第75話 今ここで想いを伝えたいと思ってしまった。

「……今の俺は嫌な奴だった」

「あ、ううん。そんなことないよ……」

「いや、嫌な奴だったさ。それは自分でもよくわかっている」


 由佳との顔の距離がとても近い。自分でそういう状況にした訳だが、とても緊張してしまう。

 しかし幸いにも雑念は振り払えた。今は他に考えるべきことがあったからだ。


「二つ謝らなければならない。一つは、由佳にとって嫌なことを言ったこと」

「えっと、それは……」

「何も言わなくてもいい。ただそれは俺が愚かにも嫉妬していただけのことだ。そのことを思い出すと、俺はどうにも穏やかでいられないらしい」


 まず俺は、由佳に対する理不尽な怒りについて謝ることにした。

 俺は由佳が誰かに告白されているという事実に対して嫉妬心のようなものを持ったのだ。それを燃え上がらせて、彼女にぶつけてしまった。それは、なんと愚かなことだっただろうか。


「我ながら醜悪な想いだ。お門違いというのが一番だろうか」

「ろーくん……」


 その怒りを由佳にぶつけることも、由佳に告白した奴にぶるけることも間違っている。そんなことをするのは最低だ。だから、先程の俺は最低だった。

 俺は由佳に想いを伝えることさえできていない臆病者である。そんな俺に勇気を出して想いを告げた者達に怒る権利なんてない。増してや、由佳に対して怒るなんてあってはならないことだ。


「それから、そのことを言い訳に使ったことも謝らないといけないと思っている」

「言い訳?」

「ああ、誰かがそう言っているとかそういうことは関係ない。俺は由佳のことが可愛いと思っている。いや、そんな言葉では足りないか……俺にとって由佳以上に可愛い存在はいないと思っている」

「んっ……」


 俺は由佳に、もう一つの間違いについて謝罪した。

 由佳は俺に可愛いと思われたいと言っていた。俺個人にどう思われたいかを口にしたのだ。

 それなのに俺は、他者からの評価を述べることで逃げたのである。それもまた最低な行為だ。


「……由佳? その、大丈夫か?」

「……え?」

「いや、その泣いているが……」


 そこで俺は、由佳が涙を流しているということに気付いた。

 先程の言葉で、そこまで怖がらせてしまったのだろうか。俺はとりあえずハンカチを取り出して、彼女の涙を拭う。


「あ、あのね。これは違うの。嬉し涙っていうか、なんていうか……」

「嬉し涙?」

「あ、うん。ごめん、ちょっと待って。少し落ち着くから……」


 由佳は俺の目の前で、ゆっくりと深呼吸をする。彼女の温かい息がかかってきて、少しくすぐったい。


「えへへ……」

「由佳……」


 次の瞬間、俺の額に由佳が額を当ててきた。彼女との距離がさらに近づいて、俺の緊張はさらに高まっていく。

 少し顔を動かすだけで、由佳と唇を重ねられる。そんな考えが頭を過ったが、俺はそれをなんとか理性で押さえつける。


「ごめんね、急に……でも嬉しかったんだ。ろーくんが嫉妬したり、私のことを可愛いと思っていてくれたことが……」

「……そうか」

「だけど、ろーくんはどうしてそんな風に嫉妬したの? それを教えて欲しいな……」

「それは……」


 由佳からの質問に、俺は言葉を詰まらせた。

 何故嫉妬したのかなんて、そんなのは決まっている。それは俺が由佳のことが好きだからだ。

 しかしそれを口に出すということは、告白すると同義である。だから言葉が出て来ない。その決定的な一言を言うのがとても怖かった。


「……」

「……」


 だがそこで俺は、目の前にいる由佳を見ながら思った。このままずっと何も言わないで一体いつまで過ごすのかと。

 江藤が言っていたように、由佳と恋人でいられる時間は告白が早ければ早い程長くなるのだ。もしも受け入れてもらえるなら、告白した方が絶対にいい。

 なんとなくではあるが、勝算はあるような気がする。由佳は俺のその言葉を待っていてくれているとさえ思える。

 だから、俺は覚悟を決めることにした。このままの勢いで、想いを告げてしまおう。そう思ったのだ。


「由佳、俺は……」

「う、うん……」

「由佳? いる?」

「……え?」

「……うん?」


 次の瞬間、部屋の戸を叩く音とともに聞き慣れた声が聞こえてきた。

 それは、由佳のお母さんの声だ。その声によって、俺は段々と冷静さを取り戻していく。


「お、お母さん? どうかしたの?」

「晩ご飯の準備を始めようと思ってね。ほら、今日もろーくんに手料理を食べてもらうんだって言っていたでしょう?」

「あ、あーあ、うん。そうだったね。ろーくん、その……ごめんね。少しの間だけ、ここで待っててもらえる?」

「あ、ああ……もちろんだ。待っているとも」


 由佳の言葉に、俺は素早く頷いた。

 すごく微妙な空気が流れている。これは、どうすればいいのだろうか。居たたまれなくて、どうしようもない。


「それじゃあ、また後で……」

「おう。また後で……」


 由佳が部屋から出て行って、俺は彼女の自室に一人取り残された。

 当然のことながら、先程の状況で大切なことは言えなかっただろう。今の空気で言ってもすごく微妙な感じになったはずだ。

 しかし正直、とても言いたかった。もう一度あのように勇気を振り絞ることができるだろうか。なんというか、少し自信がない。


「……よく考えてみれば、断られた時はどうすればいいんだ?」


 そして俺は改めて今の状況を考えてみた。

 もしも成功すれば、何も問題はないだろう。ただ失敗した場合は、大変なことになる。

 当たり前のことだが、失敗した場合は今日のお泊りもなくなるだろう。この時間に家に帰って両親にその旨を伝えるのは、どうもばつが悪い。


「やらない理由を探すのは良くないことではあるかもしれないが……」


 正直、タイミングを逃してしまったという感じがする。喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだという事実は、俺にとって案外大きい。自信がどんどんなくなっていってしまう。


「もう一度タイミングを計るしかないか……」


 とりあえず、俺はそのような結論を出した。

 もう一度いい雰囲気になれば、もしかしたら言えるかもしれない。ただ由佳がどういう感じかにもよるし、それは色々と見定めてからではないと無理そうだ。

 とにかく、今は心を落ち着かせるとしよう。冷静になって、これから起こっていくことに備えるのだ。

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