第38話 焦げたホットケーキは食べられそうにない。

「ろーくん、ありがとう。もう大丈夫だから……」

「そうか……」


 由佳の言葉に、俺はゆっくりと彼女から離れた。

 彼女を慰めるために抱きしめたのだが、それでも名残惜しいと思ってしまった。しかし離れろと言われているのだから、離れるしかない。


「はあ、失敗しちゃった……やっぱり話しながらしたら駄目だね。そっちにちゃんと集中しないと」

「仕方ないさ。少し込み入った話をしてしまったからな……すまなかったな、俺も気が利かなかった」

「ううん。ろーくんのせいではないよ」


 俺と由佳は、フライパンの上にある黒い物体を見ながらそんな話をした。

 これは流石に食べられないのではないだろう。申し訳ないが、体に悪そうだ。

 由佳もそう思ったのか、ホットケーキを片付け始めた。その顔は悲しそうだ。やはり、失敗はかなりショックなのだろう。


「ごめんね、ろーくん。ホットケーキはまた今度でもいい?」

「ああ、それは別に構わないが……」

「その代わりっていう訳じゃないけど、今日の晩御飯は私も頑張るね」

「そうか……それは嬉しいな」


 由佳の提案は、俺にとってとても嬉しいものだった。

 由佳のお母さんの手料理ももちろん食べたいが、俺が何よりも食べたいと思うのは由佳の手料理である。

 なんというか、今日の晩御飯が益々楽しみになってきた。いや、まだ完全に食べられると決まったという訳ではないのだが。


「だから、おやつは出来合いのにしようか?」

「ああ、悪いな」

「気にしなくていいよ。あ、一旦部屋に戻ろうか?」

「あ、いや、別にここでも構わないが……」

「部屋の方が落ち着けるからさ」

「そ、そうか……」


 由佳は棚からクッキーを取り出しながら、部屋に戻る提案をしてきた。

 確かに、彼女にとってはそちらの方が落ち着けるだろう。しかし、俺からすると由佳の部屋ではそんなに落ち着けない。多分、ずっと動揺することになるだろう。

 とはいえ、別に由佳の部屋が嫌だという訳ではない。むしろ、とても行きたいと思う場所である。


「ちょっと待ってね……」

「ああ、由佳俺が持つよ」

「あ、ありがとう」


 お盆に載せられたクッキーとジュースを俺は由佳から受け取った。そのまま俺達は二階にある由佳の部屋に向かう。


「ろーくん、足元に気を付けてね?」

「ああ、わかっている」


 階段を上がる時、由佳は俺のことを気遣ってくれた。その優しさが嬉しくて、思わず笑ってしまう。


「……というか、由佳。よく考えてみれば、由佳は着替えたりしないで大丈夫なのか?」

「え?」

「いや、夕食までいただく予定ではある訳だが、由佳は制服のままでいいのか? もっと楽な格好に着替えたりしなくても大丈夫か?」


 由佳の部屋の前まで着いてから、俺はそんなことを聞いていた。

 基本的に、俺は家に帰ると制服から着替える。やはり制服は窮屈だからだ。

 無論、学校帰りに来た俺は制服でいるしかないが、由佳にその必要があるという訳ではない。もしも窮屈なら楽にしてもらいたいと思う。


「あ、そうか。よく考えてみるとそうなんだよね……」

「言っておくが、俺に気を遣ったりする必要はないぞ?」

「……それなら、着替えさせてもらおうかな? あのね、ろーくん五分程、待っててくれる? あ、えっと、申し訳ないけど、向かいの部屋にでも入ってもらっていい?」

「向かいの部屋? 使っていいのか?」

「うん。そっちは使ってない部屋だから」

「そ、そうなのか……それなら失礼する」


 由佳に言われて、俺は彼女の部屋の向かいにある部屋に入った。

 こちらの部屋は、由佳の部屋に比べるととても地味な部屋である。使われていない部屋であるらしいが、それなりに綺麗な部屋だ。使っていないのが、もったいないくらいである。

 とはいえ、由佳達は三人暮らしだ。そんなに部屋は必要なく、持て余しているということなのだろう。


「ふう……」


 俺は、ゆっくりとため息をついた。

 現在、由佳は自室で着替えているはずだ。いけないことだとわかっていても、それをつい想像してしまう。


「……由佳の部屋着か」


 出かけた時に見た普段着は、完全に外行きという感じの格好だった。

 だが、部屋の中ではもっとラフな感じかもしれない。そんな風に、俺は今度は由佳の部屋着を想像していた。

 しかしよく考えてみれば、俺が来ているのにいつもの部屋着を着る訳ではないだろう。由佳が普段どんな格好をしているかはわからないが、今日の由佳は人に見られてもいいような格好になるに決まっている。


「あ、ろーくん、お待たせ」

「ああ、由佳……」


 俺がやましいことを色々と考えている内に、由佳の着替えは終わったようだ。そう思いながら振り返った俺の目に入ってきたのは、当然由佳の姿である。

 彼女は、ピンクのトレーナーにパンツという出かける時よりもシンプルな服装をしていた。

 しかし、それでも俺の心は踊る。そんな由佳も可愛いと思ったのだ。


「どうかな?」

「とても似合っている」

「えへへ、ありがとう」


 由佳の質問に、俺はほぼ反射的に答えていた。

 なんというか、由佳は何を着ても似合っているような気がする。いつも可愛いし、もしかしたら由佳に似合わない服なんてないのかもしれない。

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