第8話 二人法師の人生③
裏口からこっそり家を出て傘を差す。歩いて五分もすれば海が見えてきた。そこには青い空と白い雲。きらきらと輝く水面とどこまでも続きそうな砂浜。青春漫画の一ページを飾りそうな潮の香りが広がっている――わけではない。
現実に私の前に広がるのは、工場の排水が混ざった汚い海だ。水面には増殖したプランクトンがうじゃうじゃと湧いている。潮の匂いは強すぎて、お世辞にも泳ぎたいなどとは思わないだろう。
それでも思い詰めた時、私はここにやってくる。ここには人がいない。堤防を乗り越えて、テトラポットの上に腰かければ、誰も私の姿は分からないだろう。今日は雨が降っているが、晴れた昼などにくれば猫が日向ぼっこをしている景を眺める事もできる。何より廃れた海を見るのは劣等感を感じずに済んで気が楽だ。
などと思っていたが――。
「なんでいるのよ」
そう言うと、目前に立った男は怪訝そうな顔でこちらを見た。
「藪から棒に何言ってんだ。ここはお前の場所じゃない。第一、ここは俺のエリアだって知ってるだろ。千葉のダムが派手に壊れたらしいからな。対岸のここにも色々なものが流れ着いてると思ってさ」
男はそう言って、背中に背負った籠に向かって空き缶を放り投げた。随分と剃っていないだろう真っ白な無精ひげ、ボロボロの服には何かの汚れがついていた。
「別にこんなことしないでも本業で稼げるんじゃないの。医者でしょ、あんた」
「医者は医者でも闇が付く方だからな。みかじめ料も馬鹿にならないんだよ」
「だからってこんなの二束三文でしょうが」
「良いんだよ。金額じゃない。今、俺は金を稼いでるってのが大事なんだ。金を稼いでないと頭がおかしくなんだよ、人間ってのは」
「それはあんただけだと思う」
「ほっとけ」
そう言って、ペットボトルを拾い上げると、がっかりした顔をして地面に放り投げた。
「ゴミ拾いするならちゃんと拾いなさいよ。なんで捨ててるのよ」
「さっきも言ったが俺がやってるのは金稼ぎだ。ペットボトルじゃ金にならん。どうしても拾って欲しいなら金だ。一個一万でいい」
「高すぎるわよ。ぼったくりも良い方じゃない」
「内訳が疑問か。ここに来るまでの交通費と俺への人件費。あとは税金もろもろだ」
「あんた住んでるのここの近くでしょ。税金なんて払ってないし、人件費しか残ってないじゃない」
「俺は元々科学者だぞ? 人件費が高く付くのは当然だと思わないか?」
「その科学者の技術を活かしてないんだから高いって言ってんの。もういい、私が拾って捨てとくから」
「そうそう。慈善活動は俺みたいな貧乏人じゃなく、金の持ってる奴らがやるべきなんだ」
滅茶苦茶な事言いやがる。道徳って奴をこいつは勉強したことがないようだった。
「呆れる程悲しい世界観で生きてるのね、あんた」
「あぁ。だがお前も俺と同じ貧乏人――だと思ってたが。海を見に来るなんて随分余裕があるじゃないか。自暴自棄でもなったか?」
「察してよ。昨日は少女感謝の日よ」
答えると、あぁと。納得のいく表情を浮かべ、一度頷いた。何か勝手に理解されたようで少し腹が立ってきた。
「あの下らない行事か。何だ、そんなことでへこんでるのか」
「こんな所で空き缶拾いしてるあんたに何が分かんのよ」
「何言ってんだ。同じ底辺にいる奴の方が話が分かるだろう」
「底辺って……」
「ま、一概には言えないか。同じ状況でも、お前のとこのガールフレンドは上手くやってるしな」
そう言うと、さっき拾った空のペットボトルをこちらに投げてくる。綺麗な弧を描きながら来たそれを、私はちゃんとキャッチした。
「このえのこと?」
「あぁ。ブランド品と高い香水付けて、この前も中年のおっさんと腕組んでたな。その後どこに行ったか知らないし、興味もないが」
ここでこのえの話とは……妙な所で出てきてしまった。
「まさか知らないのか?」
少し小馬鹿にするように見てきたので睨み返す。
んな訳あるか。
「知ってるよ。知ってるから悩んでんの。私もやった方が良いのかなって」
「お前には無理だろ。顔が知られ過ぎてるし、そもそも向いてない」
「そりゃ……そうだけどさ」
向いてないってなんだ。ブスだって言いたいのか。
私の思考を余所に、山吹はペラペラと流れるように彼の思考を話し続けていた。
「良いんじゃないか。本人がそれで幸せなら。第一、あいつのお陰でお前は生きていけるわけだ。働かずに生きていけるならそれに越したことはないだろ」
「このえにも似たようなこと言われたよ。でも……ねぇ、なんか都合よく百万円くらい稼げるバイトとか知らない? あんたなら知ってるでしょ」
「臓器でも売れ。今なら相場は人間一人当たり五千万だ」
凄い手段を最初から提供してきた。
「最終手段じゃない。っていうか人間一人当たりって私死ぬじゃない」
「別に自分のを売る必要はないだろ」
「却下。ただの殺人鬼じゃない」
「じゃあ腎臓だな。一個五十万くらいなら出してやる。健康なら八十だな」
「安くない? ネットで見た臓器の値段はもっとあったわよ」
「買取価格なんてそんなもんだ。手術費用と仲介手数料、すぐに使わないなら保存にかかる費用もある」
臓器を売ればとかなんとかなるものだと思っていたが、思ったよりも世界は甘くないらしい。闇社会にも世知辛い現実はあるのか。
そう思っていると、どこかで「ニャー」と猫が鳴いた。良いよな、猫は気楽そうで。
「ま、それを聞くと大抵の奴は諦めるんだがな。お前はどうだ。売るか、腎臓。特別に確定で八十出してやる」
「それは……」
幾らなんでもメリットが無さすぎる。
気まずそうにしている私を見て、山吹はまた缶を拾った。
「そう言うこった。お前の悩みに対する覚悟なんてその程度。下らないこと考えてないで、いまできることをしろ。つまり働け。俺はこの間に三十円は稼いだぞ」
正論だが辛い。心が痛くなってきた。
「……分かったわよ」
「分かればいい。じゃあ俺は別の場所行くから。風邪ひくなよ。死んでも知らないからな」
山吹はそう言うと、背中を向けて去っていく。
ポカンとしばらくして、ドサッとうなだれるように私は腰掛けた。
働け……か。働いているさ。でも――。
手に持ったペットボトルを眺めていたら溜息が漏れた。先程まで気にもならなかった雨音が、やけに騒々しく聞こえてくる。だからと言って、じゃあこうしたらいいよ、なんて助け舟みたいな声が聞こえてくることなどあるはずもない。
帰るか。帰って、薄い味のするインスタント珈琲を飲もう。そしたら記事を執筆して。執筆して……金を稼いで……。
「――ニャー!」
その声にハッと目を覚ます。同時に重力が足にのしかかる。足下を見下ろすと猫が一匹足に乗っかって来ていた。黒をベースに灰色の水玉模様が点々と並んでいる。体型は野良にしては珍しくまぁまぁ……いや、ちゃんと太っていた。
「なんだお前、私の足に何か用か?」
「しゃー!」
いきなり大きな声を上げると、ガリッっと勢いよく靴を引っ搔いた。スニーカーの上から爪の感触が伝わってくる。生ほどではないが、ちゃんと痛い。
突然の痛みに思わず足を振り上げると身体のバランスが崩れた。ふらふらふらと身体が揺れる。まずい。こんなところで後頭部から下手に落ちてみろ。最悪死ぬ。
ふざけんな!
「死んでたまるかああああ!」
下半身が上に向かっていくのと同時に、奇声を上げながらなんとか、近くの別のテトラポットにしがみつく。ガンという音と同時に顎は打ったがなんとか背中からは落ちずに済んだ。
「ああああ……生きたああああぁ」
ホッと出る安堵の息と共に情けない声が出てきた。口の中から血の味がしてくる。最悪だ。今日は何食べても血の味がするに違いない。
顔をぶつけて出来た傷を撫でながら起き上がると
「ニャア」
と先程の猫と目が合った。
「危ないんだぞ、教えてやったんだ。感謝しろ」
と言っているようだ。多分そんな事は思ってないんだろうけれど。無性にふてぶてしい顔をしているからそう思っているに違いない。
危険な事は百も承知。余計なお世話だ。
ギロリと猫を睨んだが、通じるはずもなく肝心の当人は大きな欠伸をして身体を伸ばしていた。考えすぎ……寧ろ猫的には良い事をした認識なのかもしれない。
それに――。
猫は首をかしげると、ぴょんぴょんと遠く離れて行ってしまった。
結局何がしたかったんだあいつ。いや、所詮は猫のきまぐれだ。ロクな事を考えてないで、私も帰ろう。
下らない思考で立ち上がった時だった。
「ニャー」
とまた猫の声がした。何だ、また鳴いてるのかあいつは。
顔を上げると、私にとって不思議な光景があった。
ただ猫がこちらを見ているのだ。少し遠くに、だが真っ直ぐとこちらを見ている。私は忠犬という言葉は聞くが、忠猫という言葉を聞いた事がない。刹那、ドラムの音が耳に響いた。
――気づけば私の足は勝手に動いていた。
猫が走る。私も走った。テトラポットの上をしばらく走るともう一度、猫が
「ニャー」
と鳴く。
そこか。
ファンファーレも最高潮。ウキウキとした高揚感に周囲を眺めた時、私は「それ」を見つけた。
……何だ? これ。
目を泳がせた後、目をこする。
なんだこれは……? 人? ……人?!
「ああああああっ!」
と声を上げる。瞳孔が開く、身体が震える。
そこには少女。しかも、その身体は出血と傷で溢れかえっていた。
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