アオハルだなあ からの つ、ついに!!
幼少期から自分が唯一帰ることのできる家庭に居場所が無く、さぞ辛い思いをしてきたのだろう。
これを聞いた彼女は僕の右肩にしがみ付いてワンワンと子どものように泣いた、僕はただ頭を優しく撫でながら彼女が落ち着くのを静かに待った。呼吸も落ち着き始め、彼女は顔を上げて潤んだ瞳で僕を見つめる。
「心に刺さったトゲが抜けない時には、僕で良ければ気軽に呼んでください。一人で苦しまなくても二人なら抜ける棘もあると思うんだ、それがもし抜けないものだとしてもこうして吐き出すだけでも楽になるものだよ。今回は僕も遠慮せずにお手洗い借りますね」
ニッコリ笑って頷いた彼女の頭をポンポンして、お手洗いを拝借する。
殺風景な我が家とは違い、トイレの中まで女の子っぽく可愛らしい。
掛けてあるタオルも便座カバーもスリッパも、うっすらピンク色に統一されてとても落ち着く。
生理的解放感を得た後に静かに扉を閉めて彼女の方に目をやると、きちんと正座をしてうつむいてなにやらモジモジしている。
(千鶴さんもお手洗いに行きたいのを我慢しているんだな)
そう思った僕は
「今日は一日、本当に素敵な時間をありがとう! また苦しいことがあったらお隣同士いつでも呼んでくださいね、それではおやすみなさい」
と何か言いたげな彼女にお礼を言って自室に戻った。僕にとってはいつも独り言か、ミールに言うための
「おやすみ」
を女性に言ったことにドキドキしながら部屋を後にしたのだが、この時の行動を後に彼女から
「雄二さんは紳士なんだか鈍感なんだか・・・」
と言われ、僕には何のことを言っているのか全く分からなかった。
【 つ、つ、ついに! 】
部屋に帰った僕はネコトイレをきれいにして水と美味しいご飯を準備し、シャワー室に入る。
千鶴さんと恋人つなぎで歩いていた時に酔っ払いに絡まれて彼女が鮮やかに投げ飛ばしたこと、まるで夫婦の夕食みたいに楽しく美味しい素敵な時間だったこと、ガキ共を放ったまま彼女と獣医さんまで一緒に走ったこと、そして僕の肩で泣いてくれたことなどを思い出しながらワシワシと頭を洗っていた。
きれいに流して生乾き臭のしないタオルで拭き上げて鼻歌交じりにドライヤーで髪を乾かしながら、ニヤニヤと今日の出来事を思い出していると、ミールが足元にすり寄ってきた。
(洗面台の水を舐めたいから早く歯を磨きなさいってことね)
翌朝のセットが楽になるように普段はある程度髪がまとまるまでドライヤーを使うのだが、今日はほとんど一日中相棒の事をほったらかしにしていたので何だか申し訳ない気がして歯磨きをする。
リンゴをかじって歯ぐきから出血するなんてことはないのだが、漢方成分の入った歯槽膿漏予防歯磨きの後味が何とも好きで長年使っている。
一般受けするのは磨いているときの味や香りは良い、流行りの歯を白くするものやお口の中サッパリみたいな歯磨き粉の方だろう。
幼少期に用水路で捕獲して皮をむいて食べていたザリガニ、子どもにとっては遊びの一環であり自然のおやつだったのだが、口の中がとてつもなく生臭くなるのだけが耐えられなくて、あぜに生えていた野セリの葉を噛みながら指でブラシの代わりに歯をゴシゴシするとその臭いは消えた。
その時の自然の香りに愛用の歯磨き粉はとても近く、懐かしさからずっとこのメーカーの商品を愛用している。
いつもと同じ生薬の香りを口内に感じながら水を止めると、待ってましたとばかりにピョンと洗面台に飛び乗って残った水をペロペロと短い舌で舐めている。
満足したのか洗面台から降りて歩いて行く後ろ姿を鏡越しに見ながら再びドライヤーの電源を入れてブラシを片手に髪型を整え、携帯をチェックしようと部屋の真ん中に歩いて行くと僕が着ていた服の匂いを興味津々でクンクン嗅ぎまわっているミールの姿があった。
(千鶴さんの残り香でもついているのかな・・・)
なんて思った瞬間に、すっかり忘れていたアイツの声を僕は耳にする事になる。
匂いを嗅いで口を半開きにし
『ニャオン』
と鳴いたその数秒後、
「ナンナノ、コレ! タマンナイワー」
つ、ついに! あの
『ニンシキデキマセン』
しか言わなかったニャンゴが初めて愛猫の言葉を翻訳して喋ったのだ!
あの時は僕の声を認識させるものだと思い込んで何回も喋りかけては拒否されたが、フル充電させるためにコンセントに刺しっぱなしにして千鶴さんと素敵な時間を過ごしている間にミールの鳴き声をこの機械が何度か聞いて認識したのであろう。
紆余曲折あって何から喜んでいいのかわからないが、とりあえず初めて愛猫の気持ちがわかったということが素直に一番うれしかった。
待ちに待ったこの瞬間、もっともっと聞きたくて名前を呼んでみる。
「ミール」
クルリと振り向いて尻尾をピンと立て、無言のままスリスリと寄ってくる。
これはこれで可愛いのだが、そうじゃなくて・・・鳴いてほしい、そして何と言っているのかを知りたいのだ。
結局何も収穫はなく、翌朝ボーっとした頭で会社に向かうはめになった。何度も名前を呼んでみたがゴロゴロと喉を鳴らしながらご機嫌な様子で僕の周りをスリスリウロウロするばかり。
結局こちらの想いとは裏腹に鳴いてくれることはなく、根負けした僕はいつのまにか眠っていたようだ、眠い目をこすりながら歩いている間に何とか頭にカツを入れる。
十七時、終業のチャイムと共にデスクの上を手際よく片付けて席を立つ。
仕事のできない上司の顔色を伺って残業するほどバカバカしいことはない、自分の責任が果たせているのならば無駄な人件費を発生させることなく帰宅するのが一流のビジネスマンだ。
「お先に失礼します」
オフィスのドアを閉め、エレベーターを待ちきれずに階段で一階まで降りる。
ミールが何を話してくれるのかが気になって仕方ない僕はいつもよりも早歩きで帰路に就き、これまたエレベーターを待ちきれずに階段を勢いよく昇る。
ウキウキしながら玄関の鍵穴に差し込むべくポケットからカチャカチャとカギを取り出す音が聞こえたのか、
「おかえりなさい! カレー作りましたのでご一緒にいかがですか? ご飯もたくさん炊きましたので何杯でもおかわり大丈夫です、すぐ食べられますからそのままどうぞ」
と隣の扉から笑顔で飛び出してきた千鶴さん。確かに昨日そう約束したけれども、僕の心の中はそっちじゃなくてミールの声・・・なんてさすがに言えない。
「はい、ありがとうございます! でもずっと革靴を履いていたので、サッと足だけ洗ってすぐに伺います」
と笑顔の彼女を残して自分の家に入り、カバンを置いて靴下を脱ぎボディーソープで足を洗う。
こういう水の音が聞こえるとイソイソとどこからともなく寄ってくる愛猫が今日は降りてこず、キャットタワーのてっぺんで丸まって寝ている。
いつもと違う様子に心配になって頭を撫でに行くと、ゴロゴロとご機嫌に喉を鳴らしながら首を持ち上げたもののすぐに丸まってしまった。
水とエサ入れ、トイレをきれいにし終わっても全く動き出す気配は無く、
「おいどうした、どこか調子悪いのか?」
と問いかけても丸まったままゴロゴロ言うばかり。
せっかく僕のためにカレーを作って待ってくれている千鶴さんをあまり待たせすぎるのも申し訳ないので、きれいな靴下を履いてお隣のチャイムを押す。
ピンクのエプロン姿に満面の笑みでひょっこり顔を出した彼女は満面の笑みで僕を招き入れ、スプーンと福神漬けが準備されてるテーブルに座るように促した。
「おかえりなさい、お腹空いてますか?」
「はい、ペコペコです!」
・・・なんでこういうサービストークをしてしまうのだろう。
確かにお腹が空いてはいるものの一般的なそれであって、そんなにペコペコというほどでもない。
まあそれでも一人暮らし女性の家でご馳走になるカレーである、こぼれそうなくらいの量が出てきても男の胃袋なら大丈夫だろう。
ウキウキとかき混ぜているエプロンの後ろ姿はとてもかわいいが、なんという大きな寸胴鍋だろうか。
鍋の大きさに若干圧倒されながらも良い香りに包まれながら幸せな気分に浸っていると、
「はい、お待たせしました! たくさんありますから遠慮せずいっぱい食べてくださいね」
と目の前に置いてくれた。
家庭的なカレーでジャガイモやニンジン、お肉もゴロゴロと入った美味しそうな一品。立ち昇る湯気に口の中は唾液でいっぱいになり、
「いただきます」
の一言と同時に中華料理店同様、わんぱくにモリモリ食べ進めてゆく。
その様子を向かい側の席に座って嬉しそうに見ている彼女に
「ものすごくおいひい!」
とスプーンを止めることなく食べ続ける。
「わあ、雄二さんのお口に合ってよかった! そのわんぱくな食べっぷりが大好きです」
と両頬に手を当ててニコニコと笑っている。
女性宅に誘ってもらって手作りのカレーをご馳走になるという事は、男たるもの一皿平らげて
『ごちそうさま』
は失礼である。ここは
『美味しいよ、おかわり!』
が定石なのだが・・・なぜ女性の一人暮らしでこんなに大きな皿を持ち合わせているのかと問いたいくらいの超大皿で、スプーンを止めずに勢いで食べ進めないとおかわりに辿り着くまでにお腹が膨れてしまう、それくらいの量なのだ。
味はそんじょそこらのお店に比べて好みだし、野菜も芯が残らないようにちゃんと火が通っていて美味しい。
一皿食べ終わるのに大体五分ちょいといったところか、お腹の具合はけっこう満腹なのだが
「すごく美味しいよ、おかわりお願いします!」
と言って彼女が準備してくれている間にベルトを緩め、準備されている水に手を伸ばさずに次に備える。
残してなるものかと驚異的なスピードで食べ進めるが無情にもその時はやってきてしまった、スプーンが止まってしまったのだ。
うつむいたまま何とか口の中にあるものをモグモグとかみ砕きながら喉の奥に流し込もうと目を血走らせていた時だった。
「ここまで根性見せてくれるとは思わなかった! 雄二さんって本当に優しいんだね。たくさん食べてくれて凄く嬉しいんだけど、普通の男性が食べられる量じゃないってことはわかってるから安心して」
その言葉と同時に彼女は僕の手からカレー皿とスプーンを受け取り、きれいに平らげて
「あー、お腹空いた! 私も食べようっと」
と巨大皿に僕の時と同じくらいの量をよそって食べ始めた。
さらにそれは一杯だけにとどまらず、数回おかわりした後に
「ありゃ、一升炊いたのにお米無くなっちゃったしカレーもなくなってしまいましたー」
と。
この小さな体のどこにそれだけの食物が入るのか全く分からないし、彼女が比類なき大食いである事を初めて知った瞬間だった。
そして食後に洗い物を終わらせた彼女がテーブルに出したものは、自分用の食パン一斤と僕には胃薬だった。
「えへへ、私大食いで燃費悪いの。雄二さん頑張って食べてくれて凄く嬉しかった! でも次回からは無理しないでね、胃薬飲んでおいてください」
自分が大食いであることをカミングアウトしてくれたばかりか、頑張ったご褒美に食後の胃薬という心遣い、これは間違いなく胃袋も心も掴まれてキュンキュンしてしまうやつでしょ!
二人向かい合って食後にニコニコポワポワしていると、彼女のスマホがかわいらしい着信音で鳴る。
「ごめんなさい、ちょっと失礼しますね」
そう言って着信に答えた彼女のトーンは徐々に暗くなっていき、その受け答えと後ろ姿から状況を僕に悟らせた。
会話を終えてスマホを持った手をだらんと下げて、小刻みに震えている彼女の背中を僕は優しく抱きしめて
「迎えに行こう・・・」
と昨日駆け込んだ獣医さんの元に泣きながら歩く彼女の手を引いて向かった。
「破傷風が酷かった事と、生まれつき心臓に持病があったのだと思います。手術に耐えられるようになるまで点滴で様子を見ていたのですが・・・安らかな旅立ちでした。残念です」
獣医さんから伝えられ、小さな箱に入った子猫を潤んでいく視界の中で一緒に優しく撫でた。
「私も獣医ですから怪我をしているさまざまな動物を放っておけなくて、拾ってきては治療しているのですが、今回のように助けられない命もたくさんあります。この子はあなたたちに運んでもらえて幸せだったことでしょう・・・もしよろしければ私が見送ってきた子たちと一緒に、知り合いのお寺さんで供養させていただきたいのですがよろしいでしょうか?」
その言葉に二人とも言葉なくコクリと頷くしかできず、一緒に悲しんでくれた獣医さんはその治療費の一切を受け取ることなく我々を見送ってくれた。
幸せな時間から一転、悲しみのどん底に突き落とされた僕たちだったが、あの子猫がいつまでも沈んでいる二人を見て喜ぶはずはないと彼女を慰めながら帰路に就いた。わかっている・・・
このまま彼女の部屋に再び入ってしまったらお互いが望む結果になるであろうし、彼女もきっとそばに居てほしいはずだ。
でも、子猫の不幸に乗じて心の弱っている女の子の部屋に上がり込むようなことは
(下衆な行為だ)
と判断した。
だから僕は靴を脱ぐことなく、引き留めようとする彼女に
「ごちそうさまでした! 今度は我が家で寿司でも食べましょう、お隣ですけど」
と全く面白くもない言葉を発して扉を閉めた。
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