第13話 「邪印」と、沙耶の失踪

盗聴器は完全に叩き壊した。もうこれ以上、聞く必要などないと判断したからだ。

「沙耶!ちょっと、無視し続けて、どういうつもり⁉いい加減になさい!勝手にこんな真似をして許されると思ってるの⁉これ以上、出てこない、何も話をしないようなら、お父さんにも言いますからね!」

さっきまで、沙耶の部屋の扉の前で口やかましくそんな事を言っていた母親も、いつの間にか立ち去っていた。諦めの悪い母親も一旦退いたらしい。

スマホで時刻を見れば、もう夜になっていた。そろそろ父も帰ってくる頃だ。

父にでも何でも、言いたければ言えばいい。本当の沙耶を‐同性しか愛さない沙耶を知った時、穢れた物を見るような目で確実に見下してくるであろう、母親にも、父親にも、今更期待も何もしていない。

投げやりな気持ちでベッドに転がったまま、沙耶はそんな気持ちで、部屋のカーペットの上に無惨に、黒く点々と散らばった、盗聴器の破片や引きちぎった回線などを見つめた。

もう、椛の部屋の状況を探って、監視する事は出来ないが、こうしてしまって正解だった。あれ以上、愛しい椛の裏切りの声を、音を、聞き続けていたら、沙耶の脳神経は、怒りと憎悪の炎で焼き切れていた事だろうから。

「穂波茜・・・!!」

唇を噛み締め、その名前を思い浮かべる。今日もあの女は、椛の部屋にぬけぬけと入り込んでいた。以前、彼女の部屋に入る事を許されていたのは唯一、沙耶だけだったというのに、茜はやすやすとその許しも得て、また椛と二人の空間に入った。そして・・・、先程のあのやり取りだ。

椛の血晶に選ばれたからというだけではない。間違いなく、茜は、椛の「特別」になりたいと願い始めている。早い話が・・・茜は、血晶の導きの元に、一緒に死ぬ相手、として以上に、「恋心」で椛に惹かれつつある。

感情が爆発的に高まる。大声を出さないように必死で口に手を当てる。

机に向かうと、手首を切ろうと思ってカッターナイフを探したが、見当たらない。保健室で、椛と取っ組み合いのようになった時に、取り上げられたのを思い出した。代わりに、鋏で、力いっぱいに左の手首の肌を挟んで、切った。

まだ、前のリストカットの傷を覆っている包帯の上も、紅い液体の筋が流れて、伝い落ちていく。その血液を、飼っている小動物に餌を与えるような感覚で、机の上に置いているネックレスの先の血晶に、垂らしてやる。

椛が持っている物と同じ型-「角板付樹枝」型の血晶がその血液を浴びて、一瞬、妖しく光ったように見えた。

血晶は、持ち主の精神に強く反応する。二人を結び付け合う時には、その気持ちの繋がりが強ければ、まず「刻印」が出現して、更に、その「刻印」は、最終的には更に大きな力を有した「聖刻」へと、段階的に進化する。そこまでの都市伝説は沙耶も当然知っているし、沙耶以外の多くの人間も、先日の、二人の同性愛者の、思い合っていた女優の連続自殺の騒動で知る事になった。

沙耶は、当然ながら、椛との間に、愛の証ともいうべき、血晶の「聖刻」まで、渇望していた。

「聖刻」は強大な力を持ち、運命の相手のみならず、無関係の他者の気持ちさえも操作できる。そして、血晶の形態も自由自在に操り、変化させられる。そんな噂がある。これさえあれば・・・椛さえも、自分の愛の奴隷に変えてしまえる。

何度、椛を、自分の愛情に隷属させる、甘美な光景を、沙耶は夢想した事か知れない。

「でも・・・、皆、『刻印』と『聖刻』の事は知っていても、こっちの存在は知らないみたいね・・・」

スマホでまた、自分のSNSのアカウントにログインする。「SAAYA」のアカウントだ。とある自分の書き込みに対する、皆の反応をチェックする。

「皆は知ってると思うけど、私にはどうしても諦めきれない人がいる。私とその子の間にはお揃いの血晶まであるのに、『刻印』を手に入れられない。どうしたらいいの?皆、私に力を貸して。私は、その子を、愛の奴隷にしたい』

そんな、正気を最早逸しつつあった、沙耶の願いにも、彼女の信奉者たちは、意見を出し合って、協力してくれた。沙耶にとって、サヨナラしたくない、『優しい世界』は、ここに、ネットの中にしかない‐、そう、沙耶は思った。

「SAAYA様。一つ耳よりな、血晶に関する、新しい噂があります。『邪印』という、第三の血晶の都市伝説を知っていますか?」

特に熱心な、沙耶を崇拝してくれる信者が、そんなコメントをくれたのが目に付いた。邪印とは、血晶の都市伝説を追っている自分も、まだ聞いた事のない噂だった。

「『邪印』?字面的には、あんまり穏やかな感じじゃなさそうだけど、それってどんなもの?」

彼か彼女かは分からないが、その人は、丁寧にこう教えてくれた。

「簡単に言えば、『刻印』と『聖刻』は、血晶が選んだ運命の相手。そして、その相手との心の結びつきが強まる事によってしか、生成されません。ですが『邪印』ならば、血晶を、自分の意思で操って、強制的に『刻印』や『聖刻』と、ほぼ同じ力を持つ紋章を、自分の体に出現させる事が出来ます」

自分の意思で強制的に、血晶の「刻印」や「聖刻」と互角の力を持つ紋を出現させられる・・・。その言葉が強く、沙耶を引き込んだ。手首を鋏で傷つけた痛みも忘れ、忙しく指を画面上で動かす。

「『邪印』っていうのについて、詳しく教えて!それの発動条件とかはどうなってるか、分かる?」

「『邪印』は、『刻印』や『聖刻』の、闇に堕ちた版だと考えてください。自分の意思で強制的に発動は出来ますが、ただで手に入る訳ではありません。いけにえが必要だと言われています。具体的には・・・自分を強く信じてくれる人間の血を血晶に与える事で、血晶の邪悪な意思を引き出して、強制的に持ち主の体に『邪印』を刻み付けると言われています」

いけにえの血・・・。自分を強く信じてくれる人の血・・・。

「その血が手に入れば、私も『邪印』を手に入れられる?」

「はい。ただし・・・、リスクがあると言われています。」

血を手に入れさえすれば、椛と、あの女-茜の持っている物と同等の物を、自分も持てるのだと考えたら、リスクなど怖い物か。そう思いながら、また画面を押す。

「リスクって、自分の命が削られるとか、そういうやつ?」

「その通りです。血晶の邪悪な力を引き出す代償は、決して軽くないという事です。『邪印』を手にすれば、手にした物の体は原因不明の病にかかり、急速に、確実に死に向かっていくとされています。もし、SAAYA様が、今、『邪印』を手にするなら、来年の春を生きて迎える事は確実にない、くらいには思っていてください」

リスクと言うから、聞いてみればそんな事か。沙耶は、笑い出しそうになった。

死ぬ事・・・。つまりは『この世界にサヨナラを』する事ならば、今更、何も未練なんてなかった。唯一-、あの女、穂波茜が、自分と椛の前に現れた事を除けば。

親も、学校の自分と椛の取り巻き連中も、この世界に置き去りにしていく事は、どうでも良かった。

その気持ちは、紅葉が舞い落ちる庭で、椛に初めて、自分の、生きる事、死んでいく事への思いを話せたあの日から変わってはいない。

だから‐、沙耶は、自分についてきてくれている、唯一自分に優しいこの、SNSの住人達に向かって、宣言するように、こう打ち込んだ。

「今から、私が、血晶に命を削られる事を怖がったりするって思う?私は、こんな世界には、早くサヨナラ出来たらそっちの方がいいって、ずっと前から思ってる。ただ、私の唯一の理解者で、大好きな女の子が、他の女と血晶で結ばれた事だけは許せない。邪悪な力だろうと何だろうと、その力であの子だけは取り返してから、死んでいくつもり。他の皆だって、『この世界に生きていく価値なんてない』って思ってくれてるから、私に共感してくれてるんだよね」

椛はコメントを送信した。そして、そのまま、スマホの画面を一心不乱に見つめ続けた。

返信を知らせるベルのマークに次々と、数字が乗り始めた。そこを指で押して、皆の反応を確かめる為に沙耶は、ページを切り替える。

「『この世界にサヨナラを』。トレンドにもずっと入ってますが、この言葉の元に、私達の心はSAAYA様と繋がってます!誰に、「中二病」だとか「思春期の気の迷い」だとか言われても、私達は皆ついていきます!この、汚い世界を捨てていく事に迷いなんてないから」

そうしたコメントを筆頭に、次々と

「この世界にサヨナラを!」

「この世界にサヨナラを!」

と狂信者の、殉教の間際の祈りの声のように、沙耶のコメントに高評価と、沙耶への忠誠を誓うように「この世界にサヨナラを!」という、あの遺書の文言を皆が書き残していく。

一瞬、自分が大きな玉座に女帝のように腰掛け、その周りを、ずらりと囲む信奉者たちが、このフレーズを大声で叫んで、拍手を送っている。そんな光景が見えた気がした。

何処までもこのネットの世界は、自分に優しい。本名も顔も性別さえも分からない人々なのに、彼ら彼女らの言葉の方が、親や教師や、テレビのお偉い評論家様達の言葉より、すっと胸に入って来る。

「皆、ありがとう。皆が背中を押してくれてるから、私は迷わずに進める。あと数日で、あの子が私をフッた罪の償いとして、何でもお願いを聞いてくれる、『記念日』が来る。そこで、皆が驚くような事をやって見せるわ。どうなったかも教えるから、これからもついてきてほしい」

そう打ち込んだところで、扉の外で怒号が鳴り響いた。母の声とは全く違う、野太くて、粗野な声。先程の母の言葉通り、母に事情を言いつけられた父が怒り心頭で乗り込んできたらしい。やがて、扉がガチャリと強制的に開けられ、沙耶と、ネット上の「優しい世界」の繋がりは絶たれた。

「おい、沙耶!!母さんから話は聞いたぞ!学校にはもう行かないだと!どういうつもりだ!!」

その怒号と共に、ベッドの上にいた沙耶は、髪を掴まれて、床に乱暴に引きずりおろされた。そして、いきなり、弁解する暇も与えられないままに、頬に強烈な一撃を食らった。


昨日の、衝撃的な、沙耶との別れ方が頭に残っていたのか。それとも、沙耶の強烈な怨念が、椛の夢にまで滲み出てきたのかは分からないが、今朝の椛も、悪夢で飛び起きるという最悪の目覚めだった。しかも、悪夢に出てきたのは沙耶だった。

空は紅く染まり、真ん中を川によって分断された平原。その川を挟んで、岸の向こう側に沙耶は立っていた。こんな異常な風景の中に二人、立っているというのに、恰好はいつもの日常通り、高校の制服だというのが、非常に似合わない。

椛は、その川を越えようとして、川の水を見て、息を呑んだ。

流れていたのは・・・川だと思っていたものは、水ではなく、明らかに血だったから。

三途の川を連想した。沙耶の精神は、既にこの世界ではない、死者の世界に行ってしまったように思われた。不吉な予感が全身を駆け抜け、体が震え出す。

「ね、ねえ。沙耶・・・。こんなところで、何やってるの・・・?早く、こっちにおいでよ・・・。ここ、空も川も真っ赤で、不気味で怖いよ。早く、帰ろう・・・?」

こんな弱々しい声と、言葉しか出ない自分に驚く。沙耶は、不敵な笑みを浮かべて、椛の言葉が聞こえているのかも分からない。

血の川の向こうに立つ沙耶は、何か、紅い粒のような物をこちらに掲げた。

遠目にも、それが、沙耶と椛が、高校に入学した時に買った、お揃いの「角板付樹枝型」の血晶のネックレスだとすぐに分かった。その血晶が、突然、椛に向けて光を放つ。

光といっても、それは、見慣れた純白で清浄な光とは程遠い。椛の頭上に広がる紅い空と同様に、黒と赤の入り混じったような、邪悪さ、禍々しさを感じさせる光だった。

そして、椛は、その禍々しい光に目を細めて、手で顔を覆いながらも、薄っすらと、対岸に佇む沙耶の姿を見た。このままでは、沙耶が大変な事になると、本能が知らせている。勇気を奮って、川に足を踏み入れ、少しでも沙耶に近づく。血の匂いが、ねっとりとした感触が靴下を貫いて伝わり、白の学校指定のストッキングは、みるみる真紅に染まっていく。必死に声を絞り出して叫ぶ。

「沙耶・・・、待って・・・!!僕に、何か言いたい事があるのなら、はっきり言ってよ・・・!沙耶!!」

しかし、その声も彼女には届かず、血晶から発される光の中に、沙耶の姿は消えていった。


「はぁ・・・はぁ・・・」

そうして、椛は呼吸を荒くしたまま、まだ早朝のうちから目を覚ます。部屋を出て、台所で冷たい水を喉に流し込む。本当に叫んだ後のように、喉も熱を帯びていた。

食欲も全くわかず、朝食も二口、三口で箸を置いた。あのような夢の後で、気分晴れやかに朝など迎えられる訳がなかった。

「今朝は随分と小食ね、椛」

席を立った椛に、椛の母親がそう言った。悪夢を見た事を、母や、まだ食卓で新聞を広げて読んでいる父に話す気はなかった。元々、霧島家は賑やかに会話しながら食卓を囲む部類の家ではない。

そして、ブレザーを着て、通学鞄を手に取り、玄関に向かおうとしていたところで、来客を知らせるチャイムが響いた。

「こんな朝早くに一体誰でしょう?ちょっと、見て参ります」

お手伝いが、先に玄関の方に向かっていく。そして、程なくして戻ってきた彼女は、椛に、こういった。

「お嬢様。学校のお友達がお迎えに来ておられます」

友達・・・。その二文字に心臓がビクンと大きな一拍を打つ。一瞬、今朝、椛を悪夢で目覚めさせた、沙耶の姿が浮かんだからだ。

しかし、お手伝いの言い方には違和感を覚える。もしも、杞憂している通り、沙耶が来たのなら「沙耶様がお迎えに来ておられます」と、報告する筈だ。

「迎えにって・・・、沙耶の事?」

一応、確認するとお手伝いは首を横に振った。

「いいえ、沙耶様ではございません。昨日もお越しになった、穂波茜様です」

思わぬ事に驚き、玄関の三和土で靴を履くと急いで、引き戸を引いて外に出る。

そこには、あの、下の方で結んだ、二つ結びの子供っぽいおさげを肩に垂らして、鞄の持ち手を両手で掴んでいる茜が、何故か顔をやや赤らめながら、石畳の上で立っていた。

丁度、石畳の道の傍の、小さな楓の木の、紅く色付いた木の葉の傍で、何処か気恥ずかし気に、はにかんだような表情で佇む茜の姿を見て、不思議な感情が湧いた。

「茜・・・?どうしたの」

「どうしたのって・・・その、学校行くから、迎えに来た。それだけ。私ばっかり迎えに来てもらってたら悪いからさ。昨日は迎えに来てもらったから、今日は私が行こうと思って」

別にそんな気を遣わなくてもいいのに、と椛は言ったが、茜は首を横に振って

「気なんて遣ってない。私がそうしたいからしてるだけ・・・。もっと、椛の近くにいて、過ごせる時間を長くしたいなって思ったから。昨日、色々、椛の気持ちを聞けたし・・・私は、椛の『大義』なんでしょ?それに、椛も、どんな理由や形であっても、私と日々を過ごせるのが嬉しいって言ってくれたから、もっと、私からもその気持ちに応えたいなって思ったから・・・」

茜の言葉を、そこまで聞いたところで、やっと、茜の姿を見た時に湧き起った気持ちの正体が分かった。椛も、茜が何とかして椛の気持ちに応えようとして、自分から近づいてきてくれている、その行動がただ、単純に嬉しかったのだ。

『だけど、この気持ちを『恋』と認めてはいけないんだ・・・。だって僕は、昔、沙耶にも約束したんだから。『恋』とか『愛』とかは、『この世界にサヨナラを』する上で、未練になる感情でしかない。僕は、未練をこの世界に遺したくはないから。それに、沙耶に誓ったのに、茜への気持ちを『恋』と認めてしまうのは、沙耶への裏切りになる・・・』

茜の隣へと向かいながら、椛は思った。

『今日、もし沙耶が学校にいたなら、今日こそはちゃんと仲直りしなくては・・・』


「よっぽど、私、昨日以降、皆の不信感買っちゃったみたいだね・・・。私が傍にいると、誰も、椛に近づいてこない・・・」

校門をくぐって、昇降口まで歩く途中、茜は、申し訳なさそうに、他の生徒らの背中を見ながら、椛にそう言ってきた。

「あの子達の事なら、気にしないでいいって。いつも学校で一緒にいるところしか見てないから、すごく仲良しだったと思ってるのかもしれないけど、僕も沙耶も、家にあの子達を呼んだ事なんて一度もないよ。プライベートでも滅多に遊ばなかったし。大した付き合いじゃないんだから」

この杞憂で小柄な自分の、友達?とも同志?とも命名しづらい関係の相手である、茜を、安心させるように椛はそう言った。それは事実だった。学校以外の場所や家で、彼女らとの接点は実のところ、椛も沙耶も殆どない。

「えっ⁉そうだったの?いつも人に囲まれてる二人だから、前、遠目に見ていた頃は、きっとお休みの日も皆で遊びとか買い物とか行ったりしてるんだとばかり・・・」

「僕は、大勢でがやがやするのは好きじゃないよ、元々。ゲームセンターやらカラオケやらボウリングやらでわいわい騒ぐようなのも、僕のキャラじゃない」

「そうだったんだ・・・。意外。じゃあ、私が前にいた・・・とは言ってもそんなに仲良くなかったグループと同じだね。私も、あの子達と学校の外では接点ゼロだったから。連絡先も知らない子の方が多かったくらい・・・。だから、椛もそういうのは同じなんだって分かって、何というか、ちょっと安心した。」

余程、以前の茜は、椛の事を住む世界が違う人間と思い込んでいたようだ。

こんな新たな共通点も見つかって、また少し、心の距離が縮まったのか、茜は表情を緩くする。

こうして見ると、陸橋の上で初めて一対一で話した時を思えば、だいぶ、茜も自然に話してくれるようになった気がする。昨日のやり取り以降、茜もかなり頑張って、椛に距離を詰めようとしているから、というのもあるだろうが・・・。


『今、椛と過ごしている時間が、私達の最期の、前座を彩る『華々しい日々』に相応しいのかは分かんないけど、私が椛からもらってばかりなのが悔しいよ、初めての感情を・・・』

昨日、ポツリと呟いた、茜の言葉が蘇る。茜も椛に、何かしらの特別な感情や、心の動きをもたらしたいと望み始めている。もしもそれを「恋」と認めるなら、「恋心」を抱いている茜と一緒にだけで、やはり、自分は、沙耶との約束に背いている事になるのか・・・。

そんな事を考えていた矢先だった。隣を歩いていた茜の足が、「あっ・・・!」という声と共に、急に固まる。その理由は、椛にもすぐに分かった。

昨日、帰り際に靴箱の前で椛を呼び止めてきて、口論に発展した、あの女子生徒が、待ち構えるようにして、鞄も下げたままで、昇降口の前に立っているのが見えたから。彼女は、茜と椛の二人を認めると、眉をひそめて、そして、「ちょっと、こっちに来て」と言うように、手招きした。

彼女の強い視線から守るように、茜の手を取って、自分の背中に彼女を隠すようにする。小柄な茜の体は、簡単に、女性としては長身の部類に入る椛の背に隠れた。

「・・・茜は、後ろに下がっていて。あの子が話したい相手は僕だろうから」

そうして、昇降口の彼女に近づいていくと・・・、その表情の切迫ぶりから、ただ事ではない何かが始まっているのは、直ぐに椛には分かった。

「おはよう、椛・・・。昨日は、喧嘩みたいになる気はなかったのに、ごめん・・・。それで、ちょっと、急いで、椛に聞いといてほしい事が起きてしまって。多分、もうすぐ、椛にも連絡来る筈だけど」

「・・・それは、沙耶の事?」

「そう・・・。今朝から、沙耶の家、大騒ぎになってるみたい。私にまで、沙耶の家のお手伝いさんが電話してきたのよ。『お嬢様の行方、何か手がかりになるような事は知りませんか?』って・・・」

「行方?それって・・・まさか」

「そのまさか、よ・・・。今朝、沙耶がいつまでも学校にいかないどころか、ご飯も食べに出てこないもんだから、部屋に入ったんだって。昨日は扉の前に椅子とか色々並べて、入られないように籠ってたらしいけど、何故か今日はあっさり入れて、そしたらびっくり、もぬけの殻なもんだから、朝からもう沙耶のお父さん、お母さんもパニックよ。書置きも何にもなかったらしいけど、家出・・・と見て間違いないでしょうね」

家出、という言葉に、背中の後ろで茜が息を呑んだのが分かった。沙耶に関する事態は益々、悪い流れになってきている。

「沙耶が、あの家を飛び出すような、何かがあったの?」

「そこまでは、私にも分かんないわよ・・・!私も、沙耶の家から電話きて、初めて知ったくらいだし、大体、昨日から沙耶には、連絡全くつかなくって何してるのかも分からなかったんだから。ただ・・・お手伝いさんがちょっと教えてくれた話じゃ、昨日、両親と大喧嘩になって、お父さんからビンタくらってたって・・・。すごい修羅場だったってのは聞いた。リスカまでしちゃったのがバレて、しまいには沙耶のお父さんが『お前はどう考えてもまともな精神状態じゃない。精神病院に連れて行って、正気に戻るまで入院させる!』って言ったらしくって・・・それが家出の引き金でしょうね」

益々、物々しい単語が出てきた。昨日の夜中、そんな修羅場が起きていたなんて。

「じゃ、じゃあ、音信不通のまま、家出して何処かを彷徨ってるって事・・・、沙耶は?」

こくりと、彼女は頷いた。

「大変な事になったわ・・・。沙耶が、もしかしたら、椛には何か連絡をよこすかもしれないって、向こうの家は期待してるみたい。でも、昨日の夜も両親と大喧嘩して、すごく興奮して、リスカまでやって・・・沙耶は何するか、本当に分かんない状態よ」

そう伝え終わると、「スマホの方はこまめにチェックしておいて」と言って、彼女は去って行った。

振り返ると、沙耶の家出という、朝一番からの衝撃的な知らせに、茜は唖然として、立ち尽くしていた。

「え・・・、ひ、柊木さん、家出したの・・・?来週は、椛との記念日もあるんだよね、『償いの日』が・・・。それなのに、一体、何が・・・。それに、柊木さんのお父さんも、何で、精神病院に入院させる!なんて事、言ったんだろう・・・。」

茜は、頭の中を疑問符が飛び交っているような様子であったが、それは椛とて、大して変わりはない。思考回路は、大混線を起こしている。

『沙耶が、消えた・・・⁉家出って、一体、何の目的で・・・?兎に角、少しでも手がかりになりそうな、情報を見つけないと・・・』

今朝、椛を起こした、あの禍々しい夢・・・、血の川の向こうに立ち尽くして、血晶の光の中に消えていった沙耶・・・。あれは、沙耶の失踪を暗示していたのか。

スマホを見れば、早速、柊木家の、固定電話の番号から電話がかかってきていた。


学校のアイドル的存在で、椛と共に、生徒からも教師からも常に尊敬の眼差しを浴びていた沙耶の家出が、緊迫した表情の担任から告げられ、クラスを飛び越えて学校中の話題になるのに、時間は殆どかからなかった。


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