第12話 私の知らない椛と、初めての嫉妬

茜の体の異変に気付いてからの、椛の行動は流れるように迅速だった。椛はすぐに家に電話をかけて、それからしばらくして、二人がいたコーヒーショップの前に、前にも乗せてもらった事のある、霧島家のお抱え運転手の車が迎えに来ていた。

まだ、体がふらつく茜に、椛は肩を貸して、車まで歩くのを手伝ってくれた。

「ここからだと、うちの方が近い。それに、ちょっと茜のその胸の傷は、僕以外の人に見られたらまずそうな代物だからね・・・」

そう言って、茜はあれよあれよという間に、気付けば、つい先日来たばかりの、霧島家の門を潜って、椛の部屋に連れていかれていた。

以前、茜を出迎えてくれた椛の母親は、家に来客のあるようでそちらの接客に当たっており、姿を見せなかった。

椛は、お手伝いさんに、自分の部屋まで消毒液や、ガーゼを持ってこさせた。

「何処か、友人様がお怪我でもされたのですか?手当ならば、私が・・・」

そう言うお手伝いに、「大丈夫だから。ここは僕に任せておいて」と固辞して、椛は彼女を下がらせ、部屋の扉を閉めた。当たり前のように、お手伝いさんが出てきて、椛の事を「お嬢様」と呼んでいる風景に、茜との、住む世界の違いを感じる。

「どう、茜?少し、体の調子の方は戻ってきた・・・?」

大き目のクッションに身を預けていた茜は、力なく頷く。

「まだ、少し胸の、刻印の場所が熱いけど・・・。さっきよりはだいぶ、楽にはなってきた」

制服のシャツまで血に染めながら、両鎖骨の間よりやや下方にある茜の、血晶の紋様の刻印は、まだ僅かに熱を孕んでいた。これまでにない、熱した鉄棒を直接肌に押し付けられたかと一瞬感じた程の熱感と痛みが、胸の刻印を中心に走り抜けた。あの現象は一体何だったというのか・・・。

『血晶は、持ち主の心と、何らかの方法で繋がっていて、心の動きに従って動く物だった筈・・・。それなら、血晶がこれだけ、急に激しい反応を起こしたという事は、私の心の中の何かに、それだけの強い動きが起きていたって事・・・?』

刻印に異変が生じる前に何か、自分の心が揺れ動くような事はなかったか。直前までの、椛とのやり取りを思い返してみる。

そうして、ふわふわと心地の良いクッションに背中を預けたまま、思索に没頭していた茜に、さらりと椛が、こんな言葉をかけてきた。

「さあ、ここなら、他の人に見られる心配もないから・・・。ちょっと、シャツを開けて、胸の刻印のところ、僕に見せてくれる?」

その、あまりに何気ない口ぶりに、茜は一瞬、「うん」と言いかけて、慌てて口を閉ざす。

自分の刻印を見せるという事はつまり、椛に自分の首筋から、胸元にかけての素肌を晒すという事だ。刻印の熱さとは、全く別の原因からの熱で、茜は全身が熱くなる。

「へっ・・・⁉ちょ、ちょっと、さらりと何言ってるの⁉」

「え?だって、血晶の刻印が出血する程の異変を起こしてるんだから、その変化がどんなものかを確かめないといけないし、傷の手当だってしないといけないでしょう。ほら、早く・・・」

椛は、どちらかと言えば、理詰めで行動していくタイプの人間だ。その行動原理が故に、彼女は肝心な部分への配慮を‐特に、茜と椛が女同士という事もあるからかもしれないが‐時折、欠落させる。

確かに、前に陸橋の上で椛に救われて、その後初めて、この部屋に連れて来られた時、既に一回、椛には、この胸の刻印を見せてはいる‐あの時も茜は、顔から火が出る程恥ずかしかったが。

「ま、前に、私が橋から飛び降りるかどうかで迷ってたの、助けてくれた時も、こんなやり取りあったよね・・・。ほ、本当に、椛って、探求心に取りつかれたら、恥じらいとかってないの?」

椛の、刻印への探求心に満ちた瞳を見て、半ば諦めて、茜は溜息をつく。実際、刻印から血液が滲み出していて、手当をしないといけないのは事実だ。それに、この刻印の存在を見られてもいい相手は、椛しかいない。

観念して、茜はシャツのボタンに手をかけようとした。椛も、じっと、こちらの体に穴が開きそうな程、真剣に、食い入るように茜の事を見つめてくる。

椛の方は、既に制服のリボンは解いていて、シャツの首元は緩めていたから、首にかけているネックレスの先の血晶が、シャツに阻まれる事なく、垂れさがっている。床に敷かれたカーペットの上に両手をついて、こちらを見つめている椛の胸元に、茜の目も行ってしまう。シャツと、彼女の透き通るような白い素肌の間を占める、小さな闇。その闇の遠く、向こうに・・・椛の血晶が刻み付けた、紅い刻印が妖艶な赤を発していた。

また、頭の中に霧が立ち込めたように、思考がぼんやりとしていく。茜の思考回路は動く事を止め、意識は、目の前の椛に・・・その指先へと集中していく。

『あ・・・、また・・・、この感覚だ・・・。何かに、強く酔わされているような・・・、思考が皆、霧の中に消えていくような』

すぐ目の前にいる、椛の、カーペットの上に広げられた白く細い指先。その指に視線が止まった途端に、茜の心はとある感情に埋め尽くされていた。

それは、椛のあの指先に触れられたいという感情であった。自分の、本来の感情とは全く違う物だという事は茜にも、すぐに分かった。この感情を茜に与えているのは、あの椛の血晶と、そして、服の隙間の、闇の向こうに見え隠れする蠱惑的なあの刻印に違いなかった。

茜は、シャツのボタンにかけた手を下ろす。

そして、茜自身の意思では抗う事も出来ないままに、気付けば茜の口は、こう、言葉を発していた。

「ね、ねぇ・・・、お願いなんだけど、椛の手で、ボタンを外して、私のシャツ脱がしてくれないかな・・・?」

自分の中に残された理性が『何言ってるの、私⁉』と、自分自身に叫んでいるが、一度飛び出した言葉はもう回収出来ない。

さしもの椛も、茜の様子が明らかに変わった事に気が付いたようだった。

「えっ・・・⁉ど、どうしたの、急に?」

「い、いいから、は、早く・・・!!何だか、椛の血晶と・・・、む、胸の刻印を見てしまってから、何か、気持ちがおかしいの。椛の指先を見ていたら、触れられたくて仕方なくなってしまって・・・、体の芯が、ムズムズするの。ねぇ、お願い!」

茜は、喉を通過して出て行く言葉の、未だ嘗て聞いた事のない、その甘く媚びるような声色に自分でも驚いていた。これも、血晶の魔力のなせる技なのだろうか。

血晶は人の心を操れる。そして、その力の中には、かつて、椛も一瞬、飲み込まれそうになったように、煽情的な、催淫作用のような物もあった筈だ。

つい数日前まで、声をかける事すら考えられなかった相手である、椛のその手を、茜の手は、茜自身の理性をも無視して、じれったそうに掴み、自分の胸元に運んでいた。流石にそこまでされたら、椛も、血晶や、刻印への探求心も頭から消え去り、狼狽えている様子だった。

「わわっ!!な、何、してるの、茜・・・⁉」

「だって・・・いつまでも椛の手が、私に触ってくれないからよ・・・!」

そうして、かなり強引な仕草で椛の手先を、自分のシャツのボタンへと運んでいく。

もう、今の状態の茜を鎮めるには、他に方法はないと悟ったらしい。

「も、もう分かったから、ちょっと手を離して・・・!」

そして、椛は、茜のシャツのボタンに手をかけ、上から3つ程外した。火照った肌が、ようやく布の外の外気に触れられて、喜んでいた。

「うわっ・・・刻印が・・・、前に見た時よりもずっと、紅く、くっきりしてきてる・・・」

椛の、驚きの声に、目を下に向ける。シャツの前をはだけさせた事で、刻印の姿がだいぶ見えやすくなった。

親指の先程の大きさの、茜の持つ血晶と同じ、「樹枝六花型」の紋様を成す刻印は、その微細な線からまだ鮮血を垂らして、その形をより明瞭なものとしていた。

流れ落ちていく血は、鎖骨の下から、まだこぶりな胸へとなだらかに丘陵を描く、肌の上を伝い落ちていた。確かに、この前、椛に見せた時より、赤味を増して、明確な刻印となっている。

「でも、どうして、茜の刻印だけがこんなに急激な変化を・・・」

そう言いながら、椛の指先が、熱された刻印に触れた時、茜の体を、電撃が駆け抜けるような快感が走った。茜は、必死に唇を噛んで、声が漏れるのを耐えた。

茜の刻印の力は、椛にも徐々に影響を及ぼし始めているようだった。次第に、刻印を見つめている、椛の頬にも朱色が差し始め、目線が少し揺れ始めた。

傷の手当ての為と持ってこさせた、消毒液やガーゼも今や、茜以外の何も目に入っていない様子で、徐々に彼女の呼吸も早くなりつつあった。

次の瞬間には、茜は、椛に力強く、カーペットの上へと押し倒されていた。それは、普段の彼女とは全く違う、荒々しい仕草だった。

「え・・・、も、椛・・・?」

椛に押し倒されて、上に乗られるような体勢になっている。椛は、やがて、頬を真っ赤に染め上げたままで、茜の首筋から、胸にかけての肌に顔を近づけて・・・、茜の刻印の、滲み出た血を舌で舐め挙げた。

指先で刻印をなぞられた時とは、比較にもならない程の快感が、脳を焼き尽くされそうな炎が茜の中を駆け巡った。元来、思春期特有の、そうした欲求に対しても淡白な性格であり、殆ど関心を示した事のない茜は、この種の感覚に慣れておらず、声にならない声を漏らして、足の先を突っ張らせ、何度も、カーペットの上に足を打ち付けた。この蠱惑的な炎に呑まれてしまわないように、理性を保つ為に。

間違いなく刻印の魔力に、二人共飲まれてしまいつつあった。このままでは、確実に、学生として、超えてはならない一線まで行ってしまう事を、茜の本能が知らせている。必死に、茜は、椛と自分の胸の合間に手を差し込み、力いっぱい、跳ね除けた。

「こ、これ以上は、駄目・・・!!」

椛がよろめいた表紙に、素早くその体の下から脱出して、茜はそう叫んだ。懸命に、シャツのはだけた前を、部屋にいくつも並べられていたクッションのうちの一つで、隠しながら。頬から、湯気が上がるような気分だ。

椛も、まだ頬を染めたまま、全力疾走した後のような荒い息をついて、我に帰ったような表情をしていた。その唇は、茜の血が少しだけこびり付いていて、吸血鬼のようだ、とも思った。

しばらく、茜と椛の二人の荒い息遣いだけが、部屋の中に響いていた。何かを言おうとしても、まだ、熱に浮かされていた脳は、言葉を見つけられない。


そんな折の事だった。

突然、部屋の扉がノックされたので、茜も椛も飛び上がる程に驚いた。大急ぎで、椛は、着崩していた制服のボタンを締め直し、乱れた髪を整える。

「椛。まだですか?一体、何をしているの?」

待ちかねているように、扉の向こうから聞こえてきたその声に、茜は聞き覚えがあった。この声は・・・椛の母親の声だ。

「待たせてごめん!お母さん!」

扉を開けた椛は、ほぼ直立不動の姿勢となって、すらりと背の高い和服美人の、母親を出迎えた。何だか、上官を迎える兵隊さんのような厳格さだと感じた。

椛の影に隠れて、必死に身なりを整えていた茜まで、思わず、背筋に力が入ってしまう程、周囲にだらしのなさを許さない、厳しい女性という印象は変わらなかった。

「あら・・・?そこにいる子は、つい先日もお見えになった・・・?」

彼女の目は、部屋の中にいる茜の姿も見逃さずに、捉えていた。思わず茜まで、正座となって丁寧にお辞儀をした。

自然とそうせざるを得なくなるような厳かさが、椛の母親にはあった。

「は、はいっ!!穂波茜です!こ、この前はお世話になりました。も、椛さんとは色々と話が合って、仲良くなりました!」

「・・・ああ、そうでしたね。穂波さんって言ったわね。うちに、柊木さん以外の子を椛が連れてきたのは本当に珍しかったから、印象に残っていました。ところで・・・」

余所行きの声はすぐに地の声に変わり、椛の母親は娘に目を戻した。

「何ですか、バタバタと部屋の中で音を鳴らして、はしたない。廊下まで聞こえていましたよ。常々、うちの跡取りとして恥じず、男にも負けないように強く、逞しく振る舞いなさいとは、口を酸っぱくして教えてきましたが、だからといって、粗野に振る舞ってよいなどとは言っていませんよ」

こうした言葉を、これまでに幾百回となく、椛は生まれてから聞かされてきたのだろう・・・。茜は、この場にいても良いものか迷いつつ、霧島家の内側を少し、垣間見た気がした。

「それと、わざわざ貴女の部屋に来たのは、別に音がうるさかったからだけじゃないわ。ちょっと、先程まで、柊木さんのお宅の、沙耶ちゃんのお母さまから電話がかかってきていてね」

沙耶・・・という名前を聞いた途端、部屋の入口に立つ椛の肩が、揺らいで見えたのは、気のせいではなかっただろう。

「沙耶が・・・?どうしたの?」

「貴女も、沙耶ちゃんから、やはり何も事情は聞いていないのね・・・。今日の午後、学校から飛んで帰ってきたかと思うと、『明日から学校にはもう行かない』とか急に言い出したものだから、向こうのご両親も大慌てで、それで、『沙耶に学校で何かあったのかもしれない、幼馴染の椛ちゃんなら何か事情を知ってるかもしれないから聞いてほしい』って・・・。ご両親が何を聞いても、何も話してくれなくて」

やはり、沙耶は揺らいでいる。茜と椛が近づいた事に、負の感情を募らせている。

「・・・沙耶の件は、僕も本当に事情は知らない。連絡先知ってる学校の友達も皆、沙耶にはメッセージとか飛ばしたけど、既読さえつかないんだ・・・。勿論、沙耶からも連絡なんて、何も来てない」

拳を握りしめて、椛はそう答えた。

「そう・・・。でも、心配ね。沙耶ちゃんの事。椛からも、何があったのか、また連絡くらいはとってあげて。一時の気の迷いじゃないと良いのだけど」

そう言い残して、要件は済んだのか、椛の母親はお手本のような美しい姿勢と足取りのまま、長い廊下の向こうへと歩き去って行った。それをこっそり部屋の入口から見届けた後、茜も、椛も、緊張が解けたように、部屋のベッドに背をもたれさせた。

椛は額の汗を指先で拭った。

「ふう・・・、危なかった・・・。もう少し、母さんが来る時間が早かったら、とんでもない事になっていたよ。僕は多分、父から往復ビンタされる羽目になって、茜も永遠にうちに出入り禁止になってたろうね。父も母も跡取りの『息子』のつもりで、僕を扱ってるから」

椛がさらりと呟く、そんな言葉から、霧島家の、一般家庭とは比較にならない程の厳格な家風が、茜にも垣間見える。

間一髪で回避したものの、椛がそんな目に遭っていた可能性があったのかと考えると恐ろしかった。そして、その元凶というか、椛を巻き込んでしまったのは茜なのだ。

「本当に、ごめん・・・!椛に、あんな変な事を言ってしまって、私が無理に巻き込まなければ・・・あんな事には」

先程のあの異様な時間を思い浮かべるだけでも、恥じらいのあまり、茜はしばらくの間、顔から火を噴き出すのには苦労しなさそうだ。

「いや・・・茜が悪いんじゃないよ。だって、さっきの事は血晶と、刻印の力が招いた出来事だから。間違いなく、お互いの血晶、そして体の刻印が、相手の心に与える力が増してる・・・。さっきの僕も、それに茜も、何だか、血晶に操られているみたいだった・・・。血晶に、こんな危険な力が宿ってるなんて」

世間の人間はきっと、殆ど知らないだろう。血晶に「人間の心を操る能力」が存在している事を。この力を、もしも誰かが悪用する事を考え着いたら・・・。その不安は、茜にもあった。

「私も、何だか、自我も理性もちゃんとあるのに、自分ではない何かが勝手に心も体も動かしてるのを、横で見ているみたいな感覚だった。刻印とセットじゃなければ、多分血晶は何も力は、発揮しないんだろうけど・・・」

「そう。茜の刻印の力が何故、急激に増したのか、だよ。僕が分からないのは。ついこの前までは、ここまでお互いの心と体を乗っ取る程の力はなかったのに、茜の刻印が流血して、鮮明になってから、格段に、人を操る力が強まってる。何か、心当たりはないの?さっきのコーヒーショップとかでも・・・」

茜は額に手を当て、記憶を呼び起こす。


‐胸の刻印が熱を孕むよりも前に、茜の胸に、鈍い痛みが走った出来事が、一つあった。

その時、椛は、確かこう言っていた。

「『償いの日』だよ・・・。僕が、かつて、中学の時に沙耶の思いを拒否した日。沙耶にとっては・・・僕の身勝手な信条の為にフラれた日。その日だけは、僕は彼女の願う事、言う事は、何でも聞く事になってる。沙耶をフッた、その償いにね・・・。それがもう、来週なんだ。苦い思い出の日だけど、ある意味で僕と沙耶の忘れられない日」


それは、茜にとって、初めて、本当に人生で初めて出来た、「この世界に、生きていく価値はあるか」という問いを共有できると思った友達と、その友達の間だけの記念日。そこに、茜はいない日。茜は決して、椛と共有出来ない記憶で、話以外では知らない、椛と沙耶だけの記念日。


「償いの日・・・」

「えっ?」

「・・・さっき、椛が話してたよね。自分が昔、柊木さんの思いを拒絶したから、その償いとして、その日は、柊木さんのお願い事、何でも聞いてあげる事になってるんだって・・・」

茜は、また胸を押さえる。今度は、刻印の肌を焼くような痛みではない。それとは違う、痛覚を持たない筈の、心の痛みだ。

「椛は、僕は恋をしないって言った・・・。自分が恋する相手は『死』だけなんだって。だけど、やっぱり、そうやって気持ちに応えてあげられなかったのを悔やんでるって事は、柊木さんへの気持ちも完全に捨てきれてはいないんだなって、思ってしまって。そうだよね。私よりも、ずっと前から、椛の思いを唯一、理解して、傍にいたのは柊木さんだけだったんだもんね。血晶の魔力の都市伝説が何処まで本当か分からないけど、私は、何故か、ぽっと出で、椛の血晶に選ばれただけの存在。柊木さんには、初めから、かないっこないよね」

言葉を整理しながら、話していくうちに、茜は、あの時の自分を襲った、強い心の痛みの正体を知った。それは間違いなく、『嫉妬』だった。

初めての感情だった。嫉妬とは、誰かの特別になりたかったのに、なれなかった時に生まれる心情。そして、茜は人間関係に対しては、今まで『特別』という物は求めたことがない。家族相手にさえ。

茜にとって、人の輪の中に身を置いている事は、永遠に変わる事のない、壊れたレコードが同じ部分の演奏を幾度も繰り返すような、この毎日で無難に生きていく為の手段で、それ以上の価値はなかったから。

「-だから、椛とちゃんと話すようになって、まだまだ日の浅い私が何言ってるんだって思われても仕方ないけど、初めて、同じ気持ちを持ってる人に出会えて、私は嬉しかったし、今まで、『特別』なんてもの、人付き合いに求めた事なかったのに、そんな昔の自分から、生まれ変われるかもって、少しばっかりはしゃいでいた。だから・・・嫉妬しちゃったんだって思う。やっぱり、柊木さんの方が、椛には私なんかよりずっと大切な存在だよねって・・・。はは、ごめんね、少し私、物語の主人公になれたような気がして、勝手に盛り上がってたのかも」

血晶に、強烈な感情のエネルギーを与えて、刻印を色濃くしてしまった源があるなら、それ以外には考えられなかった。

感情に形や重さがあるのならば、今の自分は、ヘドロのように淀み切って、湿った感情をぼとり、ぼとりと言葉に乗せては、落としているような状態だろう。

人生で初めて、嫉妬という感情を味わって、それを言葉にして吐き出している。

椛との、血晶に導かれての契約は本物だと信じたい。茜の、何も代わり映えのしない日々が、変わり始めたと。それでも、よく考えずとも、偶然、椛の血晶に選ばれたに過ぎない自分が、幼い頃から何年も、椛と厭世観を共有し、理解者だった沙耶に叶う道理がなかった。

自分の日々を変えてくれると思った椛も、その目は今もずっと沙耶の事を・・・。

惨めったらしく、茜の目から涙が零れてきた。人間との繋がりの中で、涙を零す事などいつ以来か、もう忘れてしまった。


ふっと、柔らかく、自分の肩に腕が回されるのを、茜は感じた。先程の、血晶の魔力に操られていた時の、荒々しい仕草とは似ても似つかない、椛の優しい手つきだった。

彼女は、木の葉に一粒、また一粒と雨だれが落ちていく音を聞いているような、そんな静かな口調で、茜に語りかけてきた。

「そっか・・・。茜は、そんな風に思ってくれていたんだね。僕の事を・・・。」

「め、迷惑な気持ちだなんて、分かってるよ・・・。も、椛は、陸橋の上で私を助けたあの日も、言っていたから。『僕は、『死』にしか恋をしない』って・・・。この世界の何かに、恋とか、愛とか・・・、それにきっと、『特別』だとか、そう言った感情を抱くのは、未練にしかならないからって・・・。私が、一人で舞い上がっていたのがバカで、椛には迷惑な気持ちでしかない事くらい、分かってる・・・」

「そんな事ないよ・・・。だって、『血晶の、聖刻が出来るまでの間は二人で生きて、聖刻が出来たら、二人共に散っていこう』っていう、あの契約を結んだ日、舞い上がってしまったのは、僕だって同じだったから。言ったでしょう?『この世界にサヨナラを』告げる前に、その舞台は、最期の日々は華々しく、飾り付けた方がいいって。僕だって、茜と同じ気持ちなんだよ。散る間際の日々が、これで、無色透明から、色鮮やかで、全く新しい日常に生まれ変わるって、嬉しかった。」

椛は、あまり素直な感情を、表面に出す性格でない事から、彼女がそれ程までに、茜とあの契約を結んだ事で、気持ちを沸き立たせていたとは想像もしなかった。

「だって、あの契約を交わすまでは、このまま、空虚な日々を重ねた末に、何にもなれないままに、この世界から消えていくんだろうなとばかり思ってた。でも、血晶の力が、茜に出会わせてくれた。『人は自分の為だけに生きて、自分の為だけに死んで行ける程強くはない。その為には、何か大きな大義が必要』。その、ずっと分からないままだった『大義』を教えてくれたのは、君なんだよ、茜」

彼女がまた口にした、その言葉は、確か、椛が愛読している文豪・・・三島由紀夫の言葉を、もじった物だったか。

その答とは、茜と椛の二人の力で、血晶の聖刻を発動させる。

そして、血晶の聖刻が秘めた、不思議な魔力を使って死ぬ事で、皆の記憶から、私達を忘れられない存在にしようという物だった。

「繰り返しになるけど、恋も、愛もそうした感情は僕は持たない。だから、茜は、沙耶の事は気にしないで、僕の傍にいてくれたらいい。沙耶には、何か特別な、『愛』に近い感情を僕が今でも持ってるんじゃないかって、不安になったんだろうけど・・・、それは違うよ。償いの日は、せめてもの、沙耶への罪滅ぼしのつもりでやっているだけ。これからも、僕の、沙耶への気持ちが、恋や、愛へと変わる事はない」

茜は、聞くのを躊躇っていた質問を、椛へと投げかける。

「じゃあ・・・もしも、『償いの日』に、柊木さんが、椛に、『穂波茜とはもう関わらないで』って、お願いされたら・・・、どうするの?何でも、お願い、聞かないといけないんだよね?そしたら、・・・折角、こうして繋がれたのに、椛は、私から離れていくの?」

弱々しい声でそう問いかける。椛の答を聞くのが、怖かったから。

茜の問いに、椛は一瞬、表情を硬くした。その沈黙が、表情の強張りが、刹那の時間でも、今の茜には怖い。

椛も、沙耶との約束と、茜と、どちらを選ぶか、さぞ逡巡したに違いない。

しかし、彼女はやがて、茜にゆっくり言い聞かせるように、こう言ってくれた。

「・・・もし、沙耶がそう言ってきたとしても、僕は、絶対にそのお願いだけは聞かないよ。だって、僕が、自分の残された人生を、やっと華々しく生きられる理由が見つかったんだもの。それは、例え沙耶にだって奪わせない。だから、茜は安心して」

人の気持ちに深く触れる事のないままに、家庭でも学校でも生きてきた茜は、椛と繋がって、生まれた気持ちの名前が分からなかった。

しかし、今の椛の答を聞いて、心の底から安堵した自分。

それに気付いた瞬間に茜は、また、もう一つの事実にも気が付いた。

自分は、-人生で恐らく最初で最後の‐『恋心』に、限りなく近い物を、椛に抱き始めているのだと。

単なる、お互いの血晶が反応したからという事実に留まらずに。

『柊木さんもきっと、こういう気持ちだったんだろうな・・・。椛に、告白した頃は・・・。そして、多分、今もあの人はこの気持ちを・・・』

そんな、沙耶が抱えていたであろう気持ちを、茜は今なら察する事が出来た。


茜の涙を、そっと、椛は指で拭い去ってくれた。

「何故、あそこまで急に、茜の血晶が、激しい反応を示したのか、分かったよ。血晶も刻印も、持ち主の心と結びついてる。茜の血晶は、君の嫉妬の感情に触れて、きっとあんなに、爆発的な反応を示したんだね・・・」

その言葉を聞いた時、また別の痛みが、自分の胸の中を走り抜けた。

椛の血晶は、まだそこまでの反応を示してはいない。血が滲む程、刻印も強く浮かび上がってはいない。

つまりは未だ、茜は椛の心を揺さぶれていないし、椛に、もっと、茜への感情を強く、搔きたてさせる何かが必要なのだろう。

しかし、その為には何が出来るか、今の茜には思いつかない事が口惜しかったからだ。


自分の中にもあった、嫉妬、そして、誰かの『特別』になりたい、という独占欲、そして『恋心』。横にいる椛の肩に、頭を預けさせてもらいながら、いくつもの初めて出会った感情を、茜は噛み締める。

その感情を、少しでも椛に伝えたくて、ようやく熱の引いた、胸元の刻印を指先で摩りながら、椛にこう言ってやった。

「今、椛と過ごしている時間が、私達の最期の、前座を彩る『華々しい日々』に相応しいのかは分かんないけど、私が椛からもらってばかりなのが悔しいよ、初めての感情を・・・」

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