第四話 下の名前

 本屋でまりあは暇を潰していた。本棚を見るとウィリアム・シェイクスピアの喜劇作品お気に召すままが本棚に並べられていた。


(あ、これは桜井くんが以前おすすめしてくれた本だ)


 まりあはお気に召すままを手にとって読む。書店内はインクの匂いがする。お気に召すままは台本書きだが読み進めるととても面白い。すると声をかけられた。その青年は幼馴染の大谷おおたに健太郎けんたろうだった。


「健太郎くん?」

「まりあ、久しぶり」


「噂ではまりあは水門みずかど大学附属高校に入ったらしいな」


「まりあは雰囲気変わったな」

「なら健太郎くんは? 背高くなったね」


「まりあは彼氏居るの?」

「居ないよー」

「……好きなやつとか居るの?」


「居ないよ。健太郎くんはわたしの用事でもあるのかな?」

「わっ!」


 まりあは健太郎に強引に壁に手をつかれた。まりあは片手を掴まれた。まりあはびっくりした。


「俺なんてどう?」

「わたしは健太郎くんは友達だとは思ってるけれどそんな関係を望んではいない」


「お客様!」

 店員さんが声をかけようとした。


「うるせーよ。俺はこの子の彼氏ですよ」

 健太郎は嘘をついた。まりあに是非も問わせないという目つきだ。


 ◇◇◇


 龍之介は琉花と晴人と書店に寄っていた。

 琉花と晴人は源氏物語を購入しようと列に並んでいる。龍之介は王妃の首飾りを立ち読みしていた。すると店員さんと言い争いをしている男の声がした。それと知っている誰かの泣き声がする。よく聞くとまりあの声だった。龍之介はその場に駆けつけた。


「まりあ!」

 龍之介はまりあに声をかけた。

 そこでまりあは真っ赤に泣き腫らした目をした。絡んでいたのは他校の真面目そうな生徒だった。男は見つかってしまった。という表情だ。店員も困った様子だ。


「おーい。バーカ」


 龍之介は高校の帰りに飲んだ殻のペットボトルを男の頭に向かって投げつけた。後頭部にペットボトルがコツンとぶつかった。


「オラ! やんのかよ!」

 相手は怒号を挙げる。だか、龍之介を見ると男は恐怖感に支配される。


「桜井くん! やめて!」

「……男同士の喧嘩だったら上等だ。テメェのことをみっちりと俺がしごいてやるよ。表に出ろ」


 龍之介の背後には不動明王がいる気がした。男は驚いた。


「ひぃ!」

「早く失せな」


 男は這々の体で逃げた。まりあは泣き出している。


「まりあ……じゃない。望月大丈夫か?」

 よくよく見てみるとまりあは泣き顔が綺麗なことに気付く。


「桜井くん、ありがとう」

 まりあは腰が抜けている。

「望月さん大丈夫ッスか? 龍さん、いまの、他校の不良ッスか?」

 琉花が心配した。

「違う」

 龍之介は言う。


「望月さん、大丈夫?」

 晴人も心配そうな表情だ。

「……望月さん、あいつは、知り合いか? 立てるか?」


「幼馴染の男の子」

 まりあは言う。


「……今日は望月のことを見送ってやるよ。怪我はないか?」


「少し、ほっぺたを切っちゃったかな?」

「何を力なく笑ってるんだよ。女なんだから顔に怪我なんかするんじゃねぇ」


「なんで書店に一人で来たのかな?」

 と晴人は尋ねる。


「亡くなったお母さんと一緒にこの本屋に来たことを思い出して」

「ああ、そうか」


「もしかして、今日はお袋さんの命日か?」

 まりあは泣き顔で頷いた。


「望月を送る。俺は琉花と晴人とは別行動だな」

「……そうっスね」


「龍さん! また明日!」


 龍之介は通学鞄を肩にかけた。こういうことがあればまりあとは恋人のふりをしたほうが良いなと判断する。


「まりあ。手を繋ごう」

「……手を繋ぐ?」

「まりあの好きな缶ジュースでも買うか」


 まりあと龍之介はベンチに座る。まりあは缶ジュースを飲み干した。龍之介はお茶を飲んでいた。


「俺はあんたの苦しみは全部は分からないかも知れねぇ。けど、あんま悩むんじゃねぇ。やるよ」

「あ、ありがとう」


 龍之介は持っていたハンカチを渡す。まりあは涙をハンカチで拭いた。


「……親父は俺が中学生の頃に肺がんを患った。俺が中二の頃に喧嘩をふっかけた翌日に親父は倒れた。親父に謝ることすら出来てない。苦しいことが降りかかるのはあんただけじゃねぇ」


「桜井くんも色々あったんだね」


「……俺は苦労なんてしてねぇよ。してんのはあんただよ」


「桜井くんは優しいね」

「俺が優しい? そんなわけねぇだろう」


「群青の空だな」

「そうだね、日も落ちたね」


「こうして空を仰ぐのも乙だね」

「ああ」


「桜井くんと居るととても心地よいよ」

「……あんたは俺みたいな神経質な奴と居ると心地良いのか?」


「桜井くんは純粋なんだね」

「……は? 俺は純粋な性格ではねぇよ」


 龍之介の手を合わせる。まりあはニコニコっと微笑む。


「今度から龍之介くんって呼んでも良い?」


「……別にいいけど。なんだよ」


「龍之介くんかわいいね」

「かわいい? 俺が?」


「うん!」


「あんたは変わった女だな」

 龍之介は照れくさそうに答えた。

 龍之介は鞄から消毒薬を出した。まりあの頬に消毒薬を塗る。


「まりあ、明日は医者に行きな」

「龍之介くん怖かったよ!」


 まりあは龍之介に抱きついた。龍之介は物凄くびっくりしている。


「ビ、ビックリするじゃねえか!」

「うふふ」


 龍之介はまりあと手を繋いで、帰路につく。


(夏の陽に当たるまりあは綺麗だな)

 龍之介は自分はなんてことを考えたんだ、と思った。


「龍之介くん、わたしの家に来る?」

「あ? まぁいいけど。なんでだよ?」

「わたしと龍之介くんは友達だから」


(……俺とまりあは単なる友達。それ以下でも以上でもねぇのか)


「まりあ。俺とあんたは友達なのか?」

「……え? 少なくともわたしはそう思ってるよ」


「……俺とまりあは単なる友達なのか?」

「龍之介くんは誰か好きな子でも居るの?」


「まぁ」

「龍之介くんに恋しい人が出来たの? 嬉しい! わたしも応援するよ」


「分かんねぇのか。あんたのことだよ。俺が思ってるのは。はじめて誰かを真剣に守りたいと思ったのは」

 と龍之介はまりあに真剣な眼差しだ。南東の風がまりあの頬を撫でる。

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