第2話 僕は、恋はしない

霧島椛が、例の女優の死のニュースを知ったのは、昼休み、廊下の端で、幼馴染の柊木沙耶と話をしていた時だった。

「人気アイドルグループ出身の女優、○○、非業の死・・・か。本当に、センセーショナルな見出しをつけるのが好きだね、ネットのニュースは。この人が生きてた間は、売れてない女優って扱いで、忘れてたし、見向きもしてなかったくせにね・・・」

椛は、素早く、スマホで自身のSNSのアカウントを立ち上げて、この事件に関する自分の思いを書き綴っていく。自分の、この世界に対する本音をぶちまけられるのは、自分の手の中に納まるネットの世界と、そして、目の前に立つ、学校の「アイドル」、柊木沙耶だけだ。

「また、SNSでポエム呟いてるの?厭世哲学者さん」

「そんな、厭世哲学なんて、大層な者になった気はないよ、僕は。この女優さんが死んだ事自体は、人並みに悲しむべき事だって思うし、美化するつもりなんてない。ただ、今まで存在すらも忘れてたくせに、一斉に世間の人たちが、『○○ちゃん、可哀想・・・助けてあげられなかったのかな?』なんて、歯の浮くような同情を、さも昔からずっとしていたかのように言い出した事が、何かね・・・って思うだけ」

自分の事を「厭世哲学者」と仰々しく呼ぶ幼馴染に、椛はそう返す。

「別に、亡くなった人の事を悼む気持ちは、人として普通の事じゃない?」

「まぁ、そう言われればそうなんだけどね・・・。でも、どうしてその言葉を、生前に言ってあげられなかったんだって考えるんだよ、僕の場合は。亡くなった事で、この人は、売れてない女優の一人から、悲劇のヒロインとして注目されるようになった。生きてる間はなれなかった、皆の特別な存在にね」

「学校の『王子様』が言うとは思えない言葉ね」

沙耶がそう言うと、椛は深い溜息をつく。スマホをブレザーのポケットに仕舞い込む。別段、この事件にさほどの関心はなかった。

「皆が求める姿を演じてるのも、疲れるんだよ。本当の僕は見ての通り、とても明るく、優しい「王子様」なんてノリじゃないのに。この髪だってそう。なるべく僕がボーイッシュに振る舞っていた方が、親も学校の皆も喜ぶからそうしてるだけ・・・」

沙耶は、ポケットの中から、「血晶」をあしらった、ネックレスを取りだす。

「皆、クラスで騒いでたけど。『血晶』の都市伝説は、本当だったんじゃないかって。思いが通じ合った『血晶』は自由自在に操る事が出来るようになって、形も好きに変えられる。だけど、その為には、他の「血晶」の持ち主と、心を通わせないといけない。それで、血晶の刻印を体に得て初めて、自由自在に操れるようになるって話。あの亡くなった女優さんも、体に刻印が出来たって、ブログに書いてたわ」

「沙耶って、あんな都市伝説を今も信じてるの、もしかして?」

「ええ。だって、要は好きな人が出来て、相手も『血晶』をもしも持っていたら、お互いの『血晶』が反応し合って、刻印が出来るし、自由に操れるって事でしょう?何だかロマンチックじゃない?きっと、亡くなった女優さんにも、恋人がいたのよ。今頃哀しんでるだろうな・・・」

「血晶」が、凶器にもなり得る恐ろしい能力を持つようになる為には、「恋」をする事が必要だとは、何とも皮肉な話だと、椛は思った。

椛も、制服のブレザーのポケットに隠している、雪の結晶を模った「血晶」のネックレスを握りしめる。密かに念を送ってみるが、手に握りしめられた「血晶」は、微動だにしない。

「まぁ、あの都市伝説が本当だとしても、僕らの『血晶』が、反応し合う事は決してないよ・・・。だって、僕たち二人は、絶対、どれだけ長い付き合いでも、決して、恋の意味での、好きになる事はないって約束したんだからね。『この世界を去る時に』、恋とか愛とかの未練が残っているのは、邪魔にしかならないんだから」

沙耶は、掌の上で、「血晶」のピアスを転がしながら、椛の言葉を聞いていた。

「・・・ええ、そうね。昔からの約束だもんね。それが、椛と私の。どんなに一緒にいようと、私と椛は、そういう関係にはならない」

椛にとって、沙耶は、非常に一緒にいて居心地の良い幼馴染だ。

お互い、街の名家である霧島家と、柊木家の娘であり、家の付き合いの関係で、椛は、遊ぶ相手についても幼少の頃より、厳しく制限をかけられていた。両親が、椛が悪い遊びを覚えるといけないからという方針であった為であるが、それでも、付き合いの深い柊木家の娘であった、沙耶は貴重な遊び相手として、付き合いを許可してもらえた。沙耶の方も教育方針の事情は似たようなもので、遊びに行く自由はなかった。だから、幼少期の想い出の殆どは、沙耶との物ばかりだ。

『沙耶は、僕との約束を絶対に破らない。良い幼馴染だ。いつまでも、あの約束を忘れずにいてくれてる』

椛の脳裏に、遠い昔の、よく分からないままに参加させられた葬儀の日の、丁度今と同じ季節の頃-秋の日の記憶が蘇る。暇を持て余し、二人は、屋敷の庭の、地に落ちたどんぐりを拾ったり、紅葉を見たりしていた。

「椛ちゃんと、あの紅葉ってそういえば同じ名前だよね」

「名前なら、僕が秋の、紅葉の赤が凄く鮮やかな頃に生まれたからっていうただそれだけの理由だけど」

そんな他愛ない話を途中までしていたように思う。

そうした中、紅葉が降りしきる中で、いつもより大人びて見える、子供用の黒い礼服姿の沙耶は、リボンで束ねた黒髪をサッと揺らして、椛の方を見た。急に、彼女の視線が、和やかな物から、何か真剣な物に変わった。

「人って、こんなにあっさり、いなくなってしまうんだねって、怖くなっちゃった、私・・・。私もあっさり、その時には消えちゃうのかって・・・。椛ちゃんも、そう思わない?」

それは初めて、人の死という場面に遭遇した子供の問いかけとして、当然な物であった。

思えば・・・今に至るまで続く、椛の中の「自分は何故生きるのか?」「自分はどうなりたいのか」という正解のない問いと葛藤は、この時には既に薄っすら、存在していたのだと思う。

「いなくなる事は・・・怖いとは思わないかな。僕がいなくなる事はね。沙耶がいなくなるのは怖いし、哀しいけど」

それは、当時の沙耶にとって、予想外の返答だったのだろう。

「どうして?」

「だって・・・このまま、僕は、僕の人生を歩んでいっててもつまんないような・・・、ただずっと、何となく生きていくだけな気がするんだもの。それなら、何となく、もういっかって消えるのもありなのかなって」

この気持ちを誰にも話す気などなかったのに、どうして沙耶には話しても良いと思ったのか、当時は、自分の心の動きが分からなかった。

ただ、気品ある礼服に身を包んだ見目麗しい、一瞥しただけでは非の打ち所がない令嬢にしか見えない沙耶の、その瞳の奥に、暗い情動が蠢いているのを、まだ幼いながらも椛は感じ取っていたのだと、今ならば分かる。その、暗い情動は、今の、学校のアイドル扱いとなった沙耶の、穏やかに笑う眼差しの奥にも潜んでいる事を、椛だけは気付いている。

何の為に生きて、そして自分はどうなる事を望んでいるのか。その問いを、沙耶と初めて共有した瞬間だった。

「椛ちゃんは凄いね、そんな事を考えてたんだ。私、人っていつかは死んじゃうんだって事を、見せられて、怖いっていう気持ちしかなかった。そういえば椛ちゃん、いつも難しそうな本もいっぱい読んでるもんね」

沙耶が霧島家を訪ねてきた時も、両家の親の目もあり、羽目を外した遊びは出来ない。時には、静かに椛の部屋で、二人、本を読んで過ごすだけの日も珍しくはなかった。椛が漫画を読むのを禁じられて、活字の本しか与えられていない事に、彼女は大層驚いていたものだった。

「・・・読みたくて読んでる訳じゃないよ。漫画なんて読んでたら頭が悪くなるから、しっかりと文章のある本を読むようにしなさいって、父さん、母さんから言われてるだけ」

そして、次々と、秘めた思いを吐き出すように、沙耶に、椛は続けてこう言った。

「父さんも母さんも、本当は僕に、男の子に生まれていてほしかったみたいだから・・・。僕が、娘である事にがっかりしているから」

椛の打ち明け話に、沙耶は目を丸くして、紅葉が降りしきる中、じっと話を聞く姿勢をとった。


活字の本しか読まないのも、そして、自分の事を「私」とか「あたし」とか、ましてや「うち」のような一人称ではなく、「僕」という男性のような呼び方にしているのも、全て、両親の機嫌を取っているに過ぎない。


‐「やっぱり、他の家と付き合いであったりした時に、凛々しい男の子が出てくると思うんだ。うちも娘じゃなくって息子だったらよかったのになぁって」

「家の跡取りを考えると、息子がやっぱり安心だったわよね・・・」

その両親の会話を、廊下で立ち聞きしてしまった時、椛の中で何かが砕け散る音がした。両親は、自分が「娘」である事に満足していない事を知ったから。

それを何とか覆したくて、自分が男になる事は出来なくても、それに負けない程の凛々しさや聡明さを身に着けようと思った。その日以来、椛は、髪を女性らしく、長くする事を自らに禁じた。背伸びしてでも、同世代の子が読まないような難しい本を読み漁り、成績も、男に負けてはならないという一心で、優秀であり続けてきた。

自分の事を、「僕」と呼ぶようになったのも、別に趣味でこうしている訳ではない。自分が男になど負けない存在である事をアピールする、ただの、両親に対する欺瞞でしかなかった。


日本庭園の池のほとりの、大きな石に二人並んで腰掛けて、椛は、沙耶に話し終えていた。自分が如何に、周囲に、特に親に動かされて生きているに過ぎないのかを。

「でも、そんな事をずっとやっていたら、ふっと、何か酷くくだらない事をやってるような気分にもなるんだよ・・・。僕って、誰の為に、何の為に生きてるんだろうって。学校のお休みの時間とか、塾が終わって、迎えの車が来るのを待つ間とかに、そんな気持ちが出てくるんだよ。勿論、死ぬ事は、僕だって怖いし、そんなの実行するつもりもないけど・・・」

血のように紅い、楓や、その他の木の落葉が、池の水面を覆っていくのを見つめながら、椛は話を締めくくるように、そう言った。

二人は周りを見回した。「石の上に座るなんてはしたない」と、大人達に見つかれば叱られかねないからだ。誰もまだ、周りにいない事を確認してから、沙耶は、椛の方に急に、真っ直ぐ視線を合わせてきた。沙耶の、長い睫毛に彩られた瞳の中に、はっきりと、暗い感情の色が走るのを、椛ははっきりと見た。それと同時に、彼女の唇が動いた。

「それなら・・・、椛ちゃんも私と一緒なんだね」

「一緒って、何が?」

「自分の気持ちを隠して、何の為に生きてるのか、分からないって悩んでる事」

今度は、椛が驚く番だった。沙耶から、そんな言葉が飛び出すとは、思ってもいなかった。彼女は自分とは違って、満ち足りた、悩む事などない日々を生きていると思っていたから。

「沙耶にも・・・あるの?何の為に生きてるんだろうとか、迷う事が?」

想像もつかない彼女の姿だった。沙耶は、その容姿の端麗さもあって、名家の柊木家の令嬢として、小学校でも皆に人気があり、親に連れられての社交の場でも人目を集める存在で・・・そんな彼女が一体、何が足りなくて悩むというのだろう?

「椛ちゃん、良い事教えてあげるね。人って、他人の事は何でも上手くいっていて、悩みなんか何にもないような顔をしてるように見えるものなんだよ」

沙耶は、そんな、核心から話を逸らすような言い回しをして、椛の問いかけに、はっきりとは答えない。

「言葉で言うより、こうした方が、椛ちゃんには伝わりやすいかな」

そう言って、沙耶は急に椛の頬を両手で覆った。その思わぬ行動に呆気にとられる間もなく、沙耶の顔が、自分の顔に近づいてきて・・・咄嗟に椛は目を瞑った。

自分の額に、温かく、柔らかい花弁が触れるのが分かった。何をされたのか、当時小学生だった自分でも、すぐに分かった。目を開けると、既に、沙耶は椛から顔を離して、何処か、妖しさを含んだ表情で微笑んでいた。

「さ、沙耶・・・。今のって・・・こういう事って、女の子同士でやるものじゃないでしょ・・・⁉す、好きな男の子とするものなんじゃ・・・」

あの時の自分は、みっともない程に狼狽していたと思う。ただ、今さっき、沙耶が自分にしてきたような事は、少なくとも自分が今まで読んできた本の中の知識では、互いに好意を抱く、男の子と女の子がする行為であった筈だ。こんな事は、今まで椛が本で教わってきた事の、何処にも書いていなかった。

その、思わず口を突いて出た発言は、しかし、沙耶を、急に哀しい表情にさせた。

「え・・・、どうしたの、沙耶?急にそんな、泣き出しそうな顔して・・・」

「そっか・・・椛ちゃんも、うちのパパとママと、同じ事言うんだね・・・」

自分の咄嗟の言葉が、沙耶を傷つけたらしいのは分かっても、何故彼女が傷ついているのかが予想もつかない。

沙耶は、固まったままの椛に向かって、こう言った。

「私はね・・・女の子が好きなの。でも、女の子なら誰でもいい訳じゃない。椛が好き。これが、私の秘密。椛ちゃんが、ずっと一人で秘密にして悩んでいた事、話してくれたから、私も正直に言わないとって思って」

女の子が好きな女の子・・・。それは、その当時の椛の理解を超えていた。椛が、親に与えられた、読む事を赦された児童文学書でも、ヒロインは、最後は男の子と結ばれ、幸せになるのが当たり前の世界しか存在していなかった。同性が好きな女の子の存在など考えた事もなかったし、ましてや、その気持ちの向く先が自分などとは思いもしなかった。

告白される事自体が人生初の経験であるのに、その相手が同性で、一番身近な幼馴染である沙耶・・・。あまりの事態に、椛は頭がくらくらしてきた。二人の腰かける石のすぐ傍に広がる、紅い落葉が水面を覆う池に、そのまま落ちていくような感覚がした。動悸が耳の中にも鳴り響き、鼓膜までも揺らしていた。

もしも鏡があったなら、地面や池に落ちていく紅葉の赤にも負けない程に頬を赤く染めた自分を、椛は見た事だろう

「椛ちゃん・・・びっくりさせてごめんね。でも、私は本気だよ。答は、今ここで言おうとしなくていいから。ただ、お互い、隠し事はなしにしようって思っただけ。椛ちゃんには、私が女の子が好きなの、知っててほしかったから。これはパパも、ママも知らない秘密だよ」

そう、沙耶が言っていたところまでは覚えている。

その後、沙耶とどんな言葉を交わしたのかはもう思い出せない。あの日、結局自分は何も、沙耶の気持ちに答を出せないままに終わった。


木の葉が紅に色づく、校舎の中庭の木に目を向けながら、椛は、あの日の記憶を思い返していた。沙耶が、自分は同性愛者であるという事を初めて教えてくれた、遠い秋の日を。

そして、沙耶が、同性愛者に対する、この社会の目を、更には、自分の両親の目までをも、「憎みながら」生きている事を。


自分は、残酷な答を沙耶に与えてしまったと思う。「この世界に、恋とか愛とか、少しでも未練になるような感情は残したくないから、女の子同士だからなどは関係なく、自分は恋をする気はない」と。

それでも沙耶は傍にいる事を選んでくれた。この、空虚な厭世主義者の自分の隣にいる事を。

『僕の存在が、沙耶が自由に、新たな好きな女の子を見つける事の妨げになってるのかもしれないな・・・』

そんな意識さえも抱きながら、椛は沙耶と、高校生になった今も一緒にいる。

血晶の都市伝説の一つに、「二人の持つ血晶が反応し合う時、その相手は貴方の運命の相手であり、二人は必ず引かれ合う定めとなる」という物が確かにあったが、高校に入学する前に、二人お揃いで買ったネックレスの先の、一粒の血晶は未だに何の反応も示さない。元より、血晶に関するそうした都市伝説やら、占いめいた話を椛は信じていなかったが、あの都市伝説が本当ならば、二人の血晶が反応し合わないのは、椛と沙耶がそういった関係には決してならない事を暗示しているのだろう。

そんな事を考えていた矢先だった。椛の視界の隅に、ざわつく教室から逃げ去るように廊下に出てきた女子生徒の姿が見えた。何処か幼い印象を与える、二つ結びのおさげの髪型の生徒だ。椛は名前も知らない。同じクラスの子だったか否かも、曖昧だ。

彼女は、椛と沙耶の二人を見ると、そそくさと急ぎ足で二人の横を通り過ぎようとした。

‐その時、不可解な事が、椛と、おさげの彼女の両方に起こった。

「・・・!ぐっ!」

彼女が、椛と沙耶の前を通り過ぎていったその時、突如、首の下・・・胸元のあたりに、熱さとも、痛みともつかない奇妙な感覚が走った。思わず椛は制服のリボンの下を手で押さえた。

「どうしたの⁉椛」

急に胸を押さえて、壁に身をもたれさせた椛に沙耶は驚く。椛は、徐々に熱感の増していく胸元を押さえながら呻いた。

「む、胸が熱い・・・!なんか、火傷してるみたいに苦しい・・・!」

その時、ブレザーのポケットの中にも熱気を感じた。血晶をあしらったネックレスを仕舞い込んでいた方のポケットだ。その中をまさぐると、熱を発している血晶に、指先が触れた。

『まるで、血晶が胸の違和感と、連動してるみたい・・・、一体、私の体に何が起きてるの?』

必死に、胸を焼かれるような感覚に耐えている最中、椛の視界の隅を、先程の女子生徒が、廊下の向こうに走り去っていくのが見えた‐、彼女もまた、胸を手で押さえながら。

「大丈夫⁉保健室に連れて行こうか」

壁に背を預けて、呼吸を荒くしていた椛に、沙耶が声をかける。二人は、普段から他の生徒の注目の的だから、このように、椛が苦しみ出した姿は、忽ちに廊下を行きかう他の生徒らの目に留まった。口々に「ちょっと、大丈夫、椛?」などと声をかけてくる。

ところが、先程の、胸を焼かれるような熱さは嘘のように、あっという間に引いていった。あの、おさげの女子生徒が離れていったのと、それはタイミングとしてはほぼ同じだった。

椛は、沙耶や、周りの生徒らの心配に対して、「さっきは何かよく分からない感じで苦しくなったけど、もうすっかり治まったから心配しないでいいよ。また具合悪くなるようなら病院に行くし」と言って、少しその場で休んだ後、教室へ戻ろうとした。まだ、胸元の肌に少し、ヒリヒリとした感覚はあるが、もう先程のような強烈な熱はなかった。

椛と沙耶の二人を取り巻く女子生徒らを安心させ、いつものように、取り巻きの喜ぶような他愛もない話をして、笑わせてやりながら、教室に戻る事にする。

そこへ、女子トイレから、顔色を少々青くしながら、先程の女子生徒がまた出てきた。

『さっきの子だ・・・』

ここまでなら、椛も、自分の体の突然の異常と、彼女を結びつけて考えはしなかっただろう。彼女が通り過ぎた時に、胸が熱くなったのは単なる偶然としか思わなかった筈だった。

しかし、取り巻きの生徒らに阻まれて一瞬しか見えなかったが、足早に椛と沙耶のグループの横を通り過ぎる際、彼女ははっきりとこちらを見た。

その時再び、椛の胸をサッと駆け抜けるように、また、あの熱さを感じ、胸元の肌が、火にあぶられたように疼いた。それは刹那の事だったが、椛は再び胸を押さえた。

『まただ・・・。あの子と目が合っただけで、胸に熱い感覚が・・・。血晶もまだ熱を帯びてるし・・・。こんな事、血晶を持つようになってから一度もなかったのに、一体、あの子は何者なの?』

椛は、沙耶や、取り巻きに気付かれないよう、そっと、視線を、少し背を丸めて足早に通り過ぎ去って行く、彼女の姿へと送った。

特に、気にしている訳などではない素振りをしつつ、椛は取り巻きの女子生徒らの一人に、声をかけた。

「ねえ、今、横を通り過ぎてったあの子・・・、名前、なんて言ったっけ?」

「え・・・?えーと、あの子、名前なんだっけ?私、話した事ないし、覚えてない」

話を振られた他の女子も、首を傾げている。どうやら、あのおさげの女子生徒の印象は同学年の筈の彼女らにとって、かなり薄いもののようだった。

「うーん・・・、私も絡みほぼゼロだし・・・。あのおさげの子でしょ・・・あ、思い出した、穂波さんだ!」

「穂波?それって、下の名前?」

「いや、多分、苗字だったと思うけど・・・、絡んだ事ないし、下の名前まで覚えてないや。え、まさか、椛ともあろう人が、あんな地味で空気みたいな子にもしかして、一目ぼれしちゃった?勿体ないよー、椛なら、選び放題なのに」

「・・・別に僕は、男だろうと、女だろうと付き合うとか恋とか、そんなの興味ないよ」

そういった茶化しをやり過ごしながら、椛は、「穂波」という名前を、頭の隅に置いた。

彼女との関わりは、今回だけで終わりはしないだろうという予感がしていたから。


それが、霧島椛と、穂波茜の最初の出会いだった。



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