ステップ4

「1ドル札持ってない?」

 プープーは僕のポケットに手を伸ばして、親指と人差し指をパクパクしている。僕が1ドル札を手渡すと、プープーは車椅子の前に身体を乗り出して、ハッピーの手元に置いた。ハッピーは、蔓で編まれた、鳥の巣を模した小物入れを両手で包んで抱えている。

 プープーは言う。「歩きましょ」

 鳥の巣には、黒い斑点の描かれた白い卵のレプリカが幾つかと、それを重石に僕の1ドル札が置かれている。

 僕たちは、二人と一匹と一神格存在は、シープメドウを目指して、夜のセントラルパークウエストをゆっくりと南下している。

 僕は言う。「セントラルパークって、住めたっけ」

 その時、道の向こう側から歩いてきたスーツ姿の男が、すれ違いざまに鳥の巣に手を伸ばすと何かを押し付けた。男は何も言わず、ハッピーとプープーに向かって自信に満ち溢れた笑みを向けると、頷いて去っていった。

 僕は呟く。嘘だろ。

 ハッピーの愛の鳥の巣には、5ドル札が増えている。

 ルルが言う。親切な奴も居たもんだな。

 その時、横断歩道を渡ってきた妙齢の女性が、50セント硬貨を入れて、十字を切った。僕たちを追い越した観光客のカップルが、それぞれ1ドル札を寄越して微笑んだ。家に帰る途中の学生グループから一人が離れると、鳥の巣の上で財布をひっくり返した。

 シャッターを切る。

 ハッピーとプープーに微笑む百万の顔は、すべて同じ笑顔をしている。自信と、慈愛に満ちている。僕は、ハッピーにお金が恵まれる度に、喉の奥に異物を押し込まれたみたいな気分になる。聖体拝領の時みたいな気分になる。法悦を感じている。

 タイトルを付けるならこうだ。『求道者の奇跡』。

 きみに5ドルで売り付けよう。

「ベイビーくん、これが本物の奇跡、奇跡の力の一端よ」

 振り返って言うプープーの表情は、満ち足りている。プープーの手には、幾つもの財布が握られている。道を行く通行人は、誰も気付いていない。握られている財布のひとつは、僕の物によく似ている。

「返せよ」

 僕は言う。スリがバレない奇跡か、結構な事で。

「残念ながらこれは奇跡じゃなくてあたしの技術ね」

 財布を取り返した僕は言う。「先に行っててくれ」そこのベンダーでタコスを買ってから追い付くよ。

 僕がポークタコスとトーフミートタコスの袋を提げて追いつくと、プープーの手には買ったわけではなさそうなハーシーズバーが増えている。僕が後ろを振り返った店の軒先には、お菓子のラックが出ている。

 そういう訳で、僕たちがシープメドウに足を踏み入れる頃には、ハッピーの抱える卵は小銭に埋もれて竜の宝物庫みたいになっていて、プープーの両手も戦利品でいっぱいになっている。

「奇跡にしてはちょっとばかし──自己中心的過ぎないか?」

 僕は言う。病気の人を治したりは?

「より実践的な奇跡と呼んで欲しいわね」

 実践的な奇跡。多分、投げたゴミが丁度ゴミ箱に入る奇跡もあるんだろう。近付いた時に丁度信号が青になる奇跡。ファックをした時に同時に発射できる奇跡もあるに違いない。

「それで、どこに住んでるって?」

 僕は言う。シープメドウには羊くらいしか住めないだろ。

「……あれか?」

 ただし、草原のど真ん中にキャンピングトレーラーが鎮座しているなら話は別だ。

「あそこよ」

 そう言って、プープーは鎮座するキャンピングトレーラーに向かって歩みを進めていく。牽引するトラクターは黄色のラングラーだ。

 僕は彼女たちの後を追いながら言う。勘弁してくれよ。

「ちょっと待っててくれる?」

 プープーは言う。あたしのかわいいかわいいハッピーちゃんをベッドに連れて行くから。

 玄関口には階段の替わりにスロープが取り付けられている。

「手伝おう」そう言って、ルルも巨大な身体を押し込むようにしてトレーラーに吸い込まれた。僕は一人、外で四人分のタコスを両手に持って突っ立っている。

「どうぞ」

 トレーラーの奥からプープーの声がして、僕はすごすごと足を踏み入れる。中を一言で言い表すなら、何百年かの間掃除をしていないキオスクと花屋と本屋を合体させた感じだ。全ての棚に何らかの鉢か箱か容器か本か──とにかく詰め込める物を全て詰め込んだに違いない。僕は目の前の棚に並んだプラスチック容器の文字を読む。ポリエチレングリコール、酸化マグネシウム錠、メラトニン、バビルツール酸、ベンゾジアゼピン──

「タコス野郎、何か気になる事でもある?」

 見れば、プープーはベッドに腰掛けてハッピーに膝枕をしている。

 僕は言う。いや、物が多いと思ってただけだ。僕は言う。お腹が空いたよ、どこに座ればいい?

「どこかその辺に折りたたみの椅子が──」

 プープーが指さした先は、ペットボトルとゴミ袋の山だ。ルルは山の底から折りたたみ金属スツールを探り当てると、脚で周りを払ってスペースを作り、無理矢理スツールを立てて座った。僕の座る場所は無い。

「ほら」

 ルルは自分の膝を叩いている。僕らも彼女たちに習おうって?僕は言う。勘弁してくれ。

「わがまま言うなって」

 僕の身体が引っ張られて、人形の様にルルのお膝の上に乗せられる。僕はわめく。おい!

 確かに身体が無駄にデカいと、こういう時に便利だ。誓って、僕だって平均程度の大きさはある。

「トーフミートタコスはどっちだ?」

 ルルが僕の手からタコスを漁りながら言う。ほら、美味しそうだ。タコス食って機嫌直してくれよ。

「買ったのは僕だ」

 僕は続ける。プープー、こっちの袋はきみたちの分だ。ハッピーもトーフミートを?OK、チリソースに気を付けて。

「ひとつ聞いても?」

 僕は頭の上に顎を乗せる狼もどき、犬を無視してプープーに尋ねる。

「何かしら」

 プープーは言う。ほらハッピー、あーんして?

「いつからここに居座ってる?」

「さあ」

 プープーは言う。半年前?一年前?忘れたわ。

 僕の頭の上で、タコスをもぐもぐと咀嚼させながらルルが言う。よく追い出されないな。

「僕が言いたいのもそれだ。なんでトレーラーなんかで居座ってて問題になってないんだ」僕は言う。管理会社はどうなってる?

 ハッピーはちっちゃな口を精一杯開けて、差し出されるタコスを飲み込んでいる。山盛りのトーフミートとアボカドは奇跡的にこぼれていない。

「それが」プープーはタコスを飲み込んでから言う。セントラルパーク管理委員会には奇跡的にバレてないみたいなのよね。多分、ジェリコの奇跡の範疇ね。

 おっと、また奇跡か。いいね。プープーに関わると僕の法悦的感情はどんどんと薄っぺらくなっていくばかりだ。

 僕は言う。そのジェリコの奇跡ってやつを教えてくれよ。

 その時、ルルが急に立ち上がったせいで、僕は無様にずり落ちる。ルルは言う。悪いなベイビー、ゴミを捨ててくるついでに散歩してくる。

 ルルが出て行くと、プープー先生のありがたい講釈が始まる。

「聖書を読んだことがあるなら、ジェリコの戦いは知ってるでしょう?」プープーは続ける。城塞都市ジェリコの壁は鬨の声によって崩れ去った訳だけど、実際のところ、それまでは難攻不落を誇っていたの。ジェリコの奇跡は私とハッピーにかけられている一番大きな奇跡。難攻不落の城塞都市の奇跡の壁が、あたしたちをヴェールで覆い隠してくれているわ。

 プープーに肩を抱かれたハッピーは、チリソースが口紅みたいになった顔で微笑んでいる。

 僕は言う。「つまり、やりたい放題の奇跡ってわけか──待てよ、ならどうして僕は君の勝手ぶりに文句を言える立場にあるんだ?」

 プープーは言う。あたしたちの方からあなたに情報を開示したからよ。AAのセッションを通じて、単純な奇跡でうやむやに出来ない程度には”仲良く”なれたって事ね。プープーは何かを思い付いたかのように続ける。あるいは、ベイビー、あなたもジェリコの奇跡の中に入ったのかも。

「OK、大体分かったよ」僕は言う。君たちにとことん都合のいい奇跡とやらにうんざりしてきたよ。どうせ他にも生活に役立つ年長者の知恵みたいな奇跡が山ほどあるんだろ。

「ええ、まあ」

 プープーは言う。ベイビー、あなたの狼の彼氏、帰ってこないわね。

 僕は言う。「彼氏じゃないよ」犬だから散歩が必要なんだよ。

「あら」隠さなくていいのに。あたしとハッピーは愛し合ってるわ。とっても。

 プープーは続ける。泊まっていけば?

 僕は窓の隙間から外を眺めている。遠くに街灯と窓の明かりが見える。

「どこで寝ればいい?」

 全ての椅子とテーブルはガラクタが山積みで、ベッドはひとつしかない。

 プープーは言う。「前にくっ付いてるラングラーが空いてるわ。座席を倒せばそれなりに足は伸ばせると思うけど」

 僕の見解が正しければ、僕は泊まっていけばと言われた相手にトレーラーを追い出されそうになっていて、車中泊をしろと言われている。

 プープーは言う。こっちで無理矢理寝てもいいけれど、あたしたち──あたしが──うるさくするかも。どうかしら、ハッピー?

 言われたハッピーは、プープーの身体に自分の腕を蛇みたいにぐるぐる巻にして抱き着いている。二人の顔は、もう眼球同士がくっつきそうな程に近い。OK、僕もお楽しみを邪魔するほど野暮じゃない。

「じゃあ、車の方にお邪魔させてもらおうかな」

 プープーは言う。ありがとう、ロックはかかってないわ。

 そういう訳で、僕は四駆の無駄に広い車内で、ひとり寂しく座っている。ラジオはハロウィンのイベント情報を伝えている。彼女たちは仮装の必要は無いだろう。常に神の仮装をしている。ラジオからはスリラーが流れている。僕はラジオを消す。窓がノックされる。もじゃもじゃの髪を生やした犬の顔が写っている。もじゃもじゃ犬は、ルルは、ドアを開けろというジェスチャーをしてみせる。僕がドアを開けると、ルルは隣の座席に身体を曲げて押し込んだ。

 ルルは言う。「戻ってきたらそこにへちゃむくれの顔が見えたからな。中に居なくていいのか?」

 僕はグローブボックスに、大量のハーシーズバーが詰め込まれているのを発見する。多分、僕へのプレゼントだろう。

「僕らにはこっちで寝て欲しいみたいだ。お楽しみを邪魔しちゃいけない」

 僕は言う。朝になったら呼んでくれって。

 アーモンド、チョコミント、クッキー&クリーム、ヘーゼルナッツ。僕はクッキー&クリームの包みをひとつ破ると、ルルにももうひとつ差し出した。

「なるほどな」

 ルルは言う。チョコは食えない。

「ルル、手伝ってくれ」いったいどこを倒せば快適に寝られるようになる?

 そういう訳で、僕らはどうにか後部座席を倒してできた、猫の額ほどのフラットスペースで寝ることになった。突っ張り棒みたいになってなんとか転がっている僕の背中に、丸まってなんとか収まっているルルがぴったりくっ付いている。夏にはうんざりするほど暑苦しいルルは、今は丁度いい熱源だ。

 転がっているハーシーズバーの包みを見ながら僕は言う。

「おやすみ、ルル」

「おやすみ、ハニー」

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