ステップ3
週末の夜、僕たちはセント・ジョン・ザ・ディバイン大聖堂を臨む通りの向かいの貸部屋に集まって、畏れ多くも貴きAAマンハッタン支部長ルルの声に導かれる。
「目を閉じて」
ルルは続ける。身体の中の緊張が手足の先端に流れて集まってくるのを想像して。
爪と皮膚の間から、緊張が流れ出していくところを想像して。
手足がどんどん重くなってくるところを。
蕩けた身体が椅子から流れ落ちて床に沈み込んでいくところを想像して。
あなたの意識は暖かい霧に包まれて、この部屋の中に漂っています。
窓から銀色の月光が差し込み、あなたの目の前で霧が二つに割れていき、奥には人影が見えています。
モーセの奇跡。
段々と明らかになるその人は、あなたが今一番会いたいと思っている人です。さあ、この奇跡に感謝をして、メッセージを伝えましょう。
僕は上手く集中できていない。僕の意識は身体の感覚を上手く手放せずに、お尻にガタガタした木の椅子が食い込む痛みに気を取られている。僕の目の前の霧は中々晴れず、影は人になったり狼になったりしている。
メッセージは、相手からもたらされるかもしれません。影が何を言っているのか、注意深く耳を傾けて──
意識の中で、僕は呼び掛ける。おーい、お前は誰なんだ?何か言ってくれよ。
僕は狼なのか人なのかよく分からない影の、頬と思わしき部分をぺちんと叩く。
「目を開けて」
「わお、驚かせるなよ」
突然耳元でルルの声がして、僕のまぶたは音がしそうな勢いで開かれ、びっくりした拍子に尻が椅子から飛び上がってずり落ちている。
ルルが言う。「よう、ねむねむベイビーくん。大丈夫か?」
「ちょっとびっくりしただけだ」
ルルは言う。次のプログラムに移っても?
「ハグと対話の時間だ」
ルルは手元の紙を見て言う。プープーはベイビーと組んでくれ。ハッピーは俺と組もう。
「ハイ、ねむねむベイビーくん。随分調子よさそうね」
プープーは大袈裟に腕を広げて言う。さ、ハグしましょう?
「OK、きみとハグできて僕としても嬉しい限りだよ」
彼女の腕が緩く僕に回される。僕が頭を預けると、彼女の短い赤毛が首筋にチクチクと突き刺さる。
「証拠をくれよ」
僕はさっさと本題を切り出す。僕の視線の先では、屈んだルルがハッピーを包み込むみたいにハグしている。ルルがどうやってハッピーと”対話”するつもりなのか、僕は知らない。
「証拠?」
プープーは、僕の知らないバンドTを着るプープーは、あくまでシラを切るスタンスらしい。OK、僕が神様の化けの皮を剥がしてやる。
「君が神様だって証拠さ」
プープーは笑っている。多分、笑っている。
「写真を撮らせてあげたじゃない」
僕の視線の先では、ルルはハグの代わりにハッピーの手を握りながら筆談を試みている。
「彼女、字は書けるのか」
プープーの首が後ろを向く。プープーは言う。完全に手足を動かせない訳じゃないわ。プープーは言う。ハッピーは手紙を書くのを目標にしてるの。プープーは笑っている。多分、微笑んでいる。挿絵まで挿入しようとしてるのよ?
「で、写りの悪い写真はお気に召さなかったわけ?」
僕は言う。顔が写らないだけじゃ神とは呼べない。
「ドラキュラの紛い物の可能性が残ってる」
僕の視線の先では、鉛筆を握ったハッピーが箸を初めて持ったみたいになっている。
「正確に言うと」
プープーは秘密を打ち明けるみたいに言う。誰かに神様だって崇められてる訳じゃないの。ただ──
僕の顔の横に空いた穴に向かって、滑らかな声でプープーは秘密を落とし続ける。
奇跡を起こせるの。
「奇跡を起こせる存在が神以外に居るかしら」
僕は言う。だったらさっさとドブの水をワインに変えて見せてくれればいい。そうすれば信じるよ。
僕の視線の先では、何か単語を書けたらしいハッピーが、キラキラした笑顔で瞳を輝かせている。
僕は言う。本当に神なら、さっさとハッピーを喋れるようにすればいい。手足を自由に動かせるようにすればいい。
「色々と理由があるの」
僕は言う。神は全知全能と違うのか?化けの皮を剥ぐまでも無い。拍子抜けだ。僕の視線の先ではルルが立ち上がって言う。そろそろ席に戻ろう。ルルはセーターの襟に引っ掛けていた細枠の眼鏡をかけると、手に持った本を開いて言う。
「今日の引用はこれにしよう。これは──ステップ1に取り組む手助けになる。──”楽園の外に生きているのだと意識しなかったことは、ただの一瞬もない”」
私たちは出生、及び人生に対して無力であり、肯定的に生きていけなくなっていたことを認めた。
ルルは、マズルに眼鏡の鼻当てを乗っけたルルは言う。楽園の外に居るからこそ、俺たちは自分たちの力で救済されなければならない。他に救済は、訪れない。
ハグを解いて、自分の席に戻りながら、プープーは言う。
「あたしたち、セントラルパークに住んでるの」
奇跡が起こるのを見たいなら、一緒に来れば?
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