単話 或る子供と花の水路橋



 心って何処に在るんでしょう。


 在るならば何処に在るんでしょう。

 心臓? 脳?

 

 もしも在ると言うならば、無くなる物なんでしょうか?


 誰もが忘れたように消えて行くのはそのせいなんでしょうか。


 時は止まってはくれないのです。

 どれだけの力を持ってしても、その時間は一度瞬きをするだけで一瞬のように霧散する。

 のくせにその一瞬は長々しく、脳裏をジリジリと焼く。


 私は考え続けるのです。ずっとずっと昔の、生まれ堕ちたその時から。

 今も忘れられない。



────私は今も忘れられないの。


 その笑顔の意味を。消えてしまった指先を。私の存在意義を。



 心が頬を伝って往く。

 一つ。

 そしてまた二つ。

 心は零れて、溜まっては、落ちて、消えて往く。

 瞬きさえ怖いのだ。

 その三つ目を拒んでも、また四つと消えて往く。

 五つ目はいったい、どうなると言うのか。

 


 そう。

 あの日死んだのは、心ごと無くなってしまったのは紛れもなく私だった。





「水路橋なんて枯れて汚い場所もう行きたくないよ。潮祭だってもうあそこではやってないしさ」


 その言葉を聞いて何かの糸が突然切れた。


「……なんで、なんでそんな事を言うの」

 

 初めは、簡単な疑問からだった。


「え?」


 全く何もわからないと言うような惚けた顔ですばるは、私の目を見る。


「なんで、大好きだった水路橋を『汚れた場所』だなんて、『もう行きたくもない』だなんて言うの…… そう思ってたからみんな水路橋を捨てたの?!」


 いつかその小さな疑問は雪のようにゆっくりと、でも段々と時間が経つにつれ積もっていた。そうなってしまったのは必然で、積雪が視界を覆う頃にはどうしていいかなんてわからなくなってしまって、この時はただ理性を忘れて怒鳴ることしかできなかった。


「なっ、何、どうしたの由?」


「何じゃない!! もういい!!」


「……ねぇ、もしかしてずっと前からそう思ってたの?」


 そう言われて由は肩をびくっと跳ねさせた。

 図星だった。

 そう心の奥で思いながらこの2年間を過ごしていた。


「っっ……」


 図星を突かれて居ても立っても居られなくなって私は俯いた。


「ねぇ、由。……ねぇってば!」


 その言葉を引き金に私は何かに追われるようにしてその場から逃げ出した。一心不乱にただ走った。



 ───気が付けば私は水路橋にいた。どこを目指すわけでもなく俯いて走りながら。何度か転んでは膝を擦りむいてしまった。今日は何もかも上手くいかない日のような気がする。

 私は水路橋を右手に見ながら少し離れた土手に座り込んだ。草だけが生い茂って、目の前に広がる運河は汚染されて使えるものではない。汚染と言っても見た目でわかる訳じゃなくて、むしろそれは淡くキラキラと光っている。これが人を殺す水だなんて思えない。


 ただぽっかりとどこかに穴が空いたみたいに風が痛かった。穴が空いた皮膚に当たる風が冷たくて、痛い。そんな感覚で、でも涙は出ない。

 

「君もよく怪我をするね。いつも1人で、家族や友達はいないの?」


 由は、擦りむいた膝を健気に舐めるリスを見てそう呟いた。

 馴染みのリスだった。

 私もこのリスもよく怪我を作る。それを手当してあげた時からこの子とは腐れ縁のようなもので、怪我をした時にだけ近寄ってくる。まあ、薄情なやつではあるが可愛らしいから別に構わなかった。

 戻してあげようと思って私はリスに手を伸ばした。


「そいつに懐かれてるんだな。てか、1人なのはお前もじゃんか。こんな何も無い所で何してるんだ?」


「わあっ! な、なに、誰?! 何でこんなところで眠ってるの?!」


 びっくりした。

 その人は気付かないうちに隣に寝そべっていた。

 その人は黒く美しい腰まで伸びた髪を首の後ろで束ねていて、その髪の色と同じ真っ黒な瞳をしていた。懐かしい色。しかもこの濃さは、相当南部の端にある民族の色じゃないだろうか?

 首には緑色の宝石がついたチョーカーをしている。太陽に照らされてその緑の宝石は、内側から水色に輝いていた。

 そんな綺麗な見た目ですごく濃い隈ができている。でも、それさえアクセサリーの様に見えるのはどうしてだろう。

 

「んはは、驚き過ぎだろ。あと眠ってない。寝っ転がってただけだ」


「……変なお姉ちゃんだね。こんな場所で寝っ転がってるなんて。それに今日は日が気持ち良いのに寝てないだなんてね。この場所は気持ち良いのに」

 

 それに今は午後3時で、冬のくせに日が暖かかった。


「はぁ? お・れ・は・男だ。お兄ちゃんだ!」


「……? そんなに綺麗なのにお兄ちゃんなの? 変なお兄ちゃんだね」


「違う。お兄ちゃ……そうだなあ。俺は見習い墜悼者をしてる芥生景あざみけいだ。景って呼んでくれ。分かったな? 景だ。そんでお前は?」


「……楠木くすのき楠木由くすのきゆう


「んじゃ、由は"こんな場所"で何をしてたんだ?」


 ……変なお兄ちゃんは意地悪な人だと思った。否、むしろ素直な人なのかも。変なお兄ちゃんは、こんな場所といった私の言葉を使った。

 それに気づいて私は自分のことが少し嫌いになった。


「水路橋って知ってる? 水が流れる橋の道をボートで向こう岸まで渡ることができるの。下には綺麗な運河が流れてて、季節によって違う景色を観れるの。春には春の花が水面を染めて、秋には秋の葉が水面を彩る。……そのボートに乗って運河を眺めるその時間はね、時がゆっくりと進むのよ」


 少し向こうに見える三つ並んだ水路橋の造形美はとても良く、磨き上げれば今でも美しいだろう。大きな運河の上を跨るその水路橋の水の上をボートに乗って向こう側まで漕いで行く事が出来る。橋と運河との高さは距離約30m。

 橋の上をボートで揺られながら見る運河は美しい。三つの水路橋と運河は時折、何でも写す鏡面のように水面が変わる時があるのだ。それは夢現で異世界に迷い込んだよう。

 対面の橋にゆらゆらと揺られながらボートに乗るゆうかが居れば完璧なのに。


 ただ不思議なことに、ここに人通りは無く人は1人として見当たらない。

 水路橋の橋には水が流れずカラカラに乾き切った石だけが、放置されたパンのようにパサついていた。


「って言うと、あの橋は水路橋なのか?」


 由は顔を少し背けてこくりと頷いた。


「ねぇ、変な……この町が何で呼ばれているか知ってる?」


「……水の都だろ? てか、今変なお兄ちゃんって言おうとしただろ。まあ、それで良いけど」


 変なお兄ちゃんはごにょごにょと口を動かしながら身体を起き上がらせた。


 そう、この町は水の都として有名だ。5年ほど前に比べれば観光客は減ってしまったけれど、3年前に比べれば今は客足が増えている。

 ただこの町1番の観光名所だった水路橋と運河は今は忘れ去られて、誰も近寄らない。ここの南の地区に住んでいた人々も死んだ土地だと他の地区へと移ってしまった。

 そう、5年前まで人気があった。”神災”が起こるまでは人気があったのだ。

 それまでは、この町も運河も水路橋だって生きていた。


「なんでここが、そう呼ばれているか知ってる?」


「確かエアルが日記にそう記して、愛した噴水があるって話じゃなかったか? エアルは伝説だからな」


 変なお兄ちゃんもここが水の都の所以であるとは知らないんだね、と由は思いながら景と合わせていた目を伏せた。


───ここでずっと一緒に暮らすの。次の秋も冬も春も夏もここに来るのよ。エアル様がここに祝福をし愛してくれたように、ずっとずっと愛されるこの場所で一緒に居るの。


「まあ、相違ないわ。……全部嘘つき」


「ん? 今なんて言ったんだ」


 由は声に出しているだなんて思わなかったのか、地面につけていた手を即座に口元まで持っていって両手で塞いだ。


「何でもないの」


 そう言ってジトっと景に目を向けた。


「そう言えば、何でここにいたんだよ? ここは今は使われてないって聞いたんだけど。それに由はまだ10歳くらいじゃないのか?」


「じゃあさ、なんで変なお兄ちゃんはここに居たの。変なお兄ちゃんは観光客様でしょ? それとも見習いだって言ってた墜悼者と関係があるの? ここは5年前の神災で多くの被害を受けた場所だからね」


「……5年前か。史上最大の神災って言われてる【灰の雨現象】の事だな。あぁ、成程。水路橋はそれが起こってしまったから枯れてるんだな。人通りがないのもそのせいって訳か。……この水路橋辺りの人々は全員死んでしまったのか?」


 由の目には、常に弧を描く景のその口が少し下がって見えた。ずっと穏やかな雰囲気を放っていた彼から、その話題に触れた瞬間陰りを感じた。


 ゆうかに似たあの目が、あの飴玉のように光を反射する黒い目が陰ってしまうのは嫌だな。


「今変なお兄ちゃんが座ってるとこ、私とゆうかが出会った場所なの。拾ってもらったの、もともと孤児だった私をね。……ここはね、ゆうかが一番好きだった景色。あの神災じんさいが起きるまでは、ゆうかも水路橋も運河も美しく元気に生きていたのよ。誰もいなくなったこの場所も、沢山の声があって生きていたの。だから一番許せないのは、この南側から北側に移り住んで行った人達。ここは今日も賑わっているはずなの。ううん、今日こそ一番賑わうはずなのよ。」


 別に神災で全ての人が亡くなってしまった訳じゃないわ、と由は付け加えた。


「そうだ。それだよ、俺がここに来た理由。今日は潮祭だろ? 水の都のエアルが訪れた記念の日を祝して祭りをするって聞いたから来たんだよ」


「…….ふーん。じゃあ、エアル様が目的で来たんだね。墜悼者ついとうしゃらしいね」


 墜悼者が来る理由はそこに神の遺物があるか、神災が起こる可能性があるか、のどちらか二つで、被災した場所には訪れない。

 私は二重の意味で墜悼者が好きではなかった。


「? 別に墜悼者だからエアルが好きな訳じゃないだろ。俺が特別エアルが好きなだけだ。他と比べるなんて烏滸おこがましいと思って欲しいほどだ」


「エアル様に様も付けないくせによく言えるね。墜悼者協会なんか相手の気持ちも考えないし、ここが被災して今もずっとこのままなのは協会の、国のせいなのよ」


 由はハッとして、また手で口を覆おうとした。今朝のすばるとの一件があってからずっと変だ。タガが外れてしまったみたいだった。


 景は確かにな、と口に出してから喋り出した。


「こんな可愛い女の子1人笑顔にできないなんて墜悼者協会がある意味がないなあ。墜悼者協会は神の遺物を集めて保管し、神災が起きないようにする仕事だけど、神災後の処理も立派な仕事だ。しっかりしないといけない。これは良くないわな」


 まあ、俺は見習いだからどうする事も出来ないかもしれないけど少し待っててくれ、と付け加えて笑った。


 由は何か堪らなく悲しいと思った。世界から隔離されていくような感覚で、どうしても居た堪れない。


 私は急に立ち上がって「来て」と言って変なお兄ちゃんを立たせて、歩き出す。変なお兄ちゃんは「どうした?」と言いながらも地べたについていた服の面をパッパッと手で払うと私の後をゆっくりとついて歩く。

 水路橋は今日も枯れている。

 本来水が流れている橋の真ん中を歩いて渡って行く。橋の長さは55m。ボートで渡れば疲れないし一瞬だ。

 変なお兄ちゃんは「をい。どうしたんだよー」と度々聞いてくる。


「ねぇ、心って何処に在るか知ってる?」


「え、し、心臓とかか?」


「……変なお兄ちゃんは何にも知らないんだねー」

 

 由はそう言ってまた静かに歩く。


 影が伸びている。

 日が傾き、影を伸ばしている。

 今日もすぐに終わっていく。

 

 由は思い出していた。歩きながら、今となっては水の無いただの石畳となった水路橋を見て。


 あの日は快晴で、真冬にしてはぬるい風が吹いていた。真っ青な空は雲一つなかった。珍しくもない。ただ昨日と同じに、青い芝生の上を冬にも関わらず麦わら帽子をかぶった可愛いゆうかを日陰で眺めながら笑い合っていた。

 雨が降るその時までは……


「墜悼者見習いさんなら、あっちに行った方がいいよ。エアル様が愛したって言われている物はここには無いから」


 「ほら」と由が言うと、水路橋を渡り終える。その先の町の光景は賑わった声で溢れていた。

 由はやんわりと出て行ってくれと言うように目線を送った。



 下を向く。

 足元は暗く影が落ちる。

 夕暮れが終われば本格的に祭りが始まる。この水の都で月一で開かれている昔から続く伝統。今では南の町は疎外されている。

 この水路橋が1番の人気だったくせに。皆んなここを元からなかったみたいに見向きもしない。

 人間なんて大嫌いだ。

 

「っっ」


 手が目の前に飛び出す。

 びっくりした。

 何が起こったのか分からなくて顔を上げた。


「一緒に行ってくれないか? 案内してくれ」


 変なお兄ちゃんは私を驚かせるのが上手い。

 また、飴玉みたいな光を反射する黒い目がころがる。……ゆうかに似てる。怖い。

 

 でも、なぜか目の前に出された手をとって私は前を向いて歩いてた。


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