ステップ8

 僕たちの家は4人で住むには少々窮屈と言わざるを得ない。元々ひとつしかないベッドをプープーとハッピーに取られてから、僕とルルは、ソファでくっ付いて寝る羽目になっている。ここ最近、ルルは一日中破かれた聖書のページに、僕がちまちま貯めた精液で呪いの呪文を書いている。書かれた呪文、出来上がったスクロールは、夕飯の席でプープーの腹の中に消える。多分、プープーはセント・パトリック・デイまでにありとあらゆる聖典や神話、叙事詩を食い尽くす気に違いない。聖書。クルアーン。神曲。アエネーイス。オデュッセイア。

 プープーは言う。「ハッピーの為を思えば、まあ、悪くない味ね」

「僕の前で食べられても反応に困るな」

 僕は言う。それに、ハッピーに食べさせないと意味無いんじゃないのか。

 僕はテイクアウトのオイスターソースレバー炒めを食べながら言う。ルルに毎日発射を急かされて、僕の食生活は歪んでいる。亜鉛のサプリメントを飲まされている。ヘビの溶け込んだどぎつい色したパッケージのドリンク剤を飲まされている。

「聞いてなかったかしら。あたしたちにかかった奇跡だから、あたしもスクロールを摂取しないといけないのよ」

 それに。プープーは続ける。ハッピーは紙を飲み込めないと思うの。そもそもあたしが一度食べたモノをハッピーに食べさせる手段は幾らでもあるわ。そうよね、ハッピーちゃん?

 プープーは言う。スクロールを消化することで、魔術をあたしのモノにするのよ。

「この部屋ではやらないでくれよ」

「大丈夫よ、あたし、綺麗に吐く練習をしたの」

 プープーの前には、完成したスクロールがノート一冊分は積まれている。

 僕は言う。コアラの母親を想像してた。分かるだろ?

 ルルが減塩チーズ入りサンドイッチを咥えていた口を離す。ルルの目はこう言っている。おい、想像させるなよ。

 ナイフとフォークを器用に使って、ページを口に押し込みながらプープーは言う。「まあ、そっちも考えておくわ」

 僕はプープーの口からはみ出た奇跡を読む。──“そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。”

 テイクアウト中華を食べ終わった僕は、ブログに付いたコメントをチェックする。殆どはブログの内容に全く関係の無い、コメント欄をチャットルームにしたスピリチュアル信者同士の馴れ合いだが、ハッピーのリハビリを始めた辺りから、稀に気になるコメントが付くようになっていた(おっと、僕の写真が好きだったのに奇跡の女がどうとか言い始めて遂にスピリチュアルに取り込まれたようで残念。というコメントは違う。貴重な純粋なファンを失っただけだ)。

 昨日の書き込みだ──上手く思い出せないけど、セントラルパークの近くでここに書いてあるような二人組の女を見たことがある気がするよ。行ってみる価値はあると思う。ハンドルネーム、巡礼者7号。

 巡礼者7号。僕が勝手にラッキーセブンと呼んでいるこいつは、僕がプープーとハッピーの話を載せだすと、すぐに食い付いてきた”巡礼者”の内のひとりだ。ラッキーセブンはニューヨーク、中でもセントラルパークの周りを行動圏にしているらしく、早くから僕たちの近くを嗅ぎ回っていた。こいつが僕たちの家を特定して訪ねてくるのは時間の問題だろう。

 僕は言う。「プープー、奇跡を打ち破るためにきみたちの事を書きまくったのは良いけれど、そろそろ本気にしたオカルト信者共がきみたちの所に押し掛けて来る気がする」

 プープーは口をもぐもぐさせながら言う。

「セントラルパーク、シープメドウに気付いてもニュージャージーまで辿り着くにはそれなりにかかる筈よ。それに、完全に効果が消えるまでは、まだジェリコの奇跡が時間を稼いでくれてる」

 ルルが立ち上がる。よし、食べ終わったら、AAの時間にしよう。

 僕たちはもう完全にAAを私物化していて、AAは殆どプープーのためだけに開かれ続けている。そもそも、ルルはマンハッタン支部長を名乗っているけれど、他の支部がどれだけいるかも謎だ。ルルに誘われるまで、僕が知っていたAAはアンチナタリストアノニマスじゃなく、アルコホーリクスアノニマスだけだった。

 ルルは言う。「プープーは今日もステップ4を進めよう。ベイビーはどうする?」

 ステップ4──恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸表を作った。

 僕は言う。「僕は──そうだな、神を理解するために、ハッピーとリハビリを通して触れ合おうかな」

 プープーは言う。「あら、ありがとう」

 ルルは眉をひそめている。「俺にはお前も人生の棚卸表を作るべきだと思うが」

 これまでの人生を振り返って、やらかしてきたことを一から思い出して表にする?僕にはゴメンだ。考えるだけでノイローゼになりそうだ。

「どうせ12のステップの後ろの方では神がどうこうするだろ?丁度本物の神みたいな存在が隣に居るんだから、今考えたっていい筈だ」

 ルルは言う。「詭弁だな」

 僕は言う。「そもそもルルはステップ12まで進んだ奴を知ってるのか?ステップ4は──まあ、あんまり気乗りする内容じゃないし」

 ルルは耳を立てて言う。「俺はここしか知らん。さあ、それぞれのステップに移ろう」

「OK、ハッピー、何をしようか」

 僕は言う。歩行器を取ってこようか。

 今日のハッピーは、赤い実を付けたチェッカーベリーと、白いリボンで作られた花飾りで飾られている。僕には、飾り付けられたハッピーが毎回見目麗しきニンフかドリュアスのように見える。

 僕が歩行器を持ってくると、心なしかハッピーの表情が柔和な微笑みから、やや固い、真剣な表情に移った気がした。

 ハッピーは初め、リハビリに乗り気ではなかった。僕にはプープーみたいな奴の願いを叶えたい思いはちっとも浮かばなかったが、ハッピーは違うらしかった。ハッピーは奇跡を止めようとしていない。あるいは、もはや止められなかった。ただ、決意を固めたプープーの度重なる説得とファックによりハッピーは段々と懐柔されてゆき、こうして今ではリハビリに協力してくれるようになった。

「よし、ゆっくり立たせるから、歩行器に掴まってくれ」

 僕はハッピーの両脇を支えて立ち上がらせると、ハッピーの後ろに回って、後ろから支えて、キャスター付きの歩行器が先に進み過ぎないように気を付ける。ハッピーは軽過ぎて、僕は上手く支えられている自信もない。多分、マカロンと同じくらい軽い。ハッピーの足はただ床に着いているだけで、産まれたての子鹿と同じ状態で、足の役目を果たしていない。

 僕は言う。「大丈夫、手は離さない」

 ハッピーの四肢が、ガクガクと震えている。体重がかけられた歩行器が滑って、ハッピーは倒れそうになる。僕はすんでのところでハッピーを掬い上げる。

 僕は言う。「OK、ハッピー。立てただけで十分だと思う。奇跡を止められれば、多分もっと楽になるはずだ」リハビリなんて必要なかったと思うくらい、歩けるようになるかもしれない。

 車椅子に座り直したハッピーは、どこから取り出したのか、紙を持っていて、鉛筆を欲しがっている。ハッピーは思い通りに字を書けない。けれど、リハビリを始めてから、ハッピーは何かを思い付いて、考えて、手紙を書いている。ただ、中身は見せてくれない。僕だけじゃない、ルルにも、あのプープーにすら、ハッピーは頑なに見せようとしなかった。

「手紙を書き進める?」

 僕が鉛筆を探してきて渡すと、ハッピーは頷いた。

 僕は言う。「じゃあ今日のリハビリはそれにしよう。足も動かして、手も動かすとは、やる気だね」

 僕に向かってにっこり笑っているハッピーは、多分こう言っている。そうでしょ、凄いでしょ。いや、こうかもしれない。こんなの朝飯前ね!いや、やっぱり僕には分からない。

 僕は言う。「まあ、ゆっくりやろう」

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