第8話 封じられた恋心

茜を家の車で自宅まで送り届けさせた後、椛は、ここ最近で一番幸せな気持ちで、眠りについた筈だったのに、その夜、とある夢にうなされた。

夢の中で、自分は中学生に戻って、森林の中に一人、立っていた。着ている制服も、今の高校の物ではなく、中学生当時のセーラー服だった。

周りには、赤や黄緑の木の葉が降りしきり、足を少し動かせば、地面の上に敷かれた、紅葉の紅い絨毯の葉を、靴が潰す、乾いた音がした。

夢の中も、現実と同じく秋が深まる季節の頃のようだ。この場所が何処かは、直ぐに椛には見当がついた。市の郊外にある、憩いの場として有名な公園の、林の中だ。この季節には、木の葉達は一斉に赤や黄緑に衣替えして、紅葉狩りに来る人々の目を楽しませる、手軽に行けて、季節の自然を楽しめる公園だった。

そこの森林の中で、椛は「彼女」を待っていた。

やがて、軽やかな、そして少し急いだ様子の足取りで、落ち葉を踏む乾いた音を立てながら、誰かが歩いて来る。その足音を聞いただけでも、椛には、もう、「彼女」が来た事はすぐに分かった。

「こんな場所に呼んで、どういう要件かな?沙耶」

椛は、足音の主に向かってそう言った。小走りになって、少し息を切らして現れたのは、今よりも少しばかり幼い顔立ちの、沙耶だった。

「学校でじゃ、絶対出来ない話だったから・・・。ここなら、誰にも見られるような心配はしなくていいでしょう?」

息を整えつつ、尚も沙耶の頬は、仄かに赤い。その赤みが、走ってきたからだけではないのは、椛も察する事が出来た。

沙耶の、いつもは周囲に愛嬌を振りまいて、華やかな空気を振りまく、その可憐な眼差しが、今日はいつになく真剣であり、何か意を決して、この場所に来た事を物語っていたから。

「本当にどうしたの、沙耶。何だか、今から果し合いでもするみたいな表情だね」

そんな軽口を叩いてみせて、余裕を見せる椛もまた、普段、学校や、お互いの家で会う時とは違う沙耶の様子に少なからず、緊張していた。彼女は何か重大な決心をして、椛をこんな場所に呼び出したのに違いなかったから。

椛の例えに、表情の硬い沙耶も、少し口元を緩めた。

「果し合い・・・、うん、ある意味では、それに近いものかもしれないわね。私の気持ちが実るかどうか、これが決戦みたいなものだから」

そんな意味深な事を呟いて、沙耶は、椛の真正面に立つ。沙耶が昔からよく知っている一番の幼馴染でなかったら、椛は本当に、身の危険さえ感じていただろう。それ程に彼女は、決して椛を逃がさないという意思の籠った瞳の力で、椛をその場に捕らえていた。

「決戦・・・?それは、穏やかじゃないね、沙耶・・・」

「軽口ではぐらかすのはもうやめて。真剣な話なんだから・・・。単刀直入に言うわ、椛。今から言う事は冗談でも、冷やかしでもないから、よく聞いて」

沙耶の声に遮られ、椛は口を閉ざす。そして、彼女は、椛が完全に沈黙したのを見届けた上で、沙耶は口を開く。

「私は、霧島椛の事が好き。恋人として・・・。今日と同じ、紅葉が降っていた庭で、貴女の額に口づけした日からずっと、その思いは変わらない。これ以上、この気持ちを隠したままでは、私は椛と一緒には過ごせない。だから、今日、言わせてもらったわ。椛の返事を聞くために」

冷たい風が二人の間を吹き抜け、地面に積もったばかりの落ち葉を宙に舞い上がらせた。そして、再び舞い落ちていく、赤や黄色の木の葉の向こうに、あの日、中庭で自分の額に口づけをしてきた、まだあどけない沙耶の姿が一瞬見えた気がした。

「私は、女の子が好きなの」

そう、今よりも舌足らずな、子供じみた口調で、しかしはっきりと、椛にその秘密を教えてくれた時の沙耶の姿が。

そうした幻が、宙を舞う木の葉と共に過ぎていくのを、唖然としたままで椛は見ていた。

こんな日が来る事は、どうしても避けられなかったのだろうか。

初めて、生きる意味を見出せない虚しさを分かち合えたと思っていた、その相手から愛情を告げられた。愛とか恋とか、そう言う感情は、生きたい人間の持つ感情ではなかったのか?

自分の中で抱いていた、「唯一にして、最高の理解者」という柊木沙耶の虚像が崩れ去っていく。胸の中を渦巻く感情は「失望」にも近かったかもしれない。

「どうして黙ってるの・・・?私の告白、そんなに嫌で、迷惑だった・・・?」

違う。同性からの告白が嫌とか迷惑とか、そんなレベルの問題ではない。何も分かっていない様子の沙耶に、次第に苛立ち、口調がとげとげしくなるのを感じながら、椛は答える。

「違うよ・・・そんなんじゃない。そんな問題じゃない・・・」

「じゃあ、何が問題なの?私の事、気持ち悪いって思ったの?でも、あの日・・・、お庭で話した時、あの日の椛は、私が女の子が好きだって言ったのを、拒絶しなかったよね?パパもママも、気持ち悪いって言った、私の『好き』を・・・」

「だから、違うよ!!僕と沙耶がどちらも女の子だからとか、そんなのを気にしてるんじゃない・・・!女の子同士とか、そんな事は問題じゃない・・・!」

沙耶がびくりと肩を揺らして、一歩後ろに下がる。見当違いな事を言った沙耶に苛立ち、大声を出してしまった自分を恥じる。

「ごめん・・・。でも、勘違いしないでほしい。僕も沙耶も女の子だからとか、そういうレベルの問題じゃないんだ。僕は・・・同性とか、異性とか関係なしに、恋をするつもりはないから」

椛が、恋とか愛とか、そう言ったものに対する考えを人に話すのは、これが初めてだ。

「沙耶にも、話した事、なかったよね・・・僕が、恋とか、愛とか、そういう物をどう考えてるのか。もっと早くに、この話を沙耶に聞かせてたら、傷つけずに済んだのかもしれない。今言っても、後の祭りだけど・・・。誰かへの恋も愛も、生きたいと願う人間が抱く感情だよ。それを、僕と同じだった筈の、生きるのに虚しさしかないって言っていた筈の君が言った事に、僕は・・・、沙耶にこんな言葉、言いたくはなかったけど、『失望』してるんだ」

失望、という二文字を聞いた瞬間に、沙耶の目は大きく見開かれ、その瞳は激しい動揺を晒していた。小刻みにその長い睫毛を震わせ、椛の言葉に、今にも彼女は泣き出しそうだ。彼女にだけは、こんな表情はさせたくなかったのに。


『やめて・・・、あの時の事はもう、思い出したくないのに・・・!こんな夢を見せないで・・・!』

あの時の夢など見たくない。感情を思い出したくない。椛は、必死にそう願ったが、椛が過去から目を背ける事は、許さないとでもいうように、あの日の夢は流れ続けていく。


「失望・・・?」

「そう・・・。恋も愛も、この下らない世界からいつでも去っていいと思っている僕を、引き留める、足枷になるかもしれない。この世界への未練になるような感情は、持ちたくない。だから、相手が沙耶でも、他の人でも、異性でも同性でも関係なく、僕は恋はしない。君に会った時、初めて、気持ちを通じ合える存在だと思った。それなのに、君は、僕に恋してるって言った。だから・・・失望したって言ったの。沙耶ですら、やはり、こんな世界で生きる事に未練を抱いてるんだって。死んでしまったら、誰かを愛する事なんて出来ないでしょう?」

沙耶の瞳に透明な膜が張り詰めていく。木漏れ日が沙耶の瞳のそれをきらきらと照らし、彼女が目を潤ませている事を知らしめる。

傷つけたのは椛の方だ。それなのに、椛の方も無性に哀しく、泣きたかった。泣く資格もないのに。沙耶に裏切られたという身勝手な失望の気持ちの為に。

沙耶は、しばらく黙りこくっていた。その沈黙が余計に苦しい。いっそ、泣き崩れてくれた方がまだ楽だったかもしれないと思える程に。椛に聞こえてくるのは、ばさばさと、何処かの木立から鳥たちが飛び立っていき、揺れた枝と木の葉が立てる、乾いた音だけだ。

沙耶は、それでも、泣き崩れる事はしなかった。しばらく俯いて、何かを考え込んでいたが、やがて、泣くのを堪えたような鼻声でこう言った。

「・・・じゃあ、私がこの先も、椛の隣にいる為には、どうしたらいい・・・?それを教えて。そうしてくれないと、私・・・、このまま、家には帰らずに何処かで死んでしまうかもしれない。椛ちゃんにまで失望されたままで、生きていけない・・・」

聞いた事もない弱々しい声でそう言った。

それでは、自分が沙耶を死に追いやったも同然の形になってしまう。そんな最期を、沙耶に迎えさせたくはない。理不尽に命を奪ったり、奪われたり、外からの力で死に追い込んだりするのは、椛の考えに明らかに反する。

沙耶がこの世界を去る時は、不条理で残忍な事件や事故や、追い詰められての自死ではなく、ふっと、微笑みながら、花びらが美しく散っていくように去ってほしかったから。

「僕は、沙耶にいなくなってほしくない。君には、僕への『恋心』を捨ててほしいだけなんだ。そうすれば、また今まで通り、この世界や社会を嫌う者同士として、僕と沙耶は隣にいられる。僕は、沙耶に、この世界を去る時の足枷に僕自身がなるのが嫌なだけなんだ。沙耶が嫌いになったんじゃない・・・。ここで、君が僕に、さっきの告白はなかった事にするって言ってくれたら、僕たちの関係はすぐ元に戻れるよ」

沙耶に、驚く程、身勝手な要求ばかりしている。今までのような関係を続けたいなら、告白をなかった事にしてほしいなどと。

しかし‐、沙耶は、顔を上げると、泣き笑いのような表情を浮かべながら、椛にこう言ったのだ。

「・・・分かった。椛ちゃんが、そう言ってくれるんだったら・・・私のさっきの告白は、聞かなかった事にして、いいよ。恋とか、愛とか、そういう感情は私達の間にはない。お互い、『死んでもいい』って思える時が来る日まで、今まで通り一緒にいよう?それで元通りになれるなら、告白をなかった事にするのなんて、私は何でもないから・・・。恋心なんてない、ただの『理解者』として、私は椛とこれからも一緒にいるよ」


何を思って、夢は、椛が一番思い出したくない、あの秋の日の、沙耶の泣き笑いのような表情を再び見せたのか。

まだ薄暗い部屋の中、声を上げて飛び起きた椛は、前髪をかき上げ、息を整えながら、そう思った。

昨日、血晶の結びつきの元で、茜と契約を果たした時は、間違いなく椛は幸せだった。自分におあつらえ向きの最期を、この血晶が用意して、道案内してくれているように思われたから。

茜と、血晶の刻印に導かれて、契約を結んだ事で、沙耶に罪悪感を抱いたのか?その罪悪感が、夢という形であの、思い出したくない日の記憶を引っ張り出したのか?

しかし、茜にも、自分は恋心は抱いていない筈だった。茜という存在さえもまた、椛の終焉の晴れ舞台を飾る、演出の道具として使わせてもらう気持ちしかなかったから、それはない。

「そういえば、平安朝の時代の人は、夢の中に自分の見知った人が出てくる時、それは、相手が自分を強く思って現れてくるんだと考えていたって、聞いた事がある・・・。もしそうなら、今、沙耶が僕に、何か強い思いを抱き始めてるっていう事なの・・・?」

チクリとまた、シャツの下の、紅い刻印が痛んだ。そこを軽く手で押さえて、椛は考える。

『今日から、僕と穂波さん・・・いや、茜が一緒に行動するようになったら、沙耶はきっと驚くに違いない。この刻印の事は、絶対、他の子には勿論、特に沙耶には見られないようにしないと・・・。沙耶の心が、どうなるか分からない』


いつものように、茜は食卓の端で、もそもそとトーストをかじり、朝のテレビニュースを眺めていた。昨日の夕から夜の出来事は、夢だったのではと思わせる程、いつも通りの代わり映えしない、穂波家の無言の食卓風景だ。

民放は、例の元アイドルグループの女優二人の連続自殺事件で一色だ。無言の食卓の中で

「嫌なトレンドね・・・、『この世界にサヨナラを』ですって。例の事件の遺書のやつでしょ、これ。あの、元アイドルでレズ?の二人が、目立ちたがりな死に方するから、バカな子供が影響されてこうなるのよ。そんなに死にたければ、何処かでひっそり黙って死んでけば良かったのに」

茜の母親が顔をしかめながら、キャスターの時事解説にそんな辛辣なコメントをした。母の口からあのフレーズが飛び出すとは思わず、茜は危うくむせそうになった。

画面を注視すると、番組のメインキャスターも、出演しているどこぞの大学の児童心理学か何かの教授らしい先生やら、タレントやらも一様に、小難しいコメントを垂れていた。「こんなトレンドが、十代を中心にSNS上で蔓延しているのは、大変に危険な事態。学校も家庭も一丸となって、多感な、感傷に浸りやすい思春期の中高生がSNSのトレンドなどに左右されないように、命の大切さをしっかりと教えないといけない」という、何番煎じか分からない定型文のようなコメントを教授の先生はしていて、他の出演者も何か喋っていたが、殆ど印象には残らなかった。

『このテレビの人達、何にも分かってないや。私が、この空っぽで、終わりも見えない毎日からやっと抜け出せて、『血晶』と一緒に、『華々しい死』に向かって歩いていくんだって決めた時から、私の日々は変わり始めたのに。『命は大切』と何百回聞かされたって、それが変わる訳ないのに・・・』

自然と口角が上がって来る。胸に、制服のシャツの下にそっと隠した、ネックレスの先の血晶と、その下の肌に刻まれた刻印に指を触れる。触れると、ピリピリとした痛みのある刻印に、昨夜の、椛とのやり取りを思い出してきて、あれは夢ではなかったのだと実感出来たから。

読んでいた新聞を閉じた父親が、チラリと茜に目をやり、その口角が上がっている事に気付いたらしく、椅子から立ち上がり際、こういった。

「どうした、茜?珍しいな、いつも、朝は眠たそうな顔なのに、今日は朝からニコニコと上機嫌だな。昨日は良い事でもあったのか?」

いつも、表情の機微に乏しく、困り眉の時が多いからか、『眠そう』と揶揄される事も多い茜が朝から微笑んでいる事など滅多にないので、父も気になったのだろう。

「うん・・・、まぁ、ちょっとね」

母の方はまるで気付いていないが、父は少しは、茜の微細な違いにも気付いたらしい。確かに、昨日の夜、椛の部屋であった事、交わした契約は、「良い事」だったと言えるだろう。

「そうか」と、如何にも適当な相槌を打つと、さっさとスーツの上着を着こんで、父は仕事に出かけていく。こうしたところは、親子でも、さほど、お互いの内面に踏み込んでこない穂波家らしいやり取りだった。

父が出勤していき、茜も朝食を終えて、ブレザーを着て、綺麗に校則通り制服のシャツの第一ボタンまでしめて、リボンも結ぶ。そして、家を出ようとしていたところで、呼鈴が鳴った。

「あら?こんな朝から誰かしら?」

母が首を傾げつつ、インターホンの通話ボタンを押す。そこから、漏れ聞こえた声に、茜は朝から早速驚かされる。

「穂波さんのお母さんですか?おはようございます。霧島椛です」


イチョウの黄色い葉の散らばった道を、茜は体を緊張に硬くしたまま、椛と肩を並べて歩いている。誰かと一緒に登校する事など、何年ぶりか、もう思い出せない。

「まさか、家まで迎えに来るとか思ってなかったよ・・・、昨日の今日で。霧島さ・・・じゃなくって、も、椛って、結構、押しが強いんだね」

「刻印がどういった風に、『聖刻』に変化するのか。その途中で何が起きるのかも分からないからね。今は僕も、血晶の都市伝説については、何もかも手探りの段階。兎に角、僕と茜の血晶が反応し合ってるなら、なるべく一緒にいた方がいいかなって思って」

昨日の夜から今朝までのあの、熱にうかされたような歓喜は、木の葉を散らす木枯らしと共に去り、茜は、胃に穴が開く思いだった。椛の影の顔を知らない学校の同級生や、教師らからは、彼女は王子様系の女子として明らかに特別扱いを受けている。名家の出身、整った容姿に文武両道の、高い能力・・・。そのどれもが、茜にはないもの。その彼女とこれから、目的はどうあれ、『友達』になるという事は、多くの時間、椛の隣にいないといけないという事だ。彼女には、いつも、彼女の取り巻きや、そして、「学校のアイドル」と名高い柊木沙耶もいる。その中にいる自分は、さぞ、白鳥の群れに紛れた醜いアヒルにでも見える事だろう。

「あ、霧島さーん!!」

甲高い声が、早速、椛の方へと飛んでくる。そして、その後、決まって彼女らは、椛の隣にいる、困り眉で、子供っぽいおさげで気の弱そうな表情をした少女を、異物のように見るのだ。

「あ、あれ・・・?えっと、その子は、名前、何だっけ?霧島さん」

「ああ、この子は、穂波茜。ちょっとした縁があって、仲良くなってね」

椛が普段相手にしている子たちは、誰一人、茜の存在を認知しておらず、名前すら出てこない有様だった。元々、茜は彼女らと関わって来なかったのだから、当然の成り行きではあるが。

いつも見かける、椛の取り巻きの女子の面子が揃って、その中で肩を限界まで竦めて茜は学校まで歩く。今日は、いつも流れるように通り過ぎる筈の通学路が、無限のように感じられた。

椛以外の、その場の全ての女子は、この異常事態を‐直接、口にこそ出さないが‐目くばせし合いながら、こう言っているのが、はっきり茜には感じ取れた。

『ちょっと・・・なんで、穂波さん?が、突然、うちらのグループに割り込んできて、しかも霧島さんの一番近くで隣を歩いてるわけ?全く、意味わかんないんだけど』

『ほんと・・・霧島さんと、穂波さん、一体何があってくっついたんだろ・・・。二人が喋ってるところとか今まで見た事もないのに・・・。てか、穂波さんってそもそも、うちらに関係なく、誰か友達いたっけ?』

茜の頭上を縦横無尽に交錯する視線が、そんな会話をしていた。

「ねえ、そういえば沙耶は?今日は、誰も見てないの?」

椛が、取り巻きの一人にそう尋ねた。彼女は首を横に振る。茜はほっと胸を撫で下ろす。この場に、柊木沙耶まで現れたら、学校に辿り着く前に緊張で潰されそうだ。

「そういえば、珍しいよねって話してた、この時間になっても、メッセージに既読もつかないの。いつもなら、秒で返してくるのに。柊木さん」

そんなやり取りが聞き取れた。

一刻も早く、学校についてほしいと願う事しか、茜には出来なかった。


一睡も出来ぬまま、朝早くに、一人で沙耶は高校のいつもの教室で、席に着いていた。学校指定のカーディガンを着込んで、特に注意深く、左の手首を隠しながら。

盗聴した、椛の部屋の音声が耳にこびりついて離れない。イライラして、席を立っては、窓の方に近づいていく。今日は、いつも通りに椛と共に登校は出来そうもなかったので、早めに学校に来て、彼女を待つ事にしていたのだ。

窓際で、朝日に自分のネックレスを、その先にぶら下がる、小さな血晶をかざしてみる。何故、自分の血晶ではなく、茜の血晶を、椛の血晶は選んだのか。やり場のない憤りがまた、込み上げてくる。

血晶の中に小さく、紅く映り込む、醜悪な感情に満たされた自分の顔を見る。いつもの、椛の取り巻き連中が来るまでに、お決まりの、皆の望むアイドルの顔に戻さなくては。

やがて、校門から、ゾロゾロといつもの取り巻きの女子達に囲まれながら、椛が入って来る。あの取り巻きの連中たちですら、椛に色目を使うのではないかと、常に沙耶は疑っていたし、一定以上の距離に、椛に近づかないよう、警戒していた。

しかし、今はそれ以上に、憎むべき相手がいる。

その集団の中央-、椛の隣にいる、小柄でおさげの少女・・・、穂波茜の姿を認めた時、椛は、危うく、拳を、机に叩きつけそうになった。まさか、椛のそれ程近くにまで、茜が接近しているとは。

『ずっとあの場所は、椛の一番隣は、私だけのものだった筈なのに!!』

脳の血管が焼き切れるかと思う程の、嫉妬の炎が心の中で渦巻いていた。

しかし、もうすぐ、彼女らは教室に到着し、椛も、沙耶を見つけて『どうしたの?今日はやけに早起きだね?』といつもと変わらない調子で話しかけてくるだろう。

そうなった時に、感情任せに噛みついたら、椛と茜のやり取りを、沙耶が盗み聞きしていた事がバレてしまいかねない。昨日、盗聴用の機械で聞いた内容は、まだ知らない振りをして、いつも通りに振る舞うしかない。

血の味がしてくる程に、唇を噛み締めて、沙耶は席に戻る。鞄から、愛用の手鏡を取りだし、強張った顔の筋肉をほぐして、笑顔の仮面を貼り付ける。学校の皆が求める、学校のアイドルとしての沙耶の顔に戻る為に。

『絶対に認めない・・・椛の血晶が選ぶべき相手は、あんないてもいなくてもいい、空気のような女じゃなくって、私以外にあり得なかった筈なのに・・・』

机の横にぶら下げた鞄を開ける。何枚目かの替え刃をつけた、カッターナイフが目に留まる。

「・・・そうね。いよいよという時には、これを使ってでも、椛を私の手に・・・」

カッターナイフを鞄の奥底に再び仕舞って、沙耶は、ある考えを頭に抱き始めた。実行するかは、未だ分からない。しかし・・・茜という女の出方次第では、これくらいはしなければならないだろう、椛を渡さない為に。

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