げた少女と、『彼女』は駅の構内に向かって歩いていく。


茜と椛が、○○駅の構内に駆け込んだ時、駅構内の柱に取り付けられた壁時計を見れば、既に時間は、5時50分となっていた。

「沙耶・・・?この近くにいるの?一体、何をこれから始めるつもりなの」

夕方の、家路につく学生や会社員などでごった返している、駅の構内をぐるりと眺めながら、椛は必死に沙耶の姿を探し求めていた。

茜も沙耶の姿を探すが、彼女らしい姿はない‐。

と、その時だった。

「え・・・?何だろう、あの人・・・」

茜の視線が、ある一点に留まった。

ジャケットを着て、ウエストポーチを下げ、駅の構内というのに、フードを被ったまま身じろぎ一つせず、何かをじっと待っているような、異様な存在感のある人が一人、改札口前の、柱の前に立っていた。フードに顔は隠れて、正体は分からないが、そのジャケット越しでも分かる華奢さからは、女性らしい事だけは分かった。

沙耶の姿を探していた椛も、やがて、その存在に気付いたらしく、フードを被って動かないジャケットの人物を見ていた。

「何、あの人・・・?体格は、多分、女の人っぽいけど・・・」

家路を急ぐ人も、流石に彼女の異質さは気になったらしく、ちらちらと柱の前に立ち尽くすフードの女を見る者もいたが、それ以上、気に留める者はいなかった。

「あの人が、まさか、柊木さん・・・ていう事はないよね」

「行方をくらましてる沙耶が、こんな見つかりやすい駅なんかにくる訳がないし、違うだろうけど、確かにあの人は気になるね・・・。他に、沙耶が言うような、何かおかしなものや人は、駅の中にはいなさそうだし」

誰かが、駅員に伝えたらしく、そこから更に伝わったのか、駅内を巡回していた警察官が一人、フードの女の方に向かって歩いていくのが、二人にも見えた。職務質問か何かだろうか。

時間は、まさに6時に差し掛かろうとしている時だった。

警察官が、彼女の元へと歩み寄ろうとした時-フードの女が、素早い動きでポーチの中から、布に包まれた何かを取りだして・・・布を宙に払った。

「!!椛、あれって・・・!」

そこにあったのは包丁だった。そして、フードが取り払われ、隠されていた黒髪がばさりと宙に舞い、椛、茜とほぼ同じ年頃の少女の顔が現れた。

駅の構内に鳴り響く程の声で彼女が叫んだ。

「この世界にサヨナラを!!」

それを聞いた瞬間に、彼女の次の行動が予測出来た。椛は、必死で彼女に駆け寄ろうとした。

「駄目!!」

そう、絶叫しながら。その後を茜も、走って、必死に追いすがる。しかし、到底間に合わなかった。


彼女まであと、数メートルのところで、その手に握られた包丁の、鋭い切っ先が、彼女の首を横一線に切り裂くのが見えた。

そして、茜は自分の頬に、何か、生温かい飛沫が飛ぶのを感じた。

茜の目に飛び込んできたのは‐、首から紅い噴水を噴き上げながら、柱に背中をずるずると擦りつけるようにして倒れていく、少女の姿だった。カランという、金属の乾いた音がして、鮮血に染まった包丁の、銀色の刃が転がった。

少女達の絶叫、そして、その直後に、駅の構内で突如として噴き上がった、血の噴水‐。

「いやああああ!!」

誰かの悲鳴が上がり、それを皮切りに、駅の構内に居合わせた人の全てが大混乱に陥った。

「お、おい、マジかよ・・・、あの子、首を掻き切った・・・!」

「は、早く、救急車を呼ばなきゃ!」

「ウソでしょ・・・し、死んだの、あの子・・・⁉」

あらゆる叫び声が飛び交い、どれ一つとして、はっきりとは聞き取れない程だ。茜と椛は、柱に背を預けたまま、駅の床に崩れ落ちている、彼女の姿を見て、しばらく、衝撃のあまり脳が動きを停止していた。彼女の体を中心に、じわじわと紅い血の池が既に、駅の床に広がりつつあった。

「この、世界に、サヨナラをって・・・。これが、まさか、沙耶の言ってた、沙耶の仕組んだ事・・・?」

そんな、椛の呟きが耳に入って、ようやく、茜は我に帰る。横顔を見ると、椛の頬には、首を切った彼女の物らしい血飛沫が飛んで、点々とこびり付いていた。

さっき、茜の頬にかかった、あの生温かった飛沫もきっと・・・。

茜は、全身の力が抜け落ちて、へなへなと駅の床の上に倒れ込んだ。「茜⁉しっかりして」と、椛が叫ぶのが聞こえたが、その声も今は、水を通しているかのように、遠くに、くぐもって聞こえる。

「う、嘘・・・・。柊木さんが、仕組んだの・・・これを?あの子、し、死んじゃった・・・」

茜の頭の下に手を差し入れて、椛が何か言っていたが、その声さえ、次第に頭に入って来なくなった。

完全に意識が闇に落ちる直前・・・、茜の視界の一端に、こんな大混乱の中、一人だけ、いやに冷静にスマホで何処かと連絡を取っている女の姿が、遠目に見えた。

何を話しているかまでは聞き取れなかったが、その女は、大変満足気な様子で、スマホで話しながら、群衆から遠ざかって、人の少ない方へと一人、歩き去って行った。


目の前で、人が首を切って死んだ。それも、「この世界にサヨナラを」という、血晶が関わった自殺で、多くの人が今、ネットなどに書き込んでいる、あの言葉を叫んで。

意識を失った茜を膝の上で受けとめながら、椛もしばらく、床に座り込んで、立つ気力が湧かなかった。

名も知らぬ・・・恐らくは同じ高校生の年代と思われる、首を切った彼女は、柱に寄りかかったまま、項垂れている。

彼女の、血に染まった首元に、一点、小さな、黒い紋様が刻まれていたのを、椛は見逃さなかった。

「あれって・・・血晶の、刻印・・・?いや、でもあんな黒い紋様の刻印なんて、聞いた事がない・・・。一体、何なの、あれは・・・」

茜は、気を失ったままで動かない。兎に角、まずは早くこの場から、茜を連れ出さないと・・・。

そんな折だった。椛のブレザーのポケットの中で、スマホの着信音がまた鳴った。

沙耶からのメッセージだと、見なくても椛は確信出来た。果たして、確認すると、その通りだった。

『どう、椛?もう見届けたかしら?血の噴水のショーを。そして、あの子が、この世界にサヨナラをする美しい瞬間を。今の私は、椛の知りもしないような力で、もう人を死に誘う事だって出来る。血晶からもらった力でね。でも、これは、まだほんの始まりに過ぎないから。世界が、崩れていくのを、あの女-、穂波茜と一緒に見ているといいわ。

そして、もうすぐ来る『償いの日』を、楽しみにしている事ね』

椛の知らない、血晶の力?それを沙耶は使って、あの子を操って、死に誘ったというのか?

そんな事実を認めたくなかった。沙耶は・・・人を死に誘う死神になったと言うのか。

『嫌だ・・・!!そんな事、認めたくない!!』

椛の知っている沙耶の姿が、沙耶と自分との間にあった世界が、崩れ出していくのを感じた。

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