第116話 俺達はお互いの匂いを感じたい。

「ふう……流石に疲れたね、ろーくん」

「あ、ああ……」


 帰宅してから俺は、すぐに江藤から渡されためメニューをこなした。

 それによって基礎能力を少しでも向上させて、体育祭で由佳に良い所を見せる。それが今回の目的だった。

 しかしそんな俺の予定は半ば崩れ去ったといってもいい。なぜなら今回のメニューを由佳も一緒にこなしたからだ。


「ろーくん、大丈夫?」

「大丈夫だ……」


 俺のみっともない姿は、先程の運動で由佳に見られてしまった。これではなんというか、意味がないような気がする。

 とはいえ、由佳と一緒に運動するというのはとても楽しかった。そのため、この際細かいことはもう気にしないことにする。


「お水飲む?」

「ああ、ありがとう……」


 俺は現在、由佳の部屋で倒れている。運動が終わってから、こちらで休ませてもらっているのだ。

 正直、かなり疲れている。それ程の運動量ではなかったはずなのだがへとへとだ。自分の体力の無さというものを実感させられる。

 一方で、由佳の方は結構余裕だった。どうやら、彼女は俺よりも体力があるらしい。それはなんというか、結構情けない話である。


「由佳は、意外と運動ができるんだな……」

「え? あ、ううん。そんなことはないよ。ただ、ちょっと走り慣れてるだけだから」

「走り慣れている? 普段から走っているのか?」

「と、時々だよ。その……ダイエットとか、してたから」

「なるほど……」


 由佳は、少し気まずそうな顔をして俺から目をそらしてきた。恐らく、ダイエットの話はあまり触れられたくないことなのだろう。

 そのため、俺は少し考える。ここで由佳になんと言うべきか、それは中々に悩ましいことだった。


「お腹とか、出てきちゃうことがあるんだ……今は大丈夫だと思うんだけど」

「……別に、俺はそんなことは気にしない」

「私が気になるんだよ?」

「少し太っている方が健康的でいいと思うが……」

「そ、そう?」


 俺は由佳の言葉に対して、素直な気持ちで返答した。

 そこで俺は、ゆっくりと体を起こす。由佳に気持ちを伝えるためには、寝転んだままでは不適切だと思ったからだ。


「由佳、実の所俺は由佳が何かを食べている姿が好きなんだ」

「え? そうなの?」

「ああ、由佳はいつも食べ物を美味しそうに食べる。それを見ていると、なんだか俺まで嬉しくなってくるんだ」


 俺は、由佳との距離を詰めていく。

 すると彼女は、驚くべき反応を示してきた。後退って、俺から遠ざかっていったのである。

 それによって、俺は思わず固まってしまった。彼女から拒絶される。それがとてもショックだったからだ・


「あ、ごめん。でも、今はちょっと汗をかいているから」

「汗……」

「ぎゅってしてくれるのは嬉しいんだけど、できればシャワーを浴びてからにしてもらえないかな?」

「なるほど……」


 説明によって、由佳の言い分は理解することができた。

 確かに今俺達は汗をかいている。その状態で抱き合ったら、お互いにその匂いを感じることになるだろう。

 基本的に、汗の匂いというものは嗅がれたいものではない。一般的に、それがいい匂いであるとは言い難いからだ。


「……」

「ろーくん?」


 しかしそこで俺の中にとある想いが芽生えてしまった。

 由佳の汗の匂いを嗅ぎたい。そう思ってしまったのだ。


「ろーくん、どうかしたの?」

「いや、なんでも……」


 今の由佳の体は、汗によって湿っている。そんな彼女の姿に、俺は少し昂ってしまっていた。

 だが、由佳が嫌だと思っていることをしたくはない。ここは俺の欲望よりも、由佳の望みを優先するべきであるだろう。


「なんでもない。ごめん、由佳。俺は今のお互いの状態を考慮できていなかった」

「……ろーくん、もしかして、今ぎゅってしたいの?」

「え? あ、いや、その……」

「……そんな感じの顔してるよ?」

「ま、まあ、正直に言ってしまえばそうだが……」


 なんとか理性で抑え込んだ欲望を、由佳ははっきりと指摘してきた。そのことに、俺は少し面食らってしまう。

 俺は、そんなに顔に出ていたのだろうか。もしもそうなら、情けない限りだ。


「……あのね。断ってから言うのはなんだけど、私もろーくんに今ぎゅってしてもらいたいっていう気持ちはあるんだ」

「……何?」

「ろーくんの汗の匂い、嗅ぎたいって思っちゃてるんだ。ろーくんも、もしかしたらそうなのかなって……」


 由佳は、顔を真っ赤にしながらそのようなことを言ってきた。

 彼女の視線は、俺の首元や視線に向いている。それはつまり、汗で濡れているその部分に欲望を向けているということなのだろう。

 俺は、生唾を飲み込んだ。由佳にそのように求められている。それは俺にとって、とても嬉しいことだったのだ。


「つまり……俺達は、お互いにお互いの汗の匂いを嗅ぎたいということか」

「あ、うん。そうなるね……」

「しかし当然、お互いに汗の匂いなんて嗅がれたくはないよな?」

「それはもちろんそうだよ。だって、いい匂いじゃないし……」

「だが、お互いに譲歩することはできるんじゃないか? 相手の匂いを嗅ぐために、自分の匂いを嗅ぐことを受け入れる。それでどうだろうか?」

「……うん。そうしよっか」


 俺と由佳は、お互いに言葉を発しながら近づいていた。

 つまり、お互いに答えは決まっていたのである。俺達は己の欲望のために、多少の恥を受け入れることにしたのだ。


「……いい匂いがする」

「……ろーくんからもいい匂いがするよ?」


 当然彼女からは汗の匂いがした。その匂いは、まったく不快なものではない。むしろずっと嗅いでいたい程に、甘美ないい匂いだ。

 恐らく彼女の方は、俺の匂いをそう感じてくれているのだろう。少々複雑な気もするが、それは俺にとって紛れもなく嬉しいことではある。

 こうして俺達は、しばらくの間お互いの匂いを楽しむのだった。

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