第9話 沙耶の光と闇

「この女優さん、同性愛者なんだってよ。よくこんな、誇らしげに、堂々と告白出来るわね」

「俺たちの子供の頃じゃ考えられもしなかった話だ。どんどん世間が気持ちの悪い空気になってきてるようでうんざりするよ。これに、『自身の性的指向のカミングアウトは素晴らしい』とかなんとか、マスコミは騒いで美談にしてるんだろう?伝統的な形の家庭は壊されてしまっても、それでいいっていうのかね」

家で食卓を囲んでいる時に、そんな話をしている両親の姿を、沙耶が聞いたのは、自分の性的指向を薄っすらと自認し始めた、小学生の半ば頃だったと思う。

話の発端は、とある女優が、自身は女性同性愛者であると公式に「カミングアウト」を行ったという話題をテレビが取り上げていた時だった。両親は、さも、不快な物を見るような目つきになって、そんなやり取りをしたのだ。伝統的な家庭が云々の部分はよく分からなかったが、幼心にも、沙耶にははっきり伝わった。

両親は‐、この二人は、同性愛というものを深く嫌悪しているのだと。

そして、その言葉の刃を、二人は、無自覚のまま、娘である沙耶の心にも何本も突き刺している。沙耶が、女の子しか愛せない女の子である事を、二人は夢にも思っていなかった。

あの瞬間に、沙耶の中で、両親への愛情は砕け散ったというべきだろう。

「同性愛者である自分」に、全く、周囲は気付く事ないまま発する二人の言葉は、全て、心に突き刺さる刃、射かけてくる矢になった。

そして、紅く色づいた庭の、池のほとりで、椛の額に口づけしたあの日から、沙耶の苦しみは更に増していった。沙耶は、「自分が女の子しか愛せない存在である」と、確信に至ったから。

柊木家を訪ねてくる、ショートヘアの、何故か自分の事を「僕」と呼んで話す、霧島家の美しい娘-、椛にただ、理由もはっきり分からないままに、胸を熱くしていた時間が如何に幸せだったかを思い知る事となった。

沙耶の両親が‐ひいては柊木家の親族皆も含め‐、同性愛を嫌悪している限り、自分の椛への思いはずっと封殺せざるを得なかった。もし、自分の性的指向があの両親に発覚して‐しかも、その相手が柊木家と浅からぬ付き合いである、霧島家の一人娘の霧島椛である事まで知られようものなら、両親も、親戚からもどんな仕打ちを受けるか分からない。

あの時、テレビに映っていた、自身の性的指向をカミングアウトした女優に向けていた、両親の、蔑みを込めた、凍てつくような視線が、今度は自分に向けられる。

その事への恐れと同時に、想像するにつれ、理不尽さへの怒り、憎しみの小さな火が、沙耶の中でくすぶり始めた。

『なんで・・・同じ女の子を好きな人間というだけで、私は、そんな目に遭わされないといけないの・・・⁉』

その小さな火は、最初は沙耶の両親だけを焼き払いたいと願っていた。

しかし、やがて、それが大火となって、この社会全体を焼いてやりたいとまで願う程-、沙耶の憎しみの対象が社会全体にまで広がったのは中学生となり、もう少し、社会の声にも触れるようになってからだった。ネットという物に触れて、有象無象の人々の声を、同性愛者に向けられる声を掲示板などで読むようになり、沙耶の憎しみは更に深まった。

『気持ち悪いものを気持ち悪いと思って何が悪いんだよ』

『目に付くと不快だから、ずっと、誰にも見えないところに隠れてやっててほしいよね。権利がどうとか、声もデカいし』

沙耶は、自分の憎むべき対象が、この社会全体である事を知った。

憎むべきは、両親だけでなく、自分のような存在は、見ないようにして、いない者として扱って、平然としているような社会であると。


両親の目に、いつしか、自分が同性愛者である事を見抜かれるのに怯えて、両親を憎み、『こんな家庭や、世界なんかから、早く消えてしまいたい』と願った、沙耶の心はより一層、どす黒く塗りつぶされていったのだった。

沙耶は、それでも、小学校、中学校、そして高校生の現在に至るまで、家でも、学校でも、皆の望むような優等生であり、学校のアイドル的存在として振る舞い続けた。

SNS上でも発信を行い、学内外を問わず、今では多くのフォロワーに支持を集める有名人となり、高校に入ってからの、沙耶への周囲の尊敬は高まる一方だった。

内心では、この社会に、世界に何の疑問も抱かずに追従し、迫害される恐れもない『多数派』として、呑気な顔をして生きている、周囲のクラスメイトらを見下しながら。ただ一人、椛を除いて。

椛への恋心が封じられた日からも、沙耶の、椛への思慕は潰える事はなかった。同じ、『この世界で生き続けていく事に価値を感じない』という厭世観を共有する「同志」として、沙耶は椛を慕い続け、隣に居続ける決心をしていた。


‐その特等席に、あの幼い印象であか抜けない、困り眉の、おさげの、あの腑抜けたようにも見える表情の女が‐、穂波茜がいきなり座り込んできたのだ。

何度も、鞄の中に隠したカッターナイフの刃を出しては収め、朝の教室で沙耶は、気持ちを鎮めるのに集中した。机の上に投げ出された、ネックレスの血晶に映り込む、憎しみを燃やした自分の顔。それを早く、皆が来る前に直さなくては。

一人、また一人と同級生らが、教室内に入ってきた。

沙耶の美貌は、ただ教室の中、佇んでいるだけでも、周囲の目を惹きつけるのに十分なものだったから、普段、特に付き合いがある訳でもないクラスメイトらも次々、沙耶に声をかけてくる。

「おはよう、霧島さん、今日は早いね!」

大丈夫。いつも通りに振る舞うのだ。貼り付けた笑顔を‐、刹那でも気を抜いたら崩れてしまいそうな笑顔を振りまいて、椛は笑い返し、言葉を返す。

「うん、ちょっと、昨日は眠れなくって、早くに目が覚めちゃった。でも、大丈夫だから」

しかし、それも長くは続かなかった。

そして‐椛と、取り巻きの女子達も入ってきた。椛の隣には、その集団に全く似つかわしくない、茜の姿があった。

如何にも居心地が悪そうに、集団の中、キョロキョロと周りを眺めて、ただでさえ小柄な体が小さく縮こまっている。時折、子供じみた左右のおさげを軽く揺らして。

その瞬間に、昨日、盗聴器を介して聞いた、椛と茜の密かなやり取りが、沙耶の脳内で鮮やかに再生される。

血晶の都市伝説-運命の相手に出会った時、お互いの血晶はそれを知らせるように、自身の体に血晶の紋様を刻み込む‐、を利用して、自分に秘密で契約を交わした、椛と茜を。

‐『いや、椛ちゃんが、私を裏切る訳がない・・・。椛ちゃんは悪くない!悪いのはあいつだ、穂波茜!!血晶の都市伝説に付け込んで、あいつが何か、椛ちゃんに吹き込んだんだ。そうでなければ、あんな契約を、椛ちゃんが、私に秘密で・・・』

既に教室で鞄を置いて雑談に興じていた生徒らの光景は、一斉に、椛のグループに紛れ込んだ、小さな異端者に目を遣り、同じように驚きの表情を浮かべる。

「え・・・?霧島さんの隣にいるの、穂波さん・・・?」

「霧島と、あいつ・・・えっと、穂波だっけ?が仲良かったなんて聞いた事ないけど。あの二人、どういう繋がり?」

朝からのこの異常な事態に、そんなひそひそ話が教室の中を占める。椛、沙耶、それを取り巻く、クラスの中のいわゆる「陽キャ」に属する女子生徒達で、完璧な均整がとれていたグループに、その均整を乱すように紛れ込んだ、小さな異分子に。

益々、茜は椛の隣で体を小さく縮こまらせ、小動物のように、皆の視線に萎縮していた。

「おはよう、沙耶」

目の前で起きている事をまだ受け入れられずに、硬直している沙耶に、椛はパッと手を挙げて、お決まりの、爽やかに作った声であいさつをする。いつもは沙耶の日常を彩るのに欠かせない、椛の声も、今日は、聞きたくはなかった。

椛は悪くない。悪いのは穂波茜。いくらそう自分に言い聞かせても、自分の中に、椛の声を聞いた途端、怒りの炎が燃え上がりそうになったから。

椛の声に、硬直して、沙耶は何も答えない。机の上に投げ出したままの血晶のネックレスを鷲掴みにして、手荒に、カーディガンのポケットに突っ込む。

笑顔で振る舞おうと努力してきたが、やはり無理だ。今までずっと、家族やクラスメイトの前で、演じる事に慣れてきた自分でも、この状況の中、「穂波さん!今日から仲良くしよう!」などと言って、茜に笑いかけ、話しかけるような技量は到底持ち合わせていなかった。

手の中に隠して、弄んでいたカッターナイフも、血晶のネックレスと共に、カーディガンのポケットに忍ばせる。

椅子を荒々しく蹴立てて立ち上がると、椛の声を無視したまま、沙耶は教室から飛び出していった。

教室を出て行く間際、当惑した表情で立ち尽くしている、憎むべき茜の顔を、ほぼ、殺意に等しいものを込めた眼差しで、一瞥して。


「え?な、何、急にどうしちゃったの、柊木さん?」

「なんか、目が完全に座ってたよね・・・。キレてなかった?あんな柊木さん、初めて見た。それに、こっちの・・・ていうか、穂波さん?の事、凄く睨んでなかった?」

椛の周りの取り巻きの女子達も、この異様な状況にざわついている。

茜も確かに感じ取った。学校のアイドルとは程遠い、彼女の、憎しみを込めた視線が、一瞬だが、自分を捉えたのを。全身に寒気を感じる程の、彼女からの強い敵意を感じた。

『な・・・なんだったの、今の・・・。柊木さん・・・、見た事ないくらい、怖い目をしてた』

「ねえ、霧島さん、何か、柊木さんと喧嘩でもしちゃった?霧島さんが声をかけたら、突然、様子が変になったんだけど・・・?穂波さんとも、もしかして何かあったの?」

他の女子生徒らは、茜の事はそっちのけで、椛に何かあったのかを尋ねている。

「いや・・・、昨日、学校から帰る時までは普通だったし、その後は、沙耶とは話してないよ。あか・・・、穂波さんだって、柊木さんとは会ってない筈だよね?」

一斉に、グループ内の女子達の鋭利な視線が、茜へと突き刺さる。『お前が、自分達のアイドルである沙耶に何かしたのではないか』と、疑いを込めて。彼女らは、茜の事など何も知らないし、全く信用もしていない。茜が沙耶を怒らせたのでは、と疑われるのも当然ではあった。

「え・・・?わ、私は、柊木さんとは、何も話してなんかない、よ・・・!」

彼女らの鋭い視線に萎縮し、どもりながら、茜はそう返すのが精いっぱいだった。

しかし、彼女らは、沙耶の様子が急におかしくなったのは、きっと、このグループに急に紛れ込んできた異物である、茜が何かしたからに違いないという先入観にとらわれている。

茜の萎縮を、彼女らは、何かやましい事があるから狼狽えているのだと受け取ったらしく、益々、茜を見る視線に険しさが増していく。最悪の流れだ。茜は、突き刺さる視線に痛みさえ感じ、吐き気を催しそうだった。

そこに、救いの一声が響き渡る。

「待って!皆、ちょっと落ち着いて!穂波さんが、昨日、学校が終わってから沙耶と何か話せた筈がないよ!」

茜の方を睨むようにしていた彼女らは、忠実な部下のように、一斉に声の主に‐、椛の方に振り返る。

「どういう事、霧島さん?どうして、それが分かるの?」

「・・・だって、学校が終わった夕方から、その後の夜まで、殆どの時間、僕と穂波さんは、ずっと二人一緒にいたんだから。それで、いつ、どうやって沙耶に会いに行く時間が、穂波さんにあったっていうの?少なくとも、穂波さんに、沙耶を怒らせるような事は何もする時間はなかった」

椛の周りを囲んでいた女子生徒らは、皆、一様に息を呑んで、『信じられない』という表情をしていた。昨日まで彼女らにとっては、名前さえもろくに記憶していなかった、印象の薄い存在だった茜と、自分達のまとめ役の、王子様系女子である椛が、昨日、二人きりで行動を共にしていたという事実に、衝撃を受けていた。

茜もまた、言葉を発する勇気はなかったが、

『も、椛さん・・・!そ、そんな事、このグループの皆に、言ってしまって大丈夫なの・・・⁉』

と狼狽している。茜を庇う為とはいえ、あまりに大胆な、椛の告白に。

「え・・・、そ、そうだったの⁉何で、霧島さんと穂波さんが?二人っていつからそんな関係になったの?今日も、朝から二人で学校に歩いてて、びっくりしたけど・・・」

茜が何かしたのではという疑念よりも、そこまで急に、椛が、よりにもよって、クラスでは空気のような存在だった茜と親しくなっていた事への驚きに、関心が移ったらしい。彼女らは、一体何を昨日、そんなに茜と話していたのかやら、何がきっかけで穂波さん「なんか」と親しくし始めたのかと、椛を質問攻めにし始める。

「だって、全然釣り合わないじゃん、趣味から何から。霧島さんと、穂波さんじゃ。ほんとに、二人の共通の話題さえ想像つかないんだけど」

蚊帳の外に放り出された茜にも、そんな言葉が聞き取れた。それが、彼女らの隠さざる本音だろう。

しかし、椛は、昨日の、血晶の刻印に関する話で、遅くまで、茜と自分の家で話していたという真相については、実に見事に煙に巻いた。彼女らの質問攻めを掻い潜るその巧みさには、茜は舌を巻くしかなかった。

「兎に角、何か、沙耶が怒る理由があるなら、その責任はきっと僕にある。皆も、それに、穂波さんも沙耶を怒らせるような事は何も言ってない。だから、沙耶の事は心配だろうけど、あの子の事は、後は僕に任せてくれない?事情は、ちゃんと僕が聞いて、何とかするから。君たちは、心配しないでいいから」

冷静に、しかし、何処かに有無を言わさぬような強さも秘めた口調で、取りまとめるように椛は取り巻きの女子達にそう言った。彼女らは、完全には納得した様子ではなかったが、椛の言葉には従った。

「分かったよ・・・。柊木さんのあんな反応、初めて見たから、うちらも悪かった・・・、そこまで言うなら、二人が一番仲良いの知ってるから、後は霧島さんに任せる。ただ、霧島さん、これだけは言わせて」

取り巻きの中でも、とりわけ、目つきが悪く、性格のきつそうな印象を抱いていた女子が、突然、茜の方を、勢いよく指指す。茜は、びくりと体を震わせる。

「さっきから何もしゃべんないし、こいつが何考えてんのか分かんないけど、うちらは、はっきり言って、穂波さんは信用してないから。急にうちらに乱入してきて、何の目的なのか知らないけど。霧島さんも、こんな訳の分かんない穂波さんを、あまり過信しない方がいいよ。これは忠告だと思って受け取って」

理由はよく分からないが、何故か椛が目をかけているから、今のところは排除しない。しかし、茜の事は、全く信用はしていない・・・。きっと、それは彼女に限らず、その場の取り巻きたちの総意であっただろう。

椛は、それに直接答える事はなかった。

茜は、今まで椛の取り巻きの、視線の矢に注意が向いて、気付かなかったが、はっと、後ろの・・・教室全体を見回すと、クラス中が、異様な物を見る目で、茜を見ていた。特に、つい昨日まで、何となく一緒に学校で過ごしていた、かつての茜のいたグループの女子達の目線は、困惑と、クラスを混乱させている茜への、蔑視しかなかった。彼女らとの間には、本当に、「友人」と呼べるような関係は欠片も成立していなかったのだと、その、あっさり見限ったようなその視線に、茜は悟った。もう彼女らと余生で話す事もないだろう。

朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴り響き、それが、この緊張状態の、一時休戦の合図となった。椛の取り巻きの女子達は、険しい目をしたまま、席に戻っていく。時折、まだ何か言いたげに、茜に目線を送って来る女子もいる。教室の凍てついていた空気が、担任教師の入って来るのに伴い、ようやく氷解して、動き出した。


ホームルームで、沙耶については体調が良くなるまで、今日は保健室で休むという知らせが告知された。茜の斜め前の席にいる椛の横顔に影が差した。そして、ホームルーム後、一限目の授業の開始までの短い休憩時間に、彼女はそっと、茜のスマホにメッセージを送信してきた。

「昼になっても沙耶が帰ってこないようなら、保健室に様子を見に行こう。茜が沙耶に直接、何かしたとは思わないけど、でも朝の態度は普通じゃない。何か・・・凄く悪い予感がする」


気付いたら、少し眠っていたらしい。

ベッドの周りを覆う純白のカーテンの隙間から、差し込む光が目を打ち、眩しさに目ざめる。スマホで時刻を見れば、昼休みも近かった。昨晩、怒り、哀しみ、混乱から一睡も出来なかった反動が来たのだろう。

何もしないで一人、保健室の、ところどころしみの残る古びた天井を見ながら横たわっていると、社会の時間の流れから、自分だけが遊離して、虚無の空間をぷかぷかと浮かんでいるような、足元のおぼつかない感覚に陥る。

意識が冴えてくるにつれ、朝、教室から飛び出していった時の感覚が蘇ってくる。

『許せない・・・穂波茜・・・!!椛ちゃんの理解者で、同志で、ずっと隣にいていいのは私だけだった筈なのに・・・!椛ちゃんの血晶に反応して、運命で結ばれた相手として刻印を刻むのは、私の、この血晶以外にあり得なかった筈なのに・・・!!』

胸中を渦巻いているのは、怨念に近い叫びばかりだ。沙耶は、何度も、宙に手をかざしては、椛と共に買った、ネックレスの先の血晶を恨めしく眺める。何も反応する事のなかった、役立たなかった自分の血晶が憎い。

苛立ちを紛らわすように、唯一、自分を許容し、包んでくれるネットの世界に逃げる事にする。「SAAYA」という、ネットの世界だけの自分に、指先の操作だけで生まれ変わる。

「私が、昔から一途に恋焦がれていた、この先も隣にいたいと思っていたあの子の隣に、薄汚い泥棒猫が割り込んできた。気分最悪。皆、どうしたらいいと思う?私は、あの子の隣でなくなる、一番で無くなるなら、こんな世界に生きてる意味なんか見つけられないよ・・・」

そう、自分のアカウントにコメントを残す。すると、みるみるうちに、高評価のポイントが跳ね上がり、ポツリポツリと、「SAAYA」の信者達の返信が集まり始める。

「SAAYAちゃんの恋を邪魔するような女なんて許せない!」

「そんな泥棒猫の女は〇ねばいいんだ!」

ここでは、自分を全肯定してくれる者しか集まらない。優しい世界だ。現実の世界より、余程こちらの仮想空間の世界の方が、沙耶には生きやすい世界だ。


「SAAYA」を応援してくれて、フォローしてくれている人達に、沙耶は、自分が同性愛者である事は、既に以前、教えていた。そのうえで、椛についての詳細は伏せたまま、沙耶は自分の恋についての話をして、彼ら彼女らも沙耶の恋を、異性間の愛と何ら変わりなく、応援してくれていた。堅苦しさしかない柊木家の連中より、この人達の方が遥かに優しく自分を包み込んでくれている。

沙耶の指は、そんな、顔も知らない応援者達に向けて、次のようなコメントを打ち込んでいた。他にやり場のない気持ちを吐き出すように。

「私とあの子は、お揃いの型の血晶のネックレスを買っていたのに、あの子の血晶は、ずっと隣にいた私ではなく、その女の血晶を、運命の相手として選んだ!!どうしてなの?血晶さえも、私があの子と結ばれる手伝いをしてはくれないの?もう、こんな現実の社会には何にも期待してない。同性愛を嘲笑のネタにするか、お涙頂戴の安いドラマにするか、蔑むかしか考えてないような、こんな社会なんかに。血晶まで私を裏切るなら、私は、こんな社会で何を信じたらいいのっ・・・⁉」

そうして、コメントへの返信を待ちながら、今日もSNS上の、日本のトレンドを見る。そこには、あの言葉があった。


『この世界にサヨナラを』


こんな社会でこれ以上、生きてはいけないところまで追い詰められた、二人の同性愛者の女優の連続の自死。その最期を飾った言葉だ。

今も、信じられない事に、自死した元アイドルの女優が同性愛者であったと死後、発覚した途端に「騙されていた」「アイドル時代は、あんなに男に媚を売ってて、実は女が好きだったってなんて、男を馬鹿にして、金づるとしか思ってなかったんだな」という誹謗中傷のコメントを、沙耶は何個も見つけていた。

こんな世界にサヨナラ出来た二人は、幸せになれたと沙耶は確信した。

トレンドに反応している人々のコメントを見る。社会からの抑圧への怨嗟、求められる自分を演じる事への疲弊、何にもなれない空っぽな自分への虚しさ。声なき叫びがいくつも溢れていた。

「そりゃ、皆、したいよね。『この世界にサヨナラを』・・・」

沙耶はリボンを解くと、制服のシャツの上のボタンを外して、首元を緩める。そして、首元から胸元にかけての肌を、すっと、指でなぞる。痛みも何も感じない、普段通りの皮膚が広がっているだけだった。手鏡で見てみるも、何も刻印らしきものは現れない。

沙耶の血晶は、未だ、何の反応も示してはいなかった。

「この・・・役立たず・・・!!」

ネックレスの先の血晶を、強く握りしめる。掌に、血晶の小さな突起が食い込んで、

痛いばかりだった。

その時・・・手に突起が食い込んで、走った痛みから、沙耶の頭に、ある考えが浮かんだ。

「待って・・・。なんだ、刻印が私にも出来た事にすればいいんだったら、簡単な話じゃん・・・。これを使えば」

枕元に置かれた、丁寧に畳んだカーディガンのポケットの奥から、カッターナイフを取り出す。カチカチという音と共に、付け替えたばかりの銀色の刃が出てくる。

そのカッターの刃と、血晶の紋様を見比べながら、沙耶は、その「凶行」を実行するに至った。カーテンをさっと開ける。ここの保健室の担当の先生は基本的に怠け者で、部屋にいない時間も多いのは知っていた。

洗面所が、部屋の一角にあるのが目につき、そこに、刃を出したカッターナイフを持ったまま、ふらふらと歩いていく。そして、鏡の前に立つ。皆から褒められる、色白の肌が、首から胸元にかけて広がっているのが映る。

痛みから声が出ないようにハンカチを口に咥え、固く噛み締める。そして、鏡を見ながら、カッターナイフの刃を胸元の肌に突きつける。

血晶の紋様を真似て、自らの肌に刻み付ける為に。

やがて、冷たい刃がすっと、沙耶の胸元の肌を切り裂き、最初の一筋の紅い線を付けた時だった。


「柊木さん・・・!!何、してるの⁉」

「・・・沙耶!!」

一人は、ずっと焦がれていた声。もう一人は、今、一番聞きたくない声だった。

保健室の引き戸が開けられ、そこに、椛と、茜の二人が立ち尽くしていた。








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