第76話 俺は一家団欒の不純物であるような気がする。
食卓に置かれているおにぎりを見ながら、俺は汗を流していた。
そこにあるのはおにぎりだ。米を三角形の形にして固めたその食べ物は、さして特別という訳でもない。日本の食卓ならば、それなりに見かけるものであるだろう。
しかしながら、そこにあるおにぎりは俺にとって特別だった。なぜならそれは、由佳が作ってくれたおにぎりだからだ。
「ろーくん、どうかしたの?」
「いや、なんでもない……」
可愛らしく首を傾げた由佳に、俺はそのように返答した。
実際の所、なんともない訳ではない。正直とても動揺している。
由佳が先程までの出来事がなかったかのように、いつも通りなこともその動揺の一因ではある。しかしながら俺がここまで動揺しているのは、今からそのおにぎりをいただくからだ。
「……」
我ながら少々気持ち悪いような気もするが、由佳が作ったおにぎりを食べるというのはどうにも緊張してしまう。
いつも握っているあの温かい手で握られた米の塊は、俺にとっては口にするのを躊躇うようなものなのだ。なんというか、変な気持ちになってしまうから。
「ふむ……」
だが意を決して、俺はそのおにぎりを口にした。
正直、味はまったくわからない。ただ頭の中は由佳でいっぱいになった。
しかし今ここで俺が言うべきことは本心ではない。この食べ物を褒め称えることである。
というか、おいしいのはおいしい。ただこのおいしいは味ではなく感情的なものだ。今の俺は幸福感に包まれている。
「すごく美味いなな……」
「ありがとう、ろーくん。でも、普通のおにぎりだよ?」
「え? あ、ああ……まあ、でもおいしいよ」
俺の言葉に、由佳は少し不思議そうにしていた。
確かに何の変哲もないおにぎりをそこまで褒めるのは、あまり良くなかったのかもしれない。具も入っておらず、塩と米とのりによって構成されていた訳だし、由佳としてはそれ程工夫した訳ではなかったのだろう。
それを大袈裟に褒めるのは、変だったかもしれない。もっとも、これが俺が今まで食べたおにぎりの中で一番美味かったというのは事実であるのだが。
「まあ、由佳が握ってくれたということに特別感があるということかもしれないね」
「え?」
そこで由佳のお父さんが、そのようなことを言った。
それは確かに間違ってはいない。だけど、それを言われてしまうと俺の立場が色々と危ういような気がしてしまう。
「よく言うだろう? 料理に最も大切なのは愛情だって。由佳はろーくんのことを想っておにぎりを握った。だからろーくんは、すごくおいしく感じた。そういうことなんじゃないかな?」
「そ、そうなの?」
「……あ、ああ」
「……えへへ」
由佳に聞かれて、俺はとりあえず頷くことしかできなかった。
もちろん、由佳のお父さんが言っているような通りのこともあるとは思う。ただ俺の心にあったのは、もっとやましい感情であったような気がする。
とはいえ、そんなことは言えるはずもない。先程からニコニコしてこちらを見ている三人を裏切る訳にはいかないのだ。
「愛情……思い出すわね。お父さんに最初に手料理を食べってもらった時のことを……あなたは覚えてる?」
「ああ、もちろん覚えているよ」
「どんな感じだったの?」
「それがね、私お砂糖とお塩を間違っちゃてて……それはもうひどい出来だったのよ」
「え? お母さんがそんなことしたの?」
「ええ……でもね、お父さんはそれでもおいしいって言ってくれたの。君が作ってきてくれたことが嬉しくて仕方ないって言ってくれて……」
「お父さん……いいとこあるね?」
「いや、なんだか恥ずかしいな……」
楽しそうに談笑する由佳達瀬川一家に、俺も思わず笑みを浮かべてしまう。
家も仲は良い方ではあるが、このようにのほほんとした雰囲気はない。
なんというか、由佳も由佳の両親もふんわりとしているのだ。そんな三人の雰囲気が、俺は昔から好きだった。
「ろーくんも、私が作ったお弁当、すごく褒めてくれたよね?」
「あ、ああ、あれはおいしかった」
「ふふ、やっぱりろーくんも良い所があるわね……」
「はは、すまないね。なんというか、ろーくんまで巻き込んでしまって……」
「い、いえ……」
小さな頃は思わなかったが、俺はそんな一家の団欒に混ざった不純物である。
なんというか、よこしまな心を持ってしまった自分が恥ずかしい。もっと何かいい感じの考え方はできないものなのだろうか。自分のことながら、そう思ってしまう。
「今度からお弁当もおにぎりにしようかな……なんだかその方が愛情を込められるような気がするし」
「……私も娘に合わせた方がいい?」
「え? それはもちろん、その方が嬉しいような気はするけど……」
「ふふ、お母さんとお父さん、本当に仲良しだよね?」
由佳の言う通り、彼女の両親はとても仲が良い。今の会話からも、それが伝わってくる。
家だって仲は良いが、こうやって目に見えるという訳ではない。由佳の両親は、結構珍しいタイプなのではないだろうか。
「私もいつか、そんな風になりたいな……」
そこで由佳は、俺の方を見たような気がする。それは気のせいかもしれない。自意識過剰という可能性もある。
だがもしも由佳とそういう関係になれるなら、彼女の両親のようになりたいという気持ちはある。いつまでも仲の良い夫婦になりたいとそう思う。
しかしながら、告白もしていない俺がそんなことを考えるというのはおこがましいことである。まずその大切な一歩を踏み出さなければならない。全ての話はそれからだ。
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