名古屋、最高かよ(4)
『あの契約書、書きゃへんと言っとるもんでぇ!』
『わかっとるがや!』
というなんとなく怒っているような語尾の方言が僕に不穏な空気を感じさせているのかもしれないが、お客様が来社されても誰一人立ち上がることなく沈黙を守り、タイムカードの打刻で休憩時間を管理するのではなく自分たちルールで多少の遅刻は当たり前。
あまりにも緊張感なくだらけ過ぎているのを初日から目の当たりにしてしまった僕は
(これは一筋縄ではいかないぞ? どこから手を付けていくものか)
などと考えながら、初日から思いつく限りの問題点を観察し、要改善メモに書き出していった。
「化粧品やジュエリーを扱うから美しくあれ、ではない。当たり前に、当たり前の事ができればいい」
と、僕が入社してすぐに現在の専務に言われたことがある。この人のデスクはいつも美しく、電話機とメモ以外はデスクの上に何もない。我々と違って昭和生まれの人だから会議予定やお客様とのアポイントをスマホで管理せず手帳にびっしり書き込んでいる人だが、部下に優しくそれでいて自分にはもの凄く厳しいその背中を見て僕たちは育ったものだ。電話が鳴ったら真っ先に受話器を取り、誰かに先にとられると少し悔しそうな表情をする。誰が担当するお客様かわからない方が来社されても適度に聞こえる声で爽やかに立ち上がって
「いらっしゃいませ」
と挨拶するその姿はまさに
『できる男』
そのものであった。顧客からの信頼も厚かった彼が現在東京本社で専務取締役としていらっしゃることは必然だと思うし、その人に育ててもらったというのを誇らしく思う。
(それに比べてここはなんだ、グダグダじゃないか)
イライラとしながら一日観察して帰宅し、ミールのルーティンを一通りこなした後で座椅子に座って持ち帰った十数枚の
『要改善メモ』
を読み直す。
(よくぞまあ、たった一日でここまで改善点が見つかるものだ)
とため息をつきながら読み進めていくごとに、担当部署の改善すなわち、部下だけでなく上司の改善も含まれているという部分に初日からつまずいた。名古屋への異動が決まった時、普段はすれ違う時くらいしか顔を合わせなくなった現在の専務取締役から部屋に呼ばれたのを思い出す。秘書に案内されて通された彼の部屋は
『美しい』
という形容がふさわしい場所で、あの頃と変わりなくデスクの上には電話機とメモ以外何もない。
「あの時の部下が栄転とは、私も嬉しいよ。掛けたまえ」
そう言われてものすごく緊張しながら始まった会話も、すっかり彼の優しいペースで穏やかなものになっていき、
『入社したての僕がどんな人間でどのように育っていったのか』
など終始笑顔で話をしてくれた。
「今度こっちに返って来る時には恐らく課長としてだと思うが、突然『部長に任命する』と言われても溢れんばかりの自信と笑顔で快諾できるような自分になって帰ってきなさい。実はまだ腹案に近いのだが、ある新規事業開拓に向けてタスクフォースを組んで突破口を開きたいと考えているんだよ。すでにいろいろな部署から精鋭を集めるべく探りをかけている段階だから、君を入れることは時期的に叶わないかもしれんが一緒にまた仕事をするのを楽しみにしているよ。私のような早期出世でキャリアを成せば、見える景色が違う、やれることが違う、というのをぜひ君には知ってほしいと思っている。名古屋で大きな実績を上げれば、君を引っこ抜くこともできるかもしれんがな・・・。本社から支社に行くということは自分一人の営業成績だけではなく、良くも悪くもその地に努める者全ての成績を担うという事だ。私が今まで見てきた君から察するに、他人を責めることを良しとせず、君は自分自身を責めてしまうのではないかと思う。それでは組織改革も営業成績も未達成に終わり、本末転倒だ。名古屋はこっちほどお利口さんではないぞ? 向こうに着いたらまず黙って観察し問題点を明確に洗い出し、行動に移す前にこの本を読みたまえ。こんな題名の本でも私のバイブルになっているのだよ(笑)本は題名じゃない、中身だ。人間も同じだよ」
そう言われて貸していただいた本の存在を思い出し、無意識に天井に埋め込まれている蛍光灯を見つめて目がチカチカしながらも、棚から取り出して和紙でできている表紙カバーをドキドキしながら捲ってみる。一ページ目、見返しの部分に
『漢になって帰ってきなさい』
というメッセージが書かれており、感謝の思いで胸が熱くなったのと同時に、
(絶対にやってやる)
という強い決意に満ち溢れた。言い訳がましいのだが、同僚への引継ぎやら引っ越し準備やら、お客様への挨拶でページを開くのはこの瞬間が初めてなのだ。
(あの上司に『自らのバイブル』と言わしめる本ってどんな難しい哲学書なんだろう、こんな熱いメッセージまで直筆で。専務、自分やってみせますから!)
わかりやすい内容だったので、一気に読んだ。自分もネコを飼っているだけにこの『七六六五日の物語』という本は心の奥底から何かしらものすごいパワーが沸き起こってくるのを感じた。内容はビジネス書というよりも小説なのだが、幼い少年が目の前で両親の自殺を目撃して一人ぼっちになってから、たくさんの人間や何度も転生するネコに支えられて前向きに生きようと頑張る、心温まる物語だ。何とも歯切れの悪い終わり方をしているのは作者の意図であり、
『この先のストーリーは自分で作りなさい』
という専務からの意味も含まれているのだろう。僕はこの本を読んで、今までどこかに置き忘れてしまってきていた素直さを引き出しの奥から引っ張り出せたような気がした。目の前で対峙する困難や問題に人間として愚直に一生懸命取り組んでいく主人公の姿は、まさにこれからの自分に必要な心構えであり、歪んだ固定概念で物事を斜めから見てしまわないようにしなければならない教訓にも似た感想を僕は持った。
名古屋というこの新天地で、僕は支社そのものを揺るがすくらいのことを成し遂げなければならない。それは営業成績達成は当然ながら、支社と本社との温度差を極力なくすことに他ならない。ではどうやって改革を進めていくべきなのか、という要となる部分は僕にこの本を託してくれた大きなキーワードとなるであろう。
『時間にルーズ、雑談が多い』
などは社内規則の徹底化で表面上は成し遂げられるだろう、しかしこれが表面上では意味がないのだ。なぜ時間にルーズなのか、なぜ雑談が多いのかなど事象に対しての改善ではなく、本質的なところから全員の意識改革を行って理解納得してもらわない事には
「口うるさい係長がガミガミ言うからやる」
で終わり、一時的な効果となってしまう。これは一筋縄ではいかなそうだ。
本を置いて膝の上で丸まっている愛猫に、
「ミール、トイレ行きたいからちょっとどいてくれる?」
と声を掛けると、
『はいよ!』
と言わんばかりに勢いよく一気にキャットタワーの一番上まで駆け上がった。この元気な姿やまるで自分の言葉に反応してくれたかのような行動は嬉しいのだが、トイレに行きたいときに彼が勢いよく蹴った場所は膀胱である。僕は普段なら歩いて行くところをダッシュで向かい、自分が口にしてきた水分との決別を無事に終わらせられた。
さてこうなると、読んだ本の内容やミールの反応から
『ニャンゴの行方』
が気になって仕方がなくなってしまった。引越し業者さんを疑ってみるも、帰りのトラックに一箱だけ降ろし忘れの荷物があったらさすがに気付くだろうし、個数チェックリストに全部チェックも入っていた。再度開封した段ボールの数を数えてみる・・・数はちゃんと合っている。狭い家の中をあっちこっち探してみるもそれらしい箱は見つからない、というより、僕自身どんな箱に入れたのか覚えていない。そんなに大きな機械ではないので小さめの段ボールに入れたかもしれない、だとすると何と一緒に入れた? 家の中を舐めまわすようにじっくりと観察しながら考える。
(そこそこ高価な機械なだけに壊れてしまってはいけないと、柔らかいものと一緒に入れたはず。僕はパソコンや家電機器の箱は大切にとっておく方だけど、ニャンゴの箱はミールがあちこち噛みちぎっていたので捨てた。じゃあ何の箱に入れたんだ?)
押し入れの中にきれいに並べた家電製品たちの空箱を一個ずつ持ち上げて振ってみるも全て空っぽ、ため息をついてしゃがみこんだ時に目に入ったのはミール専用トイレの空き箱。
「これだ!」
そう、これだった。
(引っ越しの時にミール専用トイレは最後まで部屋にあり、洗ったとはいえ臭いがするのでビニール袋に入れて持ってきた。家族であるネコ用トイレの空き箱は引っ越しを理由に捨ててしまうのは忍びなく、新聞紙を緩衝材代わりに機械をこの箱に入れて運んでもらったんだった。ニャンゴには高い値段を出したのに、初期不良でコールセンターにもつながらず全く使い物にならない。だからといって捨てられず、とりあえずコイツが入る箱ならなんでもいいのだけれど、ミールの入れ物なら関連して忘れないだろう)
ここまで考えて詰め込んだのにすっかり忘れてしまっていた。見つけてしまえば形勢逆転、引っ張り出して電源をつなぐと想像通り赤色の充電ランプ。
(はいはい、いまから二十四時間充電ね)
とコンセントに刺しっぱなしの状態で、専務から預かった本をもう一度読み直してみる。一度目と二度目では何かしら新しい発見があるかもしれないという期待からで、こういうときに速読ができると本当に助かる。座椅子に座り膝の上に乗ってきたミールを撫でながら二度目の読破、再び天井を見つめ考える。ふと本の帯部分に目をやると、
『あなたにとって試練とは何ですか? 幸せとは何ですか?』
と書いてある。
(どんな事象にぶつかっても試練と思うか幸せの予兆と思うかはその人次第ということか、しかしこの著者はどういう神経でこんなセンシティブな作品を書き上げたのだろう・・・)
そんなことを考えながら寝落ちし、翌朝もバタバタと会社に行く。部下にも上司にも言いたい事は山ほどあれど、まだ我慢して観察を続けてコンビニ寄っての帰り道、エレベーターを待っているお隣さんを発見。
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