第15話 消えない呪縛と死神の誕生

柊木沙耶が家出した‐。

その知らせが学校にもたらした衝撃は、沙耶の失踪の翌々日になっても、全く治まる事はなく、学年、ひいては学校全体に暗い影を落としていた。

朝のホームルームの時間、茜と椛、そして、沙耶もいたクラスの担任は、深刻な面持ちでこう告げた。

「柊木さんですが、現在もご両親からの連絡も着かず、既に警察の方に捜索願が出されています。皆さん、衝撃的な出来事だとは思いますが、どうか冷静に。柊木さんが無事に見つかる事を祈りましょう」

そうした決まり文句で、担任は一旦言葉を区切った。しかし、その表情を朝から憂鬱にさせているのは、沙耶の家出事件の為だけではないようだ。続けて、また話を始めた。

「それからもう一つ。昨今、世間を騒がせている事。例の、女優さん二人が続けて、自ら命を絶たれた、あの痛ましい事件についてですが・・・、ここ最近、あの事件の遺書の言葉に感化されたと思われる、後追い自殺と思われる事件や、そうした行為を仄めかすような書き込みがネットを中心に急増しています。特に、『この世界にサヨナラを』という言葉に、関連した書き込みを見かけても、絶対に皆さんは閲覧しないように。もしも、気持ちが揺らいでしまうような事があれば、必ず先生か、学校保健室の方にすぐ相談をしてください」

生徒の命を守る者としての責任感故か、茜と椛のクラスの担任に限らず、廊下ですれ違う、他の教師らも、皆、一様に険しい表情をして、生徒らを見つめていた。

椛は今朝、茜と共に学校に出てきた時、校門に立っている男性教師の二人組のうちの一人が、深い溜息交じりに

「世間も色々、不穏な空気になってきてる矢先に、今度は、うちでは生徒の家出事件か・・・。よりによって、このタイミングで。本当に勘弁してくれ・・・。どうか、穏便に柊木の家出の方は片付いてほしいもんだけど・・・、まさか、柊木のやつ、死のうなんて考えてないよな」

とぼやいているのを耳にした。

ホームルームの後に、まだ、昨日から疼い痛みの続く、制服のリボンの下の、胸元を手で押さえながら、椛はスマホを開いていた。

彼女が椛以外にも、学校の友達皆に開いていたSNSのアカウントは閉ざされたままだった。メッセージを幾ら送っても、沙耶からの反応は返ってはこない。

「美しい物を見せてあげる・・・。沙耶は、一体何を始めようっていうんだ・・・」

昨日、茜に心を揺れ動かされて、家に帰ってから、スマホをチェックした時、沙耶から一通だけメッセージが届いていた。今朝登校してから、何気なく、普段の取り巻きの生徒らに聞いてみても、他に誰も沙耶のメッセージを受け取った者はいないようで、やはり沙耶だけに宛てられた物だったらしい。

教室の生徒らの注目を集めているのは、沙耶の家出の話題だけではなかった。

外の世界では、更に、大変な事態が起こりつつあったから。

「な、なあ・・・見たか。昨日のあの、○○動画の生配信・・・?」

「ヤバすぎでしょ・・・速攻で動画、非公開にされてたけど」

茜も、その事態を知っていたようで、スマホを見た後、すぐに、椛の机の方に近づいてきた。

「ね、ねえ・・・椛。これって」

彼女も椛と同じ物を見ていたらしい。日本のSNSのトレンドランキングだ。上位を埋め尽くしている物は「この世界にサヨナラを」「心中の生配信」「最悪の事態」、そして、「血晶」。ネットニュースでも「昭和初期以来の、『心中ブーム』の悪夢再びか」などの見出しが並んでいた。

「同性カップルが、『この穢れた、欺瞞だらけの世界にサヨナラします』って生配信で、お互いの体の、血晶の刻印を見せた後に、猛毒を飲んで二人一緒に死んでいくところを動画で流したって・・・」

「ああ、見たよ。SNSでも、その配信のニュースの後から、更に、『この世界にサヨナラを』と『血晶』っていう書き込みが増えていってるね」

スマホという小さな社会への窓から、学校の外を見渡せば、教師らが神経を尖らせるのも当然の事態に、世間は陥っていた。

その折に、沙耶の失踪だ。学校の教師達にすれば、この社会の風潮と、沙耶の失踪から、彼女が最悪の結末を選ぶ可能性まで、想像しない方が不自然というものだろう。

「先生たちも皆ピリピリしてるよね、柊木さんが家出した事で、余計に・・・。柊木さんと仲良かった子達も、落ち着かない様子だし・・・。今のタイミングで柊木さんが家出したのは、もしかして自殺するつもりなんじゃないかって、先生達は恐れてるみたい」

「・・・少なくとも、僕は、だけど、沙耶が、先生や皆が心配してるように、自分一人だけ、何処かで死ぬつもりでいるとは思えない。昨日、スクショを送ったから、茜ももう見たと思うけど、こんな、意味深なメッセージも僕に送ってきたくらいだからね」

昨日、画面をスクリーンショットで写真に収め、すぐに茜にも送ったから、茜も、あのメッセージの内容は既に知っている。

改めて、昨日届いた、沙耶からの挑戦的で、何かの予告にもとれる、あのメッセージを開く。

そこから滲み出す物は、椛への失望と怒り、茜への憎悪。そして、不吉さを漂わせる、「美しい物を見せてあげる」という言葉。それが単なる脅かしではなく、沙耶が、何か、ただならぬ事をやる気でいるのは明らかだった。

「すんなりと、沙耶が帰ってきてくれる気がないのだけは明らかだね・・・。沙耶は、絶対に皆を巻きこんで、何か恐ろしい事をやろうとしてる」

椛は、前髪をかき上げて、肘を机につき、深く溜息をついた。この先、一体何が待ち受けているのか、想像するだけでも恐ろしかった。


‐時間は、沙耶からのメッセージが、椛のスマホに送られる少し前に巻き戻る。


「フフフ・・・、良いわね。これで良いのよ。こんな世界、皆、サヨナラしてしまえば。そうすれば、もう穢れなくて済むし、皆が、悲劇的で美しい文学の主人公になれる。この世界に遺された人々の記憶に刻み込まれるような、ね」

沙耶は、ソファに背を預けたままで、満足気にSNSの書き込みをスクロールしていった。

快適な、マンションの一室のリビングだ。ここに匿われて、先程まで泥のように眠っていた。

学校の友人達に公開していた方のアカウントはもう閉じた。今使っているのは、ずっと、沙耶に付き従ってくれているネットの世界の人達だけがフォローしている、裏アカウントからログインして、SNSの書き込みを閲覧していた。

「もし生まれ変われるなら、こんな世界よりも、もっと清らかで、純潔な、優しい世界に次は生まれたいです。この世界にサヨナラを」

幾つもの、電子の海を漂って、自分の手元に流れ着いた、名前も知らない人の、遺書じみた書き込みを読んでは、沙耶はほくそ笑んだ。

「私と同じ気持ちを抱いてくれる、『理解者』が、世の中にはこんなに沢山いる。この世界の皆に、二度と忘れられない程の深い爪痕を遺して、散っていきたいと思ってくれる人がこんなにも」

そして、椛にすら教えていなかった、裏アカウントの自分のホーム画面を開く。

沙耶がこんな世界の中で、唯一、自分の気持ちに寄り添ってくれる、清浄な世界だと信じられる空間に身を投じる。

いくつもの返信が来ている。沙耶の事を慕い、「SAAYA様が死なれる時には、僕も(私も)一緒に!この世界にサヨナラを」と、沙耶と共に、世界にサヨナラする時を待っている人々の声が。忠誠の証のように、彼ら、彼女らは、自分の持つ「血晶」の写真も添付して、返信してきている。

彼ら、彼女らが、そして沙耶が、何故ここまでも『死』に恋焦がれているのか、きっと、この空間にいない人間には、沙耶達の外面だけしか見えない人間には、分かりはしないだろう。

「一握りの才能に恵まれた存在以外は、毎日を何となく生きて、そうやっていつの間にか老いて死んでいく。何も残さず、名前すらも忘れられて。そんな、空っぽな生き方で満足している人達に私と、私を慕ってくれる人達で一緒に、見せてあげるんだ。私達が生きていた証を、絶対に忘れられない呪縛として。そして、それは、こんな世界への復讐でもある・・・」

二度と、生きては家の敷居を跨がないつもりであの家を飛び出した日。部屋に押し込んできた両親に、長年押し殺してきた、自分の秘密を、感情の爆発のままに話した。

自分が、霧島椛を愛していた事、告白までした事を。更には、盗聴器を使って、長らくストーカー行為までしていた事を。

昨夜の、父の激高した声が蘇る。

『今のお前は、どう考えてもまともじゃない!狂ってる!我が家の失敗作だ!』

こちらも、あの時のやり取りは、頭に血が上っていて、ろくに覚えてはいない。しかし、『狂ってる』、『失敗作』というこれらの言葉だけは、耳に焼き付いていた。

あの瞬間に、僅かばかりは、まだ残っていたらしい、親への情も完全に、沙耶の中から消え失せたと言える。

沙耶に残った、まだ、この世界で息をしている理由は、「如何にしてあの両親に復讐するか。そして、この世界に消えない呪縛として、私の名前を遺してやるかを考える為」だけになった。

『本当ならば・・・、これを一緒に考えてくれる同志。私の隣にいる筈だった理解者は、椛である筈だったのに!!』

椛の事へ思いが至ると、急激に、一旦は静まっていた感情がまた、高揚してくる。

悦に浸っていた感情が、再び怒りと、哀しみに揺れ始める。

沙耶が座るソファの前には、大きなテーブルがカーペットの上に置かれ、ソファと、立派なテレビの合間に挟まれる形となっていた。そのテーブルの上に置かれている、ガラスの灰皿を衝動的に手に掴むと、そのまま力いっぱい、壁に向かって投げつけた。

『椛・・・!!どうして・・・椛!!』

二つ結びのおさげを揺らす、小柄なあの女の隣を歩いて、こちらに背を向ける椛の、見慣れた襟足が、そこに覗かれる、いつも日焼けしないように美しくケアされた、雪原のような項が、鮮やかな映像となって押し寄せる。

その幻影に向かって、叫びそうになり、必死に声を押し殺す。大声を出せば、隣の部屋の住人に聞かれないとも限らない。今、自分を匿ってくれている、この部屋の主人に迷惑をかける訳にはいかない。

粉々に割れた破片がフロアリングや、カーペットの上に散らばった。その細かい破片の断面が、キラキラと、天井のLEDの照明の灯を受けて輝いている様を見て、何処か、雪の結晶のようだと思った。雪の結晶達は、土の上に積もっても、儚く溶けて消えていくが、灰皿の破片は無惨にばら撒かれたまま、消えてはくれない。


「どうしたの?沙耶ちゃん?パニックになっちゃった?」

この部屋の主人が、寝室から姿を現す。平日の夕方であるというのに、まだ寝間着姿の、茶髪のロングヘアがよく似合う、いつも眠たげで柔らかな印象を与える目元の、美しい女性であった。

沙耶は、頭を下げる。

「うん・・・、ごめんね。あの子の事・・・思い出してたら、感情、抑えきれなくって・・・、貴女の部屋の物、壊してしまった。」

「どうぞ、お気になさらずに。なんたって、貴女は『SAAYA様』で、私は、貴女に付き従う者の一人なんだからね」

彼女は、リビングに、少し気の早い冬が到来したように、粉雪のように白く輝いて散らばるガラスの破片を見て、状況を把握したらしい。

「寝室で寝ている時も、『モミジ・・・、モミジ・・・』ってずっとうわ言のように言っていたものね」

そうして、箒と塵取りを持ち出して、素早く灰皿だったガラスの破片を集めていく。

そうして屈むと、彼女の耳に小さな、紅く光るピアスが見える。

ピアスに加工された、あれも『血晶』のアクセサリーの一つだ。校則の為、ピアスの穴を開けられない学生の身分の自分には、縁のない物だった。

名前も知らない‐しかし、沙耶に忠誠を誓ってくれる彼女の家に、沙耶は匿われている。


沙耶に、「邪印」なる、もう一つの、血晶の「刻印」と同等の能力を持つ、紋の存在をSNSでの遣り取りで教えてくれた、あのアカウント主がまさかこの美女だったとは。今も、信じられない気持ちが強いが、あの家出した日、自分を匿ってくれる人を急遽、裏アカウントの方で募集した時、彼女はあのアカウントで反応してくれて、駅の近くに身を隠していた自分をすぐに車で拾ってくれた。

「よく、あんな募集かけたね。沙耶ちゃん。胡散臭い自殺サイトみたいなのに潜んで、狙ってくる男も世の中にはいくらでもいるのに、迷いなく飛び乗ったよね、あの時は」

破片を箒でかき集めながら、彼女は沙耶に言った。

「それも勿論考えたけど、あの時は正直、ブチキレた後だったし、もうどうにでもなれって気持ちだったから・・・。別に、乗った車の運転手がシリアルキラーでもなんでもいいやくらいには。私も冷静じゃなかった。まぁ、私は、勿論、私のフォロワー達を信じていたけどね。そんなゲスな理由であのアカに入って来る奴はいないって」

彼女がいる間、何となく、リビングにいるのが気まずくなって、テレビを付けてみる。奇しくも、「連鎖する心中、自殺!昭和初期以来の、未曾有の『自殺ブーム』の危機か?」とワイドショーが取り上げていた。流しておく。心理学部教授と名乗る誰かが、話している。

『こうした、言ってしまえば安易に、自殺や、心中を美化して盛り上がる風潮には、明治時代の哲学死。有名な物では華厳の滝の事件ですね。そして、今から90年前の、昭和7年、8年頃にも流行っていた若者の自殺ブーム。三原山などがあの時は名所のようになってしまいました。その時に通じる、極めて危険な物を感じます。あの時も心中、自殺に感化され、死に憧れた若者が大勢、服毒や、火山の火口での飛び降りで命を絶つという、死の連鎖が起きました。今起き始めている事は、まさにその繰り返しのように思われます。とりわけ、今回は、知名度もそれなりにはあった女優さん二人が、同性愛者である事を隠した末に、連鎖的に自殺している為か、男性同士、女性同士のカップルの方の心中も少なくないという結果になっていますね』

番組の司会らしい男も答える。

『明らかな集計はまだ不明な物の、関連死では?と思われる自殺、心中による死亡が全国でもう既に数十人から100人は出ているって、これはもう大変な事態ですよね。共通点は、皆が血晶という、新種の宝石をお揃いのように持って、胸のところに変な紋章のような物を入れて、亡くなっている。この共通点は、先生はどうお考えですか』

『それも、明治から昭和まで、しばしば発生した自殺ブームと源流は同じだと考えます。かつても、社会が衝撃を受け、また、同情もしてしまった死に方と、同じ死に方をしていますね。美しい若い男女が、悲恋の末に服毒で心中した時は、同じ毒を一緒に飲んで死ぬカップルが現れましたし、三原山が女学生の飛び降り舞台になった時は、そこが一種の聖地のようになってしまい、多くの人が飛び降りにきた。そして、現在は、血晶なる宝石、更にはSNSの普及が、そうした手段や舞台の代わりを果たしていると考えます。要は、心中や自殺で注目を浴びてしまった人に、あやかりたいという思考でしょうね。昭和初期の日本も、暗い時代でした。社会は昭和恐慌で荒れて、文化も退廃的な物が流行した。戦争の暗い影も出てきていた。皆、何か、汚されない、純粋な美のような物を求めていたし、そうした存在になりたかった。そうした日本人の精神が、今回の血晶も関連した連続自殺や、ネット上の予告での自殺などのショッキングな事件にも源流にあると考えます』

話が長くなりそうなので、チャンネルを変える。

大昔、戦争前の日本にも、自分や椛と何処か、同じような考えを抱いて、死んでいった人達がいたらしい事は分かった。自分が向こうの世界に行った時には、きっと、彼ら、彼女らとは仲良くなれそうだと沙耶は思った。

そんな事を考えていた矢先だった。

「痛っ・・・!」

彼女の声が響いた。テレビの音声から注意が逸れて、茶髪の彼女へ視線が向くと、指から血を流していた。カーペットの生地の中に潜り込んだ、ガラスの破片を指でほじくり出そうとして、指先を切ったらしい。鮮紅色の雫が指先に滲み出し、彼女の人差し指を這うようにして伝い落ちていく。

「何してるの・・・!そんなに念入りにしなくても・・・イライラして、割ってしまったのは私なんだから、もう後は私が・・・!」

沙耶がソファを離れ、指先を押さえている彼女に近寄る。

「駄目だよ・・・、だって貴女は私達の『SAAYA様』なんだから。貴女の手は汚させる事は出来ないわ」

そういう彼女の手を取って、指先を見る。

その、指に絡みつく紅い血を見ていた時だった。

沙耶の頭の中にとある妙案が浮かんだ。これを使えば、自分の血晶の、まだ目覚めていない力を引き出せるかもしれない。

「ねえ、貴女・・・ちょっと、この指の血、拭き取らずに、そのままにしていて」

そう言うと、沙耶は、自分の首にかけていたネックレスを外して、その先の小さな血晶を、彼女の人差し指を流れていく、紅い雫に近づけていった。そして、沙耶の血晶が、彼女の血液を吸った、その時だった。

「ぐっ・・・!!」

胸元の、左右の鎖骨の間の辺りの皮膚に、突然、熱した鉄の先端を押し当てられたように、肌を焼かれるような感覚が走った。沙耶は苦しさに彼女の手をパッと離して、胸を手で押さえて、そのままソファの上に倒れ込んだ。

「沙耶ちゃん⁉どうしたの、大丈夫・・・⁉」

何が始まったのか、咄嗟には理解出来なかった様子で、彼女は沙耶に駆け寄ろうとしたが、それを沙耶は制した。

「ち、近づかないで・・・!どうなるか、分からないから!私の考えが正しければ・・・くっ・・・、これで、『邪印』を発動出来るかもしれない。貴女の血を、いけにえの血として・・・」

『邪印』という言葉を聞いて、彼女も、沙耶が今、何をしようとしているのか、察したらしい。彼女は沙耶に触れようとした手を止めて、胸を押さえ込み、肌を焼かれる苦しみに耐える沙耶を、じっと見守っていた。

痛みに耐えながら、沙耶は、シャツの胸元のボタンを緩めて、じっと、その素肌の上の変化を観察していた。

すると・・・、沙耶の祈りに、悪魔が応えてくれたらしい。やがて、沙耶の素肌の上に、黒々とした線で、沙耶の血晶と同じ、『角板付樹枝』型の紋様が浮かび上がってきた。ネット上の写真で見た事のある、「刻印」とは確かに異なっていて、刻印が紅い線で描かれるのに対し、沙耶に現れた紋様は、黒い線でその紋様は織りなされていた。

その紋様が肌に浮かび上がったのを見届けた瞬間、沙耶の頭の中は、歓喜に満たされた。次第に痛みが引き始め、息を整えながら、沙耶はうわ言のように喜びの声を発した。

「やった・・・、やったわ・・・!ありがとう、貴女がいけにえとして、血を捧げてくれたおかげで、私は、念願の『邪印』を手に入れる事が出来た!これを見て!」

そう言って、沙耶は胸元の、黒い『邪印』を、功労者である彼女に見せる。

彼女は、体を震わせながら、この奇跡の瞬間に立ち会い、沙耶の肌の上の紋様を眺めていた。

「わ、私の血で、沙耶ちゃん・・・『SAAYA』様が邪印を・・・!」

「そう。貴女が、私の事を強く信じてくれたから、その力が貴女の血液を介して、私の血晶の力を覚醒させてくれた」

ネックレスの血晶を掌に乗せてみると、明らかに熱を孕んでいた。彼女の‐いけにえの血を吸った血晶は、純粋な真紅から、仄暗い紅に、色を僅かに暗くしていた。沙耶の血晶自体も、邪印を発動させた事で、変化し始めているらしい。

これで、椛と茜だけでなく、自分も、刻印に相当する物を手にする事が出来た。

「でも・・・これで、もう後戻りは出来ないわよ、沙耶ちゃん。前にも言ったように、邪印は、刻印とは違う。恐ろしい速度で体を蝕んでいって、死へと一直線に向かっていく・・・。力の使い方を誤って、力に溺れればすぐに死んでしまう事だってあり得るの。どうか、それは忘れないでね」

満足感に浸っていた沙耶に、年上らしく、諭すように彼女はそう言った。彼女にとっての沙耶とは、ネットの世界で崇拝してきた『SAAYA』として、だけでなく、庇護したい存在でもあるらしい。

邪印の力に溺れれば、すぐに死ぬ事もある・・・。そうした実例を見た事があるかのように話す、彼女の口ぶりに、沙耶は違和感を覚えた。

そもそも、彼女は、血晶が、人を死に至らしめる程の力を持つ邪印の存在をどうやって知ったのか。それがずっと、沙耶には不思議だった。

「・・・まるで、そうした人を見た事があるかのような口ぶりね。というか、邪印の話を貴女から最初に聞いた時から、不思議だったんだけど、どうして、そんなに血晶の事、というか、殆どの人が知らない邪印の事にそんな詳しいの?」

沙耶は、その疑問を口にしてみる。

すると、彼女は、表情を強張らせた。その反応を見ただけでも、彼女と、血晶の邪印の間には、何か、深い因縁がある事は明らかだった。

SNS上では沙耶のフォロワーだったとはいえ、まだ現実世界では昨日の今日、出会ったばかりの相手の彼女だから、知らない事だらけなのは当然ではある。

それでも、頭が冷えて来て考えてみたら、彼女は不可解な点だらけだ。20代らしい事は分かるが、それにしては勤めている節もないし、在宅で何か仕事をしている風も、部屋の様子からは、全くない。それにも関わらず、分譲のマンションの立派な部屋に住んでいる。そして、小綺麗というよりも、生活への拘りがないのか、彼女には、血晶以外に、何の趣味もないようで、必要最低限の家具しかない。生活感のない部屋だった。一体、どういった経緯で、どんな暮らしをここで営んでいたのか、沙耶は全く想像がつかなかった。

「私は、いらない子だから・・・。ちょっとした事件を起こしてしまってね、親に、この部屋に押し込められたの。お前が生活に困らないだけの金は出すから、もう世間に顔を出すな、ここでじっとしていろってね」

彼女は、そんな事を語りだした。事件という言葉に、沙耶は引っ掛かる。

「事件って・・・、もしかして、その事件には、これが、関わってる?」

ネックレスの先の、少し暗赤色になった血晶を摘まみ上げて、彼女に示すと、彼女はこくりと頷く。やはり、彼女は過去に、血晶の事、そして邪印の事で何かあったのだ。それも、自分の家から追い出され、この一室に閉じこもって、世間に出るなとまで言われる程の何かが。

「察しの通りよ・・・。でも、その話をすると長くなるし、今日は、私、いや、私と、『SAAYA』様を慕う皆にとっての、おめでたい日なんだから、これ以上はよしましょう。『SAAYA』様は血晶の力を、無理やりにとは言え、引き出せるようになったのだから。その邪印を使えば、人の心を自在に操る事さえ可能よ。相手が血晶を持ってさえいるなら、例えば貴女が『死ね』と命じるだけで、相手を自殺させる事だって出来る。もう、神様になったような物なんだから」

言葉の末尾に、『でも、・・・の邪印は・・・失敗だった』と、彼女がそう呟いたような気がした。

「その言い方だと、神は神でも死神になったみたいね、私は・・・」

沙耶がそう言うと、彼女は少し笑った。そして、人差し指の傷に絆創膏を巻くと

「私達に、この世界にサヨナラをさせてくれる、可愛らしい死神様の誕生を祝して、今日は乾杯ね。私、買い物に出かけてくるわ」

そう言って、彼女は、寝室の方に着替えに行った。

沙耶はそう答えた。これ以上の彼女への詮索は、今日はやめておこう。

今は、裏切り者の椛と、憎むべきあの女-茜の二人への、復讐に専念するべきだ。自分は死神に等しい力を手に入れたのだ。血晶と邪印によって、命を削られていく事さえ、別に今の自分には、怖くはない。もう、あの家にも、学校生活にも戻る気はないのだから。

さて、何から始めるのが、あの二人を、更には、自分を抑圧してきた柊木家を効果的に苦しめる復讐となるか。

彼女が買い物に出かけていった後、沙耶は再びソファに体を預け、天井を眺めながら考えた。椛が一番嫌う事をしてやるのが効果てきめんだろう。

椛は、昔からこう言っていた。『僕自身が生きるのも死ぬのも、極端に言えばどうでもいい。だけど・・・、僕の前で、沙耶とか、大事な人が傷ついたり、誰かを傷つけたりするのは嫌だ』と。椛のそうした部分を、彼女は優しい人間だと沙耶は思ってきた。

今は、椛のその信条を上手く利用して、自分が、この世界に『死』をもたらす、死神になればいい。椛の、沙耶を大切に思う気持ちが残っているなら、沙耶が誰かを傷つければ傷つける程、椛は一人、勝手に苦しむ事になる。

そして、今の自分は、忠実な付き従う者達がネットの世界にいて、彼ら、彼女らを死に誘う事も出来る能力まで手にいれた。この血晶の邪印の力があれば、人の心まで操れるのだから。

SNSの、自分の裏アカウントを開いてみる。この部屋の主人である彼女のアカウント名で、「SAAYA様が血晶の邪印を手にいれた」というメッセージを、早速皆に伝えたらしく、祝福の声が沙耶への返信欄に溢れている。死神の誕生を皆が喜んでいた。

「ここに集まってくれる皆なら、私の思う通りに動いて・・・たとえ命を絶つのを躊躇いそうになっても、私の邪印の力で強制的に操れば、死んでくれる筈。それが、例え、大勢の人が集まるような場所、公衆の面前であってもね・・・」

沙耶はほくそ笑む。

シナリオは、素早く頭の中で組み上がった。このシナリオを実行に移すには、自分のフォロワー達だけでなく、この部屋の主人である「彼女」の協力も不可欠だ。血まで捧げてくれた彼女ならば、きっと、何処までも沙耶に従ってくれる事だろう。

「椛の心に傷を負わせれば、自然にあいつも‐穂波茜も苦しむ事になる。一緒になって私を裏切ったあの二人には・・・、死神の鎌を振り下ろしてやるんだから」


そうして、沙耶は、椛に半ば、復讐の予告として、あのメッセージを送り付けたのだった。

その夜、沙耶は裏アカウントのフォロワー皆に向かって、こう、メッセージを発信した。

『今、この世界にサヨナラをしたい人がいたら、私に返信して。私が、皆に、死に場所を与えてあげるから。私はこの邪印の力で、皆の命を世界から解放する。その美しい瞬間へ案内する、死神になる』

かつての学校のアイドルが、皆を死に誘う、「死神」へと生まれ変わった瞬間だった。

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