第39話 赤ちゃんの時のことは流石に覚えていない。

「それじゃあろーくん、お部屋にどうぞ」

「ああ、失礼する」


 着替えも終わったということで、俺は由佳の部屋に戻ることになった。

 入った瞬間、俺はその部屋の様相と匂いに少し怯んでしまった。先程まで質素な部屋にいたからだろうか。この部屋の由佳の要素がより鮮明に感じられる。


「さあ、ろーくん座って座って」

「え?」

「うん? どうかしたの?」


 由佳に座るように促された俺は、思わず疑問の声をあげてしまった。

 そこには、クッションが並んでいる。机の上にはジュースもだ。それがどういうことなのか、その結論は一つしかない。


「な、並んで座るのか?」

「あ、うん。駄目かな?」

「ま、まあ、駄目ということではないさ」


 由佳が隣に座ってくれるというのは、俺にとってとても嬉しいことである。故に、断る理由があるという訳ではない。

 少し驚いてしまったが、由佳がそうしたいのならそれでいいのだろう。よく考えてみれば、昔はこのように並んで座ることの方が多かったし、由佳にとってはこの方が馴染み深いといった所だろうか。


「それじゃあ、失礼する……」

「……なんだか、ろーくんさっきから堅苦しいね? そんなにかしこまらなくてもいいんだよ?」

「あ、いや、そうだろうか?」

「うん。もっと自分の家みたいに思ってもいいんだよ?」

「自分の家……」


 俺がクッションに腰掛けると同時に、由佳が隣に座ってきた。

 彼女との距離が近くて、俺は緊張してしまう。恐らく、俺の態度が固くなっている理由も同じである。由佳の家ということで、俺はずっと緊張しているのだ。


 確かに、昔はこの家も自分の家のように思っていたかもしれない。だが、少なくともこの由佳の部屋を自分の家のように思うことはできないだろう。

 というか、個人の部屋は元々プライベートな場所なのだから、そこである程度固くなるのは当然なのではないだろうか。家族であっても、私室は少々気が引けるように思うのだが。


「ろーくん、もう少し近づいてもいい?」

「あ、ああ……」

「えへへ……」


 由佳は、嬉しそうに笑いながら俺に近づいてきた。肩と肩とが当たる程の距離に近づかれて、俺の緊張はさらに高まっていく。


「ろーくん、クッキー食べようよ」

「そうだな……」

「はい、あーん」

「え?」


 由佳は、その指でクッキーを摘まみ、俺の口元まで運んできた。

 当然、それを俺に食べさせてくれようとしているのだろう。しかし、俺は口を開けない。色々と考えてしまうのだ。

 喫茶店の時、食べさせてもらうのは体験した。だが、これはあの時とは少々趣が違う気がするのだ。


「ろーくん? どうかしたの?」

「い、いや……」


 俺の目の前には、由佳の白くて細い指がある。自分と同じ人間の指とは思えない程に、その手及びその指は綺麗だ。

 肌は透き通っているし、爪もピカピカしている。きっと由佳は、そういう面も努力しているのだろう。そこからはそれが伝わってくる。

 そんな指の先にあるクッキーに口をつけるのは色々と気が引けてしまう。俺の唇が当たったりしないか、口に入れたりしないか、それが心配である。


「あ、あーん」

「はい」

「はむっ……」

「あっ……」


 由佳は引いてくれない感じがしたので、俺はクッキーを自らの唇で挟んでそのまま彼女の指から奪い取った。

 これなら、由佳の指には触れることがない。そう思って取った行動だったが、思った通り上手くいったようだ。


「うむ、やっぱり美味いな……」

「……このクッキー、美味しんだよね。私のお気に入りなんだ」

「ああ、知っているとも。昔から好きだったよな?」

「あ、うん……覚えててくれたんだ」

「もちろんさ。ただ、これを食べるのは久し振りだな」


 このクッキーのことは、俺もよく知っていた。昔から、由佳が好きだったクッキーだからだ。何度も食べた記憶がある。

 ただ、これを食べるのは久し振りだった。俺も好きだったはずなのだが、何故か今まで食べようとは思わなかった。それはきっと、由佳のことを思い出して辛くなるからだったのだろう。


「嬉しいな、ろーくんが昔のことを覚えててくれて……」

「いや、それは覚えているさ。由佳とのことを忘れる訳がない……といっても、もちろん本当に小さい頃の記憶はないがな」

「あはは、それはそうだよね……」


 由佳との記憶は全て残っている。俺も本当は、そう言いたい所だ。

 だが、当然覚えていない期間もある。物心つく前の記憶なんて、正直ない。

 いやというか、本当は覚えていないことばかりであるのだろう。印象深いエピソードを忘れていないというだけで、細かな日常は流石に覚えていない部分も多い。


「でもさ、そんな絶対に覚えていないような時から、私達は会ってたんだよね……」

「確かに言われてみれば、すごいことのような気もするな……まあ、単に家が近所であるとか、両親同士の気が合ったとか、外部的要因に過ぎないといえるのかもしれないが……」

「ううん。それだけじゃないよ」

「うん?」


 俺の言葉に、由佳は立ち上がり本棚から一冊の本を取り出して戻ってきた。

 彼女は、それを机の上に置き、ゆっくりと開く。どうやら、これはアルバムのようだ。写っているのは、赤ちゃんの時の俺と由佳であるだろうか。


「こっちがろーくんで、こっちが私だよ?」

「そうか……なんというか、どの写真でもくっついているな」

「そうだよ? この時から、私達はこんな感じだったんだよ? 赤ちゃん同士でも相性とかはあるだろうし、私達は気が合ったんだと思うんだ」

「な、なるほど……」


 この頃から俺達が仲良しだったという話は、俺も両親から聞いたことがある。写真を見るに、確かにそうだったのだろう。

 ただ、このくらいの時とは一体どういう風に気が合うというのだろうか。話ができる訳でもないし、雰囲気とかそういう曖昧なもので相性が決まるのだろうか。


「私はね、ろーくんといるとずっと笑ってたらしいんだ。結構、人見知りする方だったらしいんだけど……」

「俺はなんというか、大人しい子だと聞いたことがあるな……」

「だからかな? 私はろーくんと一緒にいたいって思ったのかも。というか、覚えている記憶でも、私達ってそんな感じだったよね?」

「まあ、そうだったな……」


 俺は、幼少期の頃のことを思い出す。由佳は人見知りが激しかった。今は見る影もないが。

 一方で、俺はもう少しクールな感じだったような気がする。そちらも、今は見る影もないのだが。

 ただ少なくとも赤ちゃんの頃は、二人とも幼少期のような性格であったようだ。


「あ、せっかくだから、アルバム見ない? 小さい頃の写真、いっぱいあるんだ」

「そうなのか……それなら、見させてもらおうかな」

「うん」


 俺の言葉に、由佳は嬉しそうに笑顔で頷いてくれた。

 昔の写真を見るのは、案外楽しかった。以前見た時は、心の奥がざわついたのだが、今はそうはならない。

 この短い間で、俺もある程度踏ん切りがつけられるようになったのだろう。由佳のおかげで、俺はまた少しだけ変わることができたのだ。

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