第1話

見上げてみれば、当てもなく彷徨う風が吹いている。


重厚な墻壁しょうへきの向こうに希望があるならそれを超えてみたいものだ。

私の知らないところで奥底から悲鳴をあげている者たちの声が今にも聞こえてきそうだ。


ある都内の医大付属病院。10時間の手術を終えて、医務室に入り僅かばかりの休息を取った。時刻は23時が過ぎた頃だった。


次の手術の工程表を閲覧していた時、医局から連絡が入った。明日の午前に教授から通達があるとの事だ。


私は綾瀬 わたる。医師として着任してから15年。まだ日が浅いながらも、外科手術の専門医として勤しんでいる。


翌日。手術を終えた患者の元へ病室へ行き様子を見に行った。


「綾瀬先生。昨日はありがとうございました」

「目覚めはいかがでしたか?」

「ボルトが抜かれた分、軽くなった感じです。出来るだけ早く退院したいです」

「リハビリで経過を見ましょう。その回復次第で身体も動けるようになりますし」


元陸上選手だった患者。ある事故が元で他の病院で入院していたが、当院の教授の専門手術を希望して移転してきた。


彼の身体には何本かボルトが埋め込まれていた。しばらく経過を見ていたが、回復が早い傾向があり、ボルトを抜く手術に至った。


本人の様子から術後の後遺症もほとんど見られないため、近いうちの退院に見合わせることとなりそうだ。


病室を出て医局に向かい、教授から通告を受けた。


「外科から一般内科に転科ですか?」

「入院病棟で包括ケアセンターが設立したばかりだろう。できるだけ院内で調整するよう会議で決まった。」

「内科となると、臨床に回れという事ですか?」

「あぁ。それともう一つ綾瀬先生に出向願が出されんだ。」

「何でしょうか?」

「法務省からの通達で当院の医師から数名ほど出向するように命じられた。矯正医官として多摩刑務所に行っていただく」


「刑務所…何故僕が?」


「先生は外科専門としても評価が高い。ただ医師不足の状況から見て、まず1年出向してもらいたいんだ。刑務所にも医療設備がもっと増えるよう国からの要請が上がっていてね」

「辞退するというのは?」

「あまり日数がない。刑務所の所長が直々に近いうち挨拶にくる。いつでも準備できるようにしておいてくれ」

「…分かりました」


医務室に戻り、通達の書類に目を通した。

刑務所か、病院患者とまた違った人間性が見られる機会がありそうだな。


1週間後、一般内科に転科し、外来患者の診察を終えて、自宅に帰ってきた。


私には妻がいる。医師になってから一緒になり連れ添って10年は経つ。嫌な顔ひとつも見せずに私のために尽くしてきている人だ。


「週明けは患者さんも多かったでしょう?」

「ああ。内科に来てからはそれほど忙しい訳じゃないから、少しは余裕がある」

「貴方、私に言いたい顔しているね」

「…ちょっと厄介な事になってな」

「何かあった?」

「来週から出向命令が出た」

「どこ?都外?」

「いや…刑務所に医官として行く事になった」

「随分急ね。刑務所って少年院とか?」

「多摩刑務所だから、成人男性を担当することになった」

「どうして引き受けたの?」

「自分の意向じゃない。命令は命令だからな。どんな人間がいるかは想像はつくが…」

「それも貴方の使命なのかもね。悪いようにはならないと思うけど、いつも通り診てあげていいんじゃない?」

「まあな。…お前、煙たがらないのか?」

「行ってからじゃないと何とも言えない。貴方のためよ」


強気を見せているが、本当は心配している。こうして家族にもこれから迷惑をかけてしまうのだろう。


数日後の朝、出勤すると教授室に呼び出され、部屋に入ると刑務所の所長が来ていた。


「はじめまして、市橋といいます。」

「綾瀬です。よろしくお願いします。」

「綾瀬先生。室井教授からお話をお伺いしています。医大病院とは違って狭いところではありますが、出向してくださること、お礼申し上げます」

「こちらこそ。新しい場での職務が受刑者の方に寄り添えるように努めて参ります」


刑務所の所長というのは堅物な印象が強いと考えていたが、市橋所長の第一印象としては物腰の柔らかい人物に見えた。


しかし問題は受刑者たちの人柄だ。病院も同じだ。何が起こっても動じる事なく任務をこなしていけばいい。

この時ばかりは自分の筋も通るだろうと想定はしていた。


そう、彼らに会うまでは。

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