第10話 狂気の決意

視界に飛び込んできた光景を見た時、何が起きているのか、最初の数秒間は理解が追い付かなかった。それは、隣に立っていた椛も同じだっただろう。

椛と共に、保健室の引き戸を開けて入ったその矢先・・・茜の目に映ったのは、部屋の一角の洗面所の前で、首元にカッターナイフを突きつけている、沙耶の姿だった。

衝撃から、体が硬直して動けない。それは、向こうも同じだったようで、沙耶の方も、二人が来たのにに気付いた途端、表情を凍り付かせ、鏡の前で、一瞬、首元に突き付ける銀色の刃の動きが止まった。

三人の間に走った、空気が張り詰めた一瞬。それを最初に破ったのは、やはり椛だった。

「沙耶!!一体・・・何してるの!やめて!!」

そう叫んで椛は、半ば飛びかかるような勢いで沙耶の元に向かい、彼女の、ナイフを握る右手を掴み、必死にそれをもぎ取った。沙耶は、口に咥えていたハンカチをパッと離して、

「それを返して!今から、私も刻印を手に入れるの!お願いだから、邪魔をしないで!」

と、いつもの教室での彼女からは、想像もつかないような、酷く取り乱した声で、ナイフを椛から取り返そうとする。それには耳を貸さずに、椛は、もがいている沙耶を何とか鎮めようと、彼女の右腕は固く掴んだままで、

「急にどうしたの⁉こんな真似をするなんて・・・!何があったの」

と沙耶に声をかけ続ける。沙耶は、美しい黒髪も振り乱して、乱暴に首を横に振って、答えようとしない。時折、宙にも揺れる黒髪に隠れて、彼女の表情は伺いしれないが、彼女の視線が、保健室の扉で立ち尽くしている茜にとまった。

その瞬間、茜は、背筋に氷塊を当てられたような、寒気を感じた。茜を視界に捉えた時、沙耶の眼差しには、明確に、「殺意」と呼んでも過言ではない、禍々しい感情が走ったから。

蛇に見入られた蛙の心地がした。いつも取り巻きの女子達に囲まれ、もてはやされている「学校のアイドル」の姿からは想像もつかない、彼女の心の闇を、茜は垣間見た。

椛は、多少の武術の心得もあるらしく、一瞬の隙を見逃さずに、近くにあったパイプベッドの白のシーツの上に沙耶を素早く、しかし決して怪我はさせないように素早く押し倒し、その腕を取り押さえていた。椛が、沙耶の上に覆い被さるようにして。取り巻きの女子達が、普段の状況で見ていたなら、割れんばかりの黄色い歓声が飛び交いそうな光景であるが、今は、そんな甘やかな空気など微塵もない。

椛が、沙耶の左腕を押さえ込んだ時に、沙耶は「痛っ・・・!」と微かに呻くような声を上げた。それを聞き逃さなかった椛は、沙耶の長袖の制服のシャツの、左の裾を捲り上げた。真新しい包帯が巻かれ、その中央が薄っすらと、真紅に染まっているのが、茜の目にも見えた。リストカットの後だとすぐに分かった。

「また、やったんだね。リスカを・・・」

沙耶の左手をとったままで、椛は問い詰めるようにそう、沙耶に問いかけた。

「また」という事は、沙耶は以前からリストカットを繰り返していたという事か。

学校のアイドルで、皆の輪の中にいて、噂ではSNS上でもちょっとしたインフルエンサー。そんな順風満帆の日々を生きていて、茜のような「何もない」人間とは対極の位置にいる人間。沙耶に抱いていた、そうしたイメージがどんどんと、崩されていく。彼女のような人間が、手首を切らなければいけない理由が何処にあるのだろうか?

「放っておいてよ・・・!今日は、あの教室にいられるような気分じゃないの!あの、いつも椛目当てにくっついてくる女共と、話すのだって、今日はもう煩わしいの!椛と・・・、そこに突っ立ってるだけで、まともに喋れもしないあの、子供っぽい女が来なければ、私は、血晶の刻印を、体に刻み込めていたのに・・・!!」

茜は、びくりと体を震わせた。沙耶は、間違いなく、自分の事を「敵」として見ている。茜について触れる時の、研ぎ澄ました刃物のように鋭いその口調や、冷たい眼差しからは、それはもう疑いようがなかった。

今の沙耶に、自分から声をかける勇気など、とても茜は持ち合わせていなかった。

「刻印・・・?沙耶、一体何のことを言ってるの?」

「とぼけないでよ!椛も知っているでしょう?血晶は、運命の相手を見つけてくれる。その相手に出会えた時、お互いの体に、それを知らせるように、血晶は『刻印』を刻み付けるっていう都市伝説・・・。でも、私はこんなに今も、椛を思ってるのに、いつまでも役立たずの血晶は、私の体に刻印を刻んではくれない・・・。だったら、私の体に、自分で刻印を刻もうとしてたのよ!」

先程の、カッターナイフを首元に突き付ける行為。あれは、何もあの場で沙耶が、あらぬ事を実行しようとしていた訳ではなかった。血晶の都市伝説である、刻印を模倣して、自らの手で、体に刻み込もうとしていたのだ。茜の中で、あの沙耶の凶行の意味が分かった。十分に狂気じみた行為ではあったが・・・。

‐しかし、刻印が現れる条件とは、血晶が「運命の相手」だと選んだ二人の間だけだった筈だ。その刻印を、自らナイフで刻み付けようとするまで、沙耶が椛との間に欲しているという事は、つまり・・・。

「沙耶・・・、それって、つまり・・・」

「そうよ・・・。はっきり言ってあげる。あの中学の秋の日に、椛は私を振ったから・・・、椛は『死』にしか恋しないから、私は気持ちを封じていたけど、本当は今だって、椛の事が好きなのよ!!血晶の魔力を使ってでも結ばれたいって願うくらいに!」

茜は、あの二人のやり取りには全く口を挟む余地などない。二人の間の事情も知らない自分が、この場で割って入ったところで一体何を語れるものか。

しかし、今の沙耶の言葉、明確な愛の告白の前に、椛の大きな瞳が激しく揺れ動き、彼女が沙耶の前で動揺しているのは、茜にもはっきりと分かった。まだ、椛の事は知らない事の方がずっと多いけれど、彼女が「僕は恋はしない。僕が恋する相手は『死』だけだから」という主義である事は、昨日のやり取りで知っていた。

「でも・・・じゃあ、どうして急に、こんな、自分で刻印を刻み付けようなんて、危険な事を?」

椛がそう尋ねると、沙耶は言葉を詰まらせる。何かやましい事があるように、彼女は横たわったまま、顔を横に背けて、歯切れの悪い口調になる。

「・・・それは、話したくない。椛にも。もういい。今日は私、もう帰る。クラスに戻ったら、取り巻きの女達にも椛から、そう言っといて。教室に戻りたくない。特に・・・」

また、沙耶は茜を睨む。先程、教室でも、いつも椛と沙耶の周りを囲んでいる女子達から、「茜が沙耶に何かしたのではないか」と理不尽な疑いの目を向けられたが、そんな物とは比較にもならない程、今の沙耶の瞳には恐怖を感じる。

「そいつが・・・、穂波茜が、私だけの理解者で、同志だった筈の椛の隣にいるところなんて、見たくもないから」

そう言うと、沙耶は、椛の体を押しのけて立ち上がり、血の僅かに流れている胸元の傷もそのままに、シャツのボタンを上まで閉める。そして、いつも着ているカーディガンを着込み、血晶をあしらったネックレスを手に掴む。

「『死』にしか恋しないって言っていたくせに、私の事は裏切って、そんな奴を相手に選ぶんだね、椛は・・・。血晶の刻印の導きで」

保健室を出て行く、去り際に、椛と茜の二人を一瞥して、沙耶は冷ややかにそう言った。椛とどういった約束事があったか、詳しい事情は知らないが、茜の事を、椛の恋人になったという風に勘違いしているのは間違いなかった。

茜は必死に、勇気を振り絞る。椛への誤解を解く為にも、その誤解は解かなければと思ったからだ。

「ま・・・待ってよ、ひ、柊木さん!私と、も・・・霧島さんは、そんな、柊木さんが思ってるような、関係じゃ、ない・・・!」

我ながら情けない程に、言葉を詰まらせてでも、必死に沙耶の背中にそう言葉を送る。引き戸を開けて、出て行こうとしていた椛が、茜の言葉に足を止める。

「穂波さん・・・、貴女と話す気なんてなかったけど・・・、椛との関係について、申し開きがあるなら、それだけは聞いてあげるわ。貴女が、椛の恋人になったんじゃないなら、じゃあ、今二人で一緒にいるのは何故?」

こちらを向いていないのが幸いした。彼女の表情を見ながらでは、茜に話せる度胸などなかった。

「そ、それは・・・!」

昨日、陸橋の上で椛に見つけられ、血晶の刻印に基づいた「契約」の話をしようかと思っていた。沙耶が、椛を大きく誤解したまま、去って行くのは嫌だった。

しかし、その茜の動きを椛が、手で制した。小声で椛は、「昨日あった事は話さないで」と言う。椛が、茜に変わって、言った。

「君が、穂波さんの事で何かとんでもない勘違いをしてるのは分かった。これだけは言わせて。僕が昔言った、自分が恋する相手は『死』だけだっていう、その言葉は本当だし、この先も、沙耶だけでなく、それは誰が相手でも変わらないよ。穂波さんとは、新しく友達になったっていうだけ。君に隠すような事なんて何もないよ」

出鱈目は言っていない。昨日の一件をきっかけに、確かに茜と椛は、少々奇妙ながらに「友達」と呼べる関係になったのは本当だ。

ただし、昨日、二人が交わした話の「全て」を語ってもいない。嘘で沙耶を傷つけたくないという、椛なりに考えての言葉だったのだろう。

沙耶は黙って聞いていた。最期には「そう・・・。ただの、『友達』ね・・・」

と何やら、意味ありげに言葉を繰り返して、振り返る事なく、保健室を出て行った。


沙耶の、今まで全く見えていなかった闇の一端が、特に、椛への並々ならぬ暗い執着が見えた時間だった。

沙耶が去った後の保健室で、茜は、ようやく緊張が解けて、近くにあったベッドに座り込む。凍てついていた部屋の空気が、いくらか温かくなったようにさえ感じられる。

彼女の声が、未だ耳にこびりついている。茜には、一つ不可解な点があった。

去り際に、彼女が捨て台詞のように残したあの台詞だ。

『私の事は裏切って、そんな奴を相手に選ぶんだね、椛は・・・。血晶の刻印の導きで』

茜と椛の、二人の体に血晶の刻印が出現したのを知っているとしか思えない口ぶりだった。

「さっきの柊木さんの言葉・・・私と、椛の間の、血晶の刻印が現れた事、知ってるみたいだった。でも、どうして柊木さんが、その事を知ってるの?私達二人の体の、血晶の刻印の事、それに昨日の『契約』の事も、全部、柊木さんが知る機会なんてなかった筈なのに・・・」

椛も、同じ違和感は覚えていたようだ。彼女も当惑した表情を、隠せない。

「そんな・・・沙耶が、僕と茜の体の、刻印の存在を知ってる筈ないよ。この刻印の存在は茜以外には、誰にも教えていないのに」

沙耶が、二人の秘密の刻印の存在を、知る事が出来た筈がない。

二人共、沙耶の突然の凶行に、動揺していて、言葉が上手く出てこない。

ただ分かっているのは、沙耶が、椛に対して、何か強い感情を・・・執着を持っていて、それが爆発してしまったらしいという事だけだ。

「それにしても・・・私はまだ、茜と、柊木さんの事を、昨日まで遠くから見ていただけだったから、全然詳しく知らないけれど、さっきの柊木さんの言葉って、どういう意味なの・・・?」

感情を迸らせるように、沙耶が口にしていた、椛への思い。あれはどう見ても、椛への、『愛』の告白だった。

茜の問いに、椛は、小さく溜息をつく。そして、床の上に落ちたままになっている、沙耶のハンカチを拾い上げると、丁寧に畳んで、自分のブレザーのポケットに仕舞い込んでから、「ちょっと、場所を変えようか。あの事は、沙耶と僕だけの、秘密にしてきた話だけど、こうなってしまった以上は、茜にも教えない訳にはいかないから」と言った。


霧島椛が、柊木沙耶と一緒に歩いていない。それだけでも珍しい事なのに、その隣を、今日は事もあろうに、碌に顔と名前も一致していないような存在の茜がいる、という事に、廊下でも、何度も驚きの視線を向けられた。購買で残っていた総菜パンと、紙パックのジュースを適当に二人は見繕い、中庭へと出て行く。その中の、一番、周りに生徒の姿も少ない、楓の木の下のベンチに、二人は並んで腰かけた。

ひらひらと時折、落ちてくる、薄い紅の楓の葉を見つめながら、椛は何かの記憶に浸っているようだった。

どうにも落ち着かないまま、茜は、紙パックのオレンジジュースをストローで吸い込む。口の中が甘酸っぱい味で満たされていく。

「いつも、沙耶と何かある時は、僕の名前と同じ、紅葉の季節なんだよね・・・、不思議な事に」

一枚、落ちてきた楓の葉を手に取って、椛はポツリと呟いた。

そして、彼女は茜に、今までの、椛との間にあった事について、話してくれた。


霧島家と柊木家は昔から、地元の名家同士で古い付き合いであり、その関係で、口うるさい両親も、椛が、沙耶と遊ぶ事だけは許してくれた事。

ある式日、両家の人間が集まっていて、まだ子供だった椛と沙耶は、秋の庭で時間を潰していた時、沙耶から、自分は同性愛者である事を告げられ、額に口づけされた事。

そして、中学に入ってから、やはり秋の日に、紅葉の森林の中で、沙耶から改めて、告白をされ、それを断った事。


「・・・沙耶は、中学時代のあの事があってからも、僕の隣にずっといてくれた。でも、本当の沙耶の思いは、さっきのあの保健室で投げつけられた通り、あの日から変わってはいなかった。今も沙耶は、僕の事が好き。血晶にまで縋ろうとするくらいにね」

椛は、寂しげな笑みと共に、掌の上に、血晶のネックレスを乗せて、その小さな、鮮紅色の血晶を眺めていた。

「その血晶の型・・・、柊木さんが持ってたのと同じ型だよね」

「そう。僕らがまだ中学の頃だったよね、日本のあちこちでこの謎の宝石が産出されるようになって、売れ始めたのは。それで、僕と沙耶も高校に入った時に、お揃いの型で買ったんだ。今思うと、沙耶も、血晶の力に頼ろうとしていたのかもしれないね・・・。僕の気持ちを、自分に向かせる為に」

沙耶も、椛を振り向かせる為に、この血晶の魔力に賭けていたようだ。

「じゃあ、今日、私が隣にいるのを見て、柊木さんは・・・」

「嫉妬に狂ってしまったのかもしれない。沙耶は、思い込みが激しくて、僕への独占欲の大きい子だから。いくら、僕と君がそういう関係じゃないって説明しようとも、今の沙耶には届かないだろうね・・・」

椛は、深く溜息をついた。その姿を見て、茜もやり切れない思いに駆られる。

「私は・・・私の血晶がなんで椛の血晶と反応したのかは分からないけど、椛と柊木さんの関係が壊れてしまうのは、私のせいで壊れてしまうのは、嫌だ・・・」

しかし、いくら思ったところで、今の茜に出来る事は何もない。沙耶にとって、今の茜は完全に、自分の居場所を奪った『敵』だから。茜の言葉になど、沙耶が耳を貸す筈もない。

そうしていると、椛のスマホが、メッセージの通知を知らせる音が鳴り始めた。一件や二件ではなさそうだ。

彼女は、スマホの画面を見て、また溜息をついた。

「・・・沙耶の様子がおかしいって、皆、慌てて、どうしたらいいのか分からなくなってるね」

茜は、椛のスマホの、グループ通話の画面を覗き見る。いくつもの、椛を気遣うメッセージが舞い込んでいた。

『霧島さん、今どこ?なんか・・・柊木さん、昼休みに突然、教室に戻ってきたかと思うと、すぐに荷物まとめて、帰っちゃったんだけど・・・』

『すごい怖い表情してて、うちら、誰も話しかけられなかった。柊木さんも、話しかけるなってオーラ全開だったし・・・、ねぇ、本当に、霧島さんも、何があったのか知らないの?』

『もしかして、今も、穂波さんだっけ?あの陰キャの子と一緒にいるの?霧島さんが誰と仲良くなっても自由だし、うちらが色々言う事じゃないかもだけど、穂波さんと仲良くするのは・・・やめた方がいい気がする。なんか、空気重たいし、それに・・・あの子を見てから、柊木さん、明らかに様子がおかしくなった気がする。』

『正直、穂波さんの事は、うちらは今も疑ってる。柊木さんがおかしくなったの、あの子が関係してるんじゃないかって』

たった半日で、いてもいなくても変わらない透明人間から、随分と注目を浴びる存在に変わってしまったものだ・・・悪い意味で。茜は、次々と椛のスマホに入るメッセージを見て、そう思った。

彼女ら、椛と沙耶の取り巻き達の言う事は、見当違いではない。

沙耶は、どんな手段を使ったのかは知らないが、椛と茜が、血晶を介して、ただの友達とは違う関係になった事に気付いている。そして、嫉妬の炎を燃やして、自分の体にナイフで、血晶の刻印を真似て、刻み込もうとまでした。元々のきっかけは、茜が椛に近づいた事にある。

椛は、茜を気遣うように言った。

「・・・この子達の言う事なら、茜は、気にしなくていい。僕も、別に、この学校っていう世界の中で限られた時間、一緒に過ごすだけの、この子達の事も、本心では、どうでもいいって思ってる・・・。死にたがりで、嫌な奴なんだよ、僕は。王子様系女子なんかじゃ、全くないのに、皆がそうある事を求めるから、演技しているだけ」

そう言って、トークの履歴から、彼女らのメッセージを次々と削除し、画面から消していった。

「でも・・・一体どんな手を使ったのか分からないけど、柊木さんは、私達のこの、体の刻印の事、知ってる可能性が高いよ・・・。私、何だか、すごく、嫌な予感がする。柊木さんの事・・・」

それは、椛も同じだったのだろう。紙パックのカフェオレをストローで一口飲んで、また、考え込む様子になる。掌の上の血晶を眺める。

「それは、僕も一緒だよ。このまま、沙耶が何もしないとは思えない。今のあの子は、嫉妬の炎と、そして・・・、血晶の魔力に魅入られているから」


両親には、急に体調を崩したと嘘をついて、自分の部屋に閉じこもる。

保健室で自ら、首元につけた傷は、ごく浅い物だったから、いつも衝動的にリストカットをした後に使っている、カットバンを貼り付けて様子を見る。

気分は、この16年間の人生の中でも、最悪といって良かった。自分だけの居場所であった、椛の隣。椛が、決意を固めて、『死』を選んだ時には、美しくその隣を、自分の骸で飾る筈だった。それを、血晶の為に、一瞬にして、あの女に‐、穂波茜に奪い取られた気がしたから。今朝、椛の隣を歩いていた茜の姿を思い出しただけでも、憎しみが治まらない。

沙耶は、本棚からアルバムを取りだす。

そこには、何枚もの、椛との写真が挟まれていた。小学校、中学校、高校と、家同士の付き合いが多かった事もあり、記念にとった写真は、その殆どが椛と二人の写真だ。

アルバムのページをじっと睨みながら、沙耶は考える。自分の人生は、椛と共に歩んできて、椛が、自分の世界の殆ど全てであり、それ以外の物など、沙耶には大した意味をなさなかった。家族ですらも大した存在ではなかった。

『椛の隣を、穂波茜が奪っていくというならば・・・、私にとっては、世界は既に死んだのと同じだ。私のような同性愛者を毛嫌いするこんな家も、椛にすり寄ってくる学校のあの、煩わしい取り巻きの女どもも、それに、同性愛者を踏みつけてくるこんな社会も・・・。こんな世界なんて、もういらない。椛さえも、穂波茜と共に、私を裏切るのなら、こんな世界に未練なんてもうない』

一瞬だが、このまま一人孤独に、既に死んだ世界にサヨナラを告げる事も考えた。

しかし、それでは、沙耶の気持ちは治まらなかった。これほど、自分の短い人生を、世界を構成してくれていた、椛を、この世界に遺していく事など出来ない。

まして、あの泥棒猫のように椛の隣に居座ってきた、茜のような女が生きているこの世界に。

‐魔法のように、ある解決策が沙耶の中に浮かんできた。

「そうだ・・・あるじゃない。椛の、何か、特別な存在となって死んでいきたいという願いも叶えられて、私も、椛をあの、泥棒猫の女の傍から救い出せる。一度に二つを実現する方法が・・・」

沙耶は、SNSを開き、ニュースのトレンドを確認する。日本のトレンドは、今も変わらず、「この世界にサヨナラを」、だ。

そのまま、指先でタップしてみる。

SNSで覗く社会は、「悲劇の心中事件。例の女優二人の連続自殺事件に感化されてか」という見出しで溢れかえっていた。いくつもの同じ記事へのリンクに、共感や憐れみの声が飛んでいる。

記事を見れば、「この、同性では結婚も出来ない、どれだけ愛していても、家族にもなれない国、社会に生まれてしまった事を恨みます。あの二人の死を見て、改めて、その地獄を思い知らされました。この世界にサヨナラを」という主旨の遺書を残して、二人の女性の同性カップルが某市内で自殺しているのが発見されたようだった。お互いの首を刺し貫いて。現場には、血に塗れた血晶が残されていたと。

ネット上の人々は早くも、感傷的にこの事件を取り上げて、早くも耽美な悲恋のヒロインのように取り上げていた。「心中」という言葉と共に、恐らく無名だったであろう彼女達は、瞬く間に、人々の記憶に刻まれる存在になった。

何の関心も持たれない存在から、「特別」になれたのだ。

まだ、詳細は分からないが、恐らく、この二人の体にも血晶による「聖刻」が現れていたに違いない。記事を読みながら、沙耶はそう夢想した。

自分も、椛も救われる方法は「心中」しかない。沙耶は確信に至った。

「穂波茜なんかと、一緒には死なせない・・・!椛の隣で、美しく散っていくべきなのは、私だけなんだから・・・」

そう決断した瞬間に、朝からの鬱々とした気分は吹き飛び、その心は、晴れ渡る空のように明るく、爽やかになった。

あとは、決行する日を選ぶだけだ。

沙耶は、部屋の壁のカレンダーをチェックする。忘れもしない。中学時代、一度は自分の恋心が破れた日。沙耶が椛に、思いを伝えた日付は、今も、カレンダーにチェックを付けている。

沙耶が、椛と共に、「この世界にサヨナラを」する日は、この日を置いて他には考えられなかった。今度こそは、椛を、永遠に自分だけの物にするのだ。


沙耶の恋心が散った日・・・そして、心中を決行するべき日は、カレンダーの日付では丁度一週間後だった。

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