第14話 牢獄と、母性への歪んだ渇望

椛は、柊木家の正門のベルを鳴らす。冷たい秋風の中、茜は緊張に身を硬くして、椛の隣に立っていた。

霧島家に負けず劣らずの、豪奢な西洋風の2階建ての邸宅で、正門の向こうには、黄や赤に染まる木の葉に梢を彩られた木が並び、青々と茂った芝生も見える、立派な庭がある。流石は、市内でも有名な、霧島家と双璧を成す名家の家だと、茜は思った。

椛は、やがて玄関のインターホンに出たお手伝いらしき女性の声に「霧島椛です」と、何ともない様子で答える。椛の名前を聞いた瞬間に、彼女も「お嬢様のお父様、お母様の二人にも、椛様が来られた事をお伝えします。お入りください」と言って、即座に門を、自動で開けてくれた。その門を、自分のような人間が気安く通って良いものだろうかと尻込みしていた茜と正反対に、椛は何ともない様子で、柊木家の門を通り、家の扉の方へ歩き始めた。茜は慌てて、その一歩後ろを歩き、追いかける。

その慣れ切った様子から、幼い頃から何度となく、彼女が沙耶の家に来た事があるのが察せられた。

それを見ていただけでも、茜は、また気持ちが少しずつ淀んでいった。そこに、今の自分では到底敵わない、椛と沙耶の二人が築き上げてきた関係の強さや、共に過ごしてきた時間の長さを感じ取ったから。

ここでは、沙耶がいる訳でもないのに、何となく、椛の横を対等な「友達」として並んで歩く事も気が引けて、家に通してもらうまで、ずっと茜は椛の一歩後ろにくっつくようにして、顔も俯き気味にして歩いた。こうしていると、次第に自分が惨めになってくる。

そして、この非常事態の最中ですら、椛と沙耶の結びつきの深さを感じると、明らかな「嫉妬」を抱いている自分に、茜は嫌気が差す。

『ああ・・・、まただ。柊木さんが、こんな一大事になってるっていうのに、私は、こんな気持ちになって・・・。今は、柊木さんに嫉妬なんてしてる場合じゃないのに。椛も、あんなにショックを受けて・・・、早く柊木さんを見つけ出さないといけないのに』

椛は、きっと今は、沙耶が何処かに消えてしまった事への衝撃で、頭はきっといっぱいだろう。茜とはこうして行動を共にしていても、今の椛の関心は、完全に沙耶に向いていて、そこに茜の入り込む余地はない。

椛と違って、茜は自分の事を椛がどう思ってくれているのか、結局そればかり考えてしまっている。椛の方は、大切な幼馴染の事を心配して、行動しているのに、茜の方は、考えているのは結局自分の事ばかりだ・・・。そう思うと、椛に比べて、自分の人としての器の小ささを思い知り、また自己嫌悪を抱く。

そんな事を考えていたからか、椛に呼ばれているのにも、一瞬、茜は気付かなかった。

「茜、どうしたの?一緒に中に入ろう」

気付けば、柊木家のお手伝いが扉を開けて、椛と茜が家に上がるのを待ってくれていた。茜は、ペコリと頭を下げて、椛にくっつくようにして、柊木家に上がった。

お手伝いの美しい女性は、椛とはすっかり面識があるらしく、こう尋ねてきた。

「ところで椛様。気になっていたのですが、そちらのお方は、新しい、学校のお友達ですか?いつもうちに来られる時はお一人なのに、珍しいですね」

美しくも、何処か、冷ややかにも感じる瞳で、彼女から見られている気がして、茜は、思わず、椛の背中に殆どぴったりくっつくようにして、身を隠す。どうやら彼女からは、茜は、素性も分からないまま、何故か椛と一緒に家に入ってきた者として、完全に怪しまれている。

完全に、この家に出入りするのに相応しくない余所者として、茜は見られている。沙耶の家は、茜にとって、決して居心地の良い場所になる事はなさそうだと、直感した。

そんな事を思っていた矢先に、茜は、左手がそっと温かい物に包まれるのを感じた。はっとして手を見ると、お手伝いの女性からは見えないように、背中の後ろの方に手を回して、茜の手を、椛が握ってくれていた。その上で彼女は、こう言ってくれた。

「はい。紹介がまだでしたね。彼女は僕の、新しい友達の穂波茜です」

椛が先に言ってくれたおかげで、茜も少し名乗りやすくなる。

「ほ、穂波茜っていいます。も・・・じゃなくって霧島さんや、柊木さんとは同級生で、その、い、色々あって仲良くなりました」

と、しどろもどろになりつつも何とか自己紹介出来た。お手伝いは、まだ、胡散臭そうな目で茜を見ており、信用していないのは明らかだったが、それ以上の関心も特にはないようで、その後は、特に茜に話を振る事もなく、沙耶の両親が待つリビングに案内してくれた。

「気にしないでいいからね。沙耶が、僕以外の学校の友達は基本的に、誰も家に上げない主義の子だから、何か変な目で見られるかもしれないけれど、茜は、僕の友達として堂々としてればいいから」

椛はさっと後ろの茜に振り向くと、そう言ってフォローしてくれた。

リビングでは、会社を早退してきたらしい沙耶の父親と、そして母親がソファーに腰を下ろしていた。沙耶の両親は、リビングに案内された椛と茜の二人を見て、椛には、嬉しそうな目を向けたが、茜には「お前は誰だ」と言わんばかりに、不審そうな目を向けた。沙耶とは殆ど接点のない自分が、椛と一緒にとはいえ、いきなり沙耶の家にやってきたのだから、それも当然の反応ではあった。

「沙耶お嬢様のお友達の、霧島椛様と、椛様のお友達の穂波茜様がお見えになりました」

沙耶の両親にそう言ってから、お手伝いの方は、キッチンに向かうとお茶を入れる準備をし始めた。

人の家に上がるというのは、その相手とどれだけ親密であっても、多かれ少なかれ、気を遣う物である。ましてや、殆ど学校で関わりもなかった、学校のアイドルの沙耶の家ともなれば、尚更、茜は気まずかった。ただでさえ、友達の家に行った経験など小学校以来、殆どないというのに。

沙耶の両親が、お手伝いから、「穂波茜」という名前を聞いた途端に、奇妙な反応を示した事も、茜には気になった。その名前を耳にするや否や、二人は一瞬、顔を見合わせた。そして、沙耶の母親がひそひそと

「ね、ねえ、あなた・・・。茜って・・・、もしかして、昨日、あの子が言っていた・・・」

そう、隣にいる、父親の方に話しかけたのだ。

一体、どうして初対面の筈の、沙耶の両親が茜の名を知っているのだろう?沙耶と茜は、直接関わった事など皆無に等しい筈なのに・・・。

テーブルを挟んだソファに、茜と椛、沙耶の両親は向かい合って座る形になった。

椛は、早速、しっかりとした口調で、こう、二人に尋ねた。

「概ねの事情は、沙耶のお母さんからのお電話でも、沙耶とも面識がある友達の方からも聞きました。昨日の夜に、沙耶が・・・沙耶のお父さん、お母さんと喧嘩になって、家から飛び出したって・・・。一体、昨日の夜、沙耶と、お二人の間に何があったんですか?」

椛の問いかけに、二人は、表情を曇らせ、黙り込む。非常に口が重たい様子である。余程言いづらい何かがあるのだろうか?

沙耶の母親は、それでも、いつまでも黙っている訳にもいかないと、ようやく意を決したらしい。憔悴しきった表情で、彼女は、椛と茜にこう尋ねてきた。

「椛ちゃん・・・。そして、穂波茜さん?だったかしら?今からする話は、すごく、二人にとっても、ショックの大きい内容になると思う・・・。私達だって、沙耶が、家族に隠れてあんな事をするような子だったなんて、夢にも思ってなかったし、まだ受け入れられないでいるくらいだから・・・。それでも、全部、昨日何があったのか、椛ちゃんも、穂波さんも、話を聞く心の準備はある?」

その切迫した物のある表情だけでも、単なるちょっとした親子喧嘩からの家出などではない、もっと、重大な事態が沙耶に起きている事はもう明らかだった。

それも、今の沙耶の母親の口ぶりからだと、沙耶の異変には、幼馴染の椛だけではなく、茜も関係があるらしい。緊張が高まり、茜は、ごくりと生唾を飲み込む。

しかし、話を聞かない事には、椛も茜も、ここからどうする事も出来ない。

話に割って入るような形にはなったが、茜は勇気を奮って、沙耶の両親に言った。

「わ、私は知りたいです・・・!どんな、ショックな内容でも、と、友達の霧島さんの大事な幼馴染の子が、大変な事になってるのなら、何が起きたのか、全部・・・!」

『霧島さんの大事な幼馴染の子』。そう、言葉で発した時に、またも胸に走った、鈍い痛み‐、血晶の反応とは関係のない、鈍い痛みには気付かないフリをしながら。

茜の言葉に、隣の椛も、驚いた顔をしていたが、やがて、表情を引き締めると、

「僕も、彼女と同じです。沙耶に何があったのか、事実を全部、知りたいです」

と言った。


そして二人は、沙耶の両親に案内されて、沙耶の部屋に通された。

茜は、そこで、目にする事になった。いつも、学校では、椛と共に、「陽キャ」と称される女子グループの取り巻きの中にいて、学校のアイドル的存在として祭り上げられていた、沙耶の裏の顔を。

最初に部屋に入った時、ふわふわとしたカーペットの上に、何かの機械が力任せに叩き壊されて、散らばっているのが目に付いた。無惨に打ち壊されたそれは、黒い破片、部品を部屋のあちこちに散乱させて、原型が分からない。

更に、ベッドのシーツには紅いしみが点在しており、赤黒い何かが付着した、鋏が、その二本の刃を開いたままの状態で、カーペットの上に転がっていた。

「何、これ・・・。滅茶苦茶じゃん・・・」

隣で、椛も、沙耶の部屋のあまりの惨状に、流石に茫然として、そう呟いていた。

ベッドの枕の傍や、机の端などに並べられた、人気のキャラクターグッズの可愛らしいぬいぐるみやティッシュ入れなどと、沙耶の感情の爆発をそのまま体現したかのような、床に散らばる、真っ二つに折れたノートパソコンや、本棚の本、そして、謎の機械の黒い破片などが、同じ空間に共存しているのは、違和感しかない光景だった。

「昨日、私が、この部屋に、『もう学校に行かない』と言って沙耶が籠った時に、無理矢理、お母さんと一緒に押し入って、厳しく説教したんだ・・・。そしたら、そこから、沙耶がもう錯乱したようになってしまって、御覧の有様だよ・・・」

茜と椛の後ろから、沙耶の父親がそう言った。語尾は、半ば、深い溜息に混じっていた。

「・・・どうして、沙耶は急にそんな風に・・・?家が厳しいっていうのは、沙耶からよく聞いてはいましたけど、そこまで錯乱して、こんな、部屋を滅茶苦茶にするまで感情を爆発させるなんて・・・。それに、さっきから気になっていた、あの床の上の、壊されてる機械は、何ですか・・・?あんなのが、沙耶の部屋にあったなんて、知らなかった・・・」

椛もあまりの、沙耶の部屋の乱れぶりに困惑を隠し切れない。

椛の問いを聞いた瞬間に、沙耶の両親の顔は曇った。

「・・・それの正体は・・・、盗聴器だよ。厳密には、拾った音をその機械で沙耶は聞いていたんだ。犯罪行為をしていたんだよ、あの娘は・・・。昨日、自分でそう言っていた」

父親は苦々し気に、そう語った。

盗聴器・・・?あまりに、日常生活とは解離したその言葉に、茜は現実味が湧かない。そんな物がどうして、学校のアイドルの沙耶の部屋に?そして、それで一体沙耶は何を聞いていたというのか?茜の知る、学校での沙耶の姿と、この部屋で、盗聴器で何かの音に耳を澄ます沙耶の姿。二つが、頭の中で全く繋がらず、疑問符は湧き続けて止まらない。椛も、同じ気持ちのようで、徐々に表情が青ざめ始めていた。

答を知るのも恐ろしいが、茜は、恐る恐る、沙耶の両親に尋ねた。

「い、一体、柊木さんは、あの機械で、と、盗聴器なんか使って、何を聞こうってしていたんですか・・・?」

「・・・椛ちゃんの話し声だよ。あの子は、『椛ちゃんの鞄の底に、集音マイクを仕掛けてやった。椛ちゃんに、変な虫が寄り付かないように見張るために』って、私と母さんの前で自白していた・・・。椛ちゃん。今すぐに、その学生鞄の底を調べてみなさい」

沈痛な面持ちで、沙耶の父親は語った。

「・・・ひっ・・・!!」

聞いたこともないような、声になりきれない悲鳴と共に、ドサッと鞄が廊下に投げ出される音がした。流石の椛も、まさか、一番の、唯一の幼馴染に盗聴器のマイクを鞄に仕掛けられていたなど、想像だにしなかったのだろう。顔は真っ青になって、普段の余裕はもうなかった。

「き、聞いていた・・・。学校でも、そ、それに家の僕の部屋でも、僕が誰と何を話してるかを、全部、盗聴器で・・・?う、嘘だ・・・、沙耶が、そんな、犯罪行為をする訳が・・・」

口ではそう言っているが、投げ出した鞄を、拾い上げて探す度胸は椛には、もうないらしい。代わりに茜が、震える手で、椛の鞄に手を付ける。そして、丁寧に鞄から、綺麗に並べられた参考書やノート類を引っ張り出し、鞄の底を覆っている板に指先が触れた。その鞄の底を指でなぞっていくと・・・ある一カ所に、生地を切られたような、破れた後があった。そこに茜は指を突っ込んでいく。すると、固い物に指先が当たった。

「あったよ・・・、き、霧島さん・・・!こ、これって」

小さなマイクのような黒い機械が鞄の底板の下に、仕込まれていた。それを見つけららしい。震える指先で茜はそれを持って、椛に、そして沙耶の両親にも見せた。

椛は、そのマイクを、ブルブルと揺れている掌の上で受け取ると、完全に血の気が失せた蒼白な顔で、うわ言のように呟いた。

「嘘だ、嘘だ・・・、なんで、沙耶がこんな真似を・・・。どうしてこんな物を、僕の鞄に仕込んだりなんか・・・!」

沙耶の母親が、今度は口を開く。

「私達が、沙耶の部屋に押し入る前にガシャンって凄い大きな音がしたから、何だろうと思っていてね。それで、無理に入ってみたら、あの、見た事もない機械が散らばっていたから、二人で『一体、何なの、この機械は!!』って問い詰めたら、全部白状したわ。『椛の鞄の底のマイクから拾った音を、これで聞いてた。椛が私を裏切って、あのアカネっていう女を自分の部屋に上げて、約束を交わしたのも、全部ね!』って・・・。だから、もしかして、穂波さんの名前を聞いた時、関係あるんじゃないかって思ったの。貴女も、茜さん、だったわよね?」

今度は、茜が、体中の血液がさっと、足の方へと下がっていくような、めまいがするような感覚に見舞われた。『アカネっていう女』とは、文脈からして、自分の事以外には考えられない。あの、血晶の刻印に導かれて、椛と契約を交わした日の事も、そして、茜の刻印が濃さを増して、椛が操られそうになった日の事も・・・沙耶は全部、聞いていた。

そう考えたら、保健室で沙耶が自分の胸元にカッターで、刻印を自ら刻み込もうとする凶行に及んだあの日。まるで彼女が、茜と椛の二人の、刻印による契約を知っているかのような口ぶりだったのも、全て説明がつく。やはり、沙耶は知っていたのだ。茜と椛の会話を盗み聞く事で。

「学校から飛んで帰ってきて、部屋に引っ込んだ時から、沙耶の様子はもう、常軌を逸していたわ・・・。全く返事もせずにずっと部屋に閉じこもっていて・・・、それで父さんと一緒に、力づくで入って、父さんがあの子をビンタしたの。『親が呼びかけてるのに無視し続けて、挙句にもう学校に行かないなんてどういうつもりだ!!』って、激しく叱って。そしたら、部屋はもう滅茶苦茶で・・・、おまけに、手首はリストカットの痕だらけで・・・。それをし、指摘したら、完全に錯乱して。手が、付けられなくなってね・・・」

そこで、昨日の惨事を思い出したのか、沙耶の母親は手で口を覆い、嗚咽を零した。父親が「お前は少し休んでいなさい。もう、後は私が話すから」と、その背をさすって、気遣った。

茜は、そっと、部屋の床に落ちている、赤黒い物がこびり付いた、鈍い銀色に光る鋏を見つめた。シーツにも真新しい紅いしみがある。きっと、昨日もこの部屋で、鋏でリストカットを行ったのだろう。

「沙耶・・・!リスカは、自分の体を無意味に痛めつけるだけだから、もうやめてって、前からずっと言っていたのに・・・」

椛は、唇を噛み、ぎゅっと拳を握りしめる。彼女のリストカットを止められなかった自分への悔いが、滲み出ているようだった。

茜も、沙耶が前からリストカットを度々していたらしい事は、保健室での椛と彼女のやり取りから知っていた。

きっと、やり場のない、怒り、哀しみ、憎悪・・・そうした、どす黒く渦巻く感情を、体の外に放出する、手っ取り早い術が、沙耶には他になかったのだろう。何となく、そう察する事は出来た。

沙耶の、爆発した感情の残り香が、まだ生々しく漂っているように感じられる部屋の前で、茜と椛はしばし、無言で立ち尽くしていた。

立ち尽くす二人に、話を締めくくるように、沙耶の父親はこう話した。

「でも、何より、決定的にあの子と、私達が決裂してしまったのは・・・、あの子が・・・同性愛者である事を昨日、本人から聞かされてしまった事だよ。あの子は、言ったんだ。『今の今まで、私が同性愛者なのも、椛を愛してるのも知らなかったくせに、親の面しないで!!』って、そう言われたから。ショックだったし、治さなければと私も母さんも必死になってね。椛ちゃんに盗聴なんて犯罪行為までして執着した挙句に、その執着の理由が同性愛だったなんて。とてもそのままにはしておけないだろう?だから、もう今日にでも、柊木家の知り合いに医者がいるから、そのつてで精神病院に押し込む気でいたんだよ。そしたら、夜中に逃げられ、この始末だ・・・。椛ちゃんにストーカーまがいの事はする、リストカットはするし、興奮して、こうして物は投げて破壊するし、とてもあの子は正気じゃなかったから。こんな結末になるなんて、どこで、教育を間違えたというんだ・・・私も母さんも、あの子の教育は、完璧にやってきた筈だったのに・・・!!」

話の最後の口調からは、沙耶の暴走、失踪を止められなかった事よりも、自分達の、家庭の教育方針で間違えたのかという事への、彼の後悔が滲み出ているようだった。

そこまで聞いたところで、茜は、ある事を察してしまった。

『この人も、お母さんも、柊木さんの事・・・同性愛者である柊木さんの事は愛していないんだ・・・。二人が求めてるのはあるがままの姿ではなく、自分達の理想の姿を、そのままに演じてくれる人形みたいな、柊木さんでしかなかったんだ』

同性愛者だったから、沙耶は異常な行動に走った。自分達の教育の失敗作だ。だから、彼女を矯正しなければならない・・・。そうした意識は、未だに沙耶の父親は隠そうともしていなかった。

『こんな家ならば・・・柊木さんが、椛と同じように、こんな世界にサヨナラしたいって、思った気持ち。今なら、分かる気がするよ・・・』

初めて、茜の中にも、沙耶への同情の気持ちが湧いてきた。

椛も、複雑な表情をしていた。今の、沙耶の父親の発言に、かなり思うところはあるのだろう。

彼女は、毅然とした口調でこう言った。

「出過ぎた真似かもしれないけど、そんな言い方・・・、あんまりだと思います。確かに沙耶がした事は間違ってる。でも、同性愛だから、異常な訳なんじゃない。その言い方では、沙耶が同性愛者になったのは、教育に失敗したからで、沙耶は失敗作って、言っているように僕には聞こえます」

その言い方に、沙耶の父親は露骨にむっとした表情を浮かべる。

「いくら君が、うちとは縁の深い霧島家の娘だろうと、うちのやり方に口を出してほしくないね。沙耶は、将来的には上場企業社員か、医者か弁護士の男と結婚させると決めて、今まで私も母さんもやってきたんだ。まだ子供の、何も分かってない君に、うちの教育に何か言う資格はない。それとも、あんな犯罪までした沙耶の愛情に応えて、君が、沙耶の夫になるとでも言うのか。そうなったら子供だって、同性同士では産めないから、我が家の血筋は途絶えてしまう。その責任が、君に取れるのか」

容赦のない口調だった。沙耶の失踪を目の当たりにしても、彼の考え方は何も変わっていないことが、茜にも伝わった。

そして、「沙耶の愛情に、椛は応えるのか」という、その問いを、椛にぶつけてきた時、茜の心臓は跳ね上がった。茜にとってそれは、今、椛に一番聞いてほしくない質問だったから。

返事を聞くのが怖い。険悪な空気を漂わせて、沙耶の両親とにらみ合う、椛の横顔を見る。椛の唇が、やがて動く。

「-僕は、同性愛者じゃない。だから、柊木さんがそうであって、僕の事を本気で好きでも、彼女の気持ちに応えるつもりはありません」

すらすらと答える椛の瞳に、偽りの色はなかった。

そう言い終えたのを聞いた瞬間、こんな空気の中というのに、茜の心は喜びに包まれていた。沙耶の両親の手前、言葉はいくらか変えていたが、椛の「沙耶と恋心を通わせる気持ちはない」という意思に揺らぎがない事が、保証されたように感じたからだ。

‐次の瞬間には、また、強烈な嫌悪に陥ったが・・・。沙耶は間違いなく、今も何処かで、椛への思いを抱いたままで苦しんでいる。そんな彼女を差し置いて、椛の隣という場所を確保出来た事に、喜んでいる自分に対しての、自己嫌悪に。


「くれぐれも、沙耶が、同性愛者だったっていう事については、学校の皆には言わないで頂戴。椛ちゃん、それに穂波さん。約束出来るわね」

帰り際、まだ目を充血させて、泣き腫らした痕のある、沙耶の母親に、縋るように、何度もそう、茜も、椛も念を押された。沙耶の性的指向を知られる事を、本気でこの母親も、恥だと思っているようだ。

もう、茜はこの家にいたくなかった。この両親の話を聞けば聞くほど、沙耶が家で自分の気持ちを押し殺して生きていたかを思い知り、息が苦しくなってくる。

柊木邸からの帰り道、落ち葉を踏みしめ、歩きながら、しばらく、茜も椛も黙っていた。冬に向かって、日の暮れるのも早くなり、木枯らしが頬を冷やした。

「・・・私、今日、初めて、柊木さんの苦しみが分かった気がしたよ。あの家で、息が詰まりそうな毎日を送っていたんだろうね・・・」

あの家の外に出られて、少し息が楽になったような感覚がする。茜がそう零すと、椛も答えた。

「あそこの、沙耶のお父さん、お母さんは昔から何にも変わってない。ずっと、沙耶はそのせいで、気持ちを押し殺して生きていくしかなかった。あの家は、僕に言わせたら、沙耶の『牢獄』だったよ。あの子の気持ちを幽閉する、ね」

沙耶の『牢獄』・・・。それならば、そこから失踪した彼女は、少しでも自由を得られているのだろうか。

しかし、沙耶の感情はまだ解放されていない。彼女の思いは、未だ、椛に絡みついている。

「沙耶が、このまま、何処かに消えて、身を隠したままだとは思えない。あんなものまで使って、僕と茜の会話を聞いていたのなら、尚更ね。あの子が、復讐心に燃えてる可能性もある。僕や茜を、襲いにくる可能性だって十分にあるし・・・、出来る限り、二人一緒に行動するようにしよう。襲われるリスクを減らす為に」

茜も頷く。彼女はさぞ、自分を憎んでいる事だろう。これから先、沙耶が茜に何かしらの手段で襲ってくる危険は大いにある。それに、沙耶には、茜に復讐する資格もある。茜は、沙耶から見れば、横からいきなり、椛をさらった泥棒猫に他ならないのだから。

だから、思わず茜はこう言った。

「・・・私はいいよ、柊木さんに、殺されたって・・・」

椛が立ち止まる。

「茜!何を言い出すの⁉」

「だって、柊木さんが壊れてしまったのは、私が、椛に近づいたのを、知ってしまったからでしょう?盗聴ではあったけど。血晶の刻印の導きに惑わされないで、私が現れなければ、柊木さんと椛はずっと、特別な二人でいられた。恋人にはなれなくても。なのに、私が現れたせいで、こうなったんだよ・・・?やっぱり、私が悪いんだ・・・。柊木さんが、もしも私を殺したいって思ってるなら、その時は、私・・・」

殺されても構わない、と言おうとしたところで、椛に正面に回られ、そのしなやかな人差し指の先を、茜の唇に当てられ、口を閉ざされる。

「それは駄目!馬鹿な事を言わないで。茜を絶対、沙耶には殺させない」

「どうして?私が、この世界にサヨナラをしたい気持ちでいるのは、椛も知ってるよね?だから、あの血晶の契約だって結んだ。でも、これ以上、二人の関係を壊してしまうくらいなら、自分で命を絶つのも、柊木さんに殺されるのも同じ・・・」

「茜、それは違うよ・・・!」

椛の声が少し大きくなり、茜の言葉を半ば強引に断ち切った。

「『自分で決めて』死んでいく事と、理不尽に、突然命を奪われるのは、絶対同じなんかじゃない。この世界に、僕と茜が別れを告げる時は、自分の意思で選んだ時でなきゃ駄目なんだ。僕が、僕自身の意思で生きるのも死ぬのも、極論を言えばどうでもいい。だけど、僕の前で大切な誰かが、傷つけられたり、死んだりするのは絶対に嫌だ」

椛の言葉に必死さが宿る。

「僕は、生まれながらにして、母さんを傷つけてしまったから・・・。もう、これからは、大切な人にもう、目の前で傷ついたり、誰かを傷つけたりなんか、してほしくないんだよ・・・。茜も沙耶も、どちらにも・・・。」

その言葉を聞いた時、茜は、椛の気持ちを悟った気がした。


以前、「血晶を選んだ時、人生でたった一度だけ、女性としての僕を、母は褒めてくれた」と、嬉しさと哀愁の入り混じった表情で語っていたのを思い出した。

椛は、女性である事を、親に否定されるところから人生が始まって、生きてきた。それでもなお、椛は今も、母の事も何処かで愛しているし、大切にしているのだ。そうでなければ、今の言葉は出てこない。

その、彼女を、生まれながらにして‐出産時の、大量出血で子宮を失うという形で‐、癒えない傷を負わせた事を悔いているから、茜も、沙耶も、傷つけたくはないと願っている。

茜は、椛の求める、二人の命を賭した「特別な繋がり」の先には、きっと、限りなく「母性」に相似した観念があるに違いないと、この時、確信した。

「・・・そうか、そういう事だったんだね」

茜が、急に達観したような口ぶりになったのを見て、椛は少々驚いているようだ。


だから、もっと驚かせてやろう、という気持ちも手伝って、茜は背伸びをして、そっと、椛の背中に手を回して、柔らかく、抱き締める。

「えっ・・・⁉」

予想通り、茜の不意打ちは効果抜群であり、椛が固まった。

背の高い椛を包み込むには、茜は体格も華奢で、背丈も低かった。それでも、茜は椛の耳元まで頑張って顔を近づけ、こう言った。

「椛の気持ち・・・教えてくれてありがとう。そんな風に思ってくれてたんだね。椛の気持ちを知らないまま、馬鹿な事、言ってしまってごめん。私、もう、柊木さんに、殺されてもいいなんて、絶対言わないから・・・。あと、嬉しかった。私が大事だから、傷つけられるところなんて、みたくないって・・・」

「あ、当たり前でしょう⁉もう茜は、僕にとってどうでもいい他人じゃない。特別な人なんだから・・・」

いつかの仕返しに、椛の気持ちを揺さぶり返してやりたくなって、茜はこう付け加える。

「でも、それは血晶の刻印の事だけが理由じゃないよね・・・。椛は、その特別な関係の先に、もっと強い結び付きを求めてる。椛は、お母さんの事、完全には憎み切れていない。今でも、咄嗟に、傷つけたのを悔やんでる事を言ってしまうくらいに。ずっと、母性みたいな物が、甘えられる相手が、欲しかったんだよね。」

「は、はぁ?そんな・・・僕を、面倒くさいマザコンみたいに言わないで・・・」

「じゃあ、どうして、今、私の背中に手を回したの?」

茜がそう言って、やっと椛は、自分も手を回して、茜の体に抱き着くようになっている事に気付いたらしい。こちらが攻めに回ると、存外、椛は弱い部分があると分かった。

「・・・なんか、こうしてると、安心するから。人の肌ってあったかいんだなって思って・・・。うちの家風が厳しいのもあったから、母さんにべたべた抱き着くような真似は、許されなかったから、ほっとするのに何だか新鮮な感覚・・・」

ポツリ、ポツリと椛はそう話した。

「私じゃ、椛を包み込めるような力は、ないかもだけど、椛の、歪んだ母性を求める気持ちにだって、答えてあげたいって思ってるよ。今はもう、血晶のおかげだけじゃない、特別な関係だからね」

茜の言葉に、椛も、顔を茜の肩に乗せるようにして、言った。

「変な言い方・・・、つまりは、僕の歪んだ、満たされない母性への渇望に、茜が気付いてくれたって事かな」

「これで、やっとおあいこだね」

「茜、それってどういう事?」

「私も、初めての気持ちを、椛にあげられたって事!今までは、私の方が、貰ってばかりだったからね。この前、私の血晶が反応した時、言ったでしょう?」

椛の頬が火照ってきたのが分かった。そして・・・

「うっ!」

椛は、茜の体から離れると、自分の胸元を急に押さえた。丁度、彼女のネックレスの血晶が皮膚に触れている辺りだ。

「今、血晶が凄く熱くなって・・・、胸の刻印が焼けるような感じがした・・・。僕の感情と、リンクしてるみたいに」

街路樹の下のベンチに二人で腰を下ろして、椛の胸の、刻印の痛みが引くまで待つ事にした。

茜の両親は徹底した無関心だから、帰る時間が多少遅くなったくらいでとやかく言われる事はない。夕飯もとっておいてくれるから、あとで温めれば良いだけだ。時間はあった。


椛はこの時、自分のスマホに、一件のメッセージが届いているのに気付かなかった。

「私を裏切った椛へ。あの子供っぽいおさげの子とは、仲良くしてる?もうすぐ、美しい物を見せてあげるから、楽しみにしていてね。『償いの日』にまた」

送信者の名は「柊木沙耶」だった。

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