BACKGROUND 生
仄かな暗がりに、ベッドの輪郭だけが、ぼんやり浮かんでいる。
スイッチを探して、室内の壁に震える手を這わせてゆく。手探りで見つけ出したスイッチを指先で「パチン」
びくりとしつつ、幾度かの明滅を繰り返し、部屋は明かりに満たされる。
溢れた明かりがダイニングを照らし、ぼくの影がダイニングテーブルで屈折している。
どうして、背後のダイニングに目を逸らしたか?
ぼくには、それが生きているように見えなかったからだ。
その時、玄関のドアが開く音がして覗きこむと、百合を握りしめたルチアが入ってくる。
「ミカ兄、会えた?お母さんに」
「あ、会えたよ。でも、ぼくにはアレが、何を意味するのかわからない」
「ねえ、ずっとあそこで、ミカ兄のこと待っていたお母さんに、百合の花。たむけてあげて」
頬を熱い涙で濡らしながら、今度はぼくから、ルチアの腕へ固まった腕を通して、連れていってもらう必要があった。
母さんは、柔らかいベッドの中、眠るように亡くなっていた。
どうして分かるのかと言えば、ルチアが遊園地の花畑で摘んできた、たくさんの花々に全身覆われているからだ。
もし、花々がなければ、ただ眠っていると思ったろう。でも、それを裏付けるように母さんは息をしていない。
「綺麗、じゃない? わたしがお化粧、してあげたの」
言って、ルチアが母さんの顔を撫でる。ぼんやりと幻を見ている感じで、ぼくはただただ眺めている。
「ミカ兄、どうぞ」
さっき摘んできた百合の花を、ぼくへ差し出した。
ルチアから花を受け取って、母さんの顔以外、全部を埋めつくした花々に一本の百合を置いた。
「いったい、いつ?」
「父さんとミカ兄で、遊んでいる時だよ」
「そんな!」
どうして、教えてくれなかった?
と思うが、悲しみを深く沈めて瞑想するようなルチアの顔から、聞いてはいけないことに思われた。
なにか訳があるんだ。
「明日、お葬式なの。ミカ兄、だいじょうぶ?」
「まだ、早くない?もう二晩ぐらい、いっしょにいてやりたいよ。ぼくのこと、ずっと待っていてくれたんでしょ?」
「うん、待ってたよ。でも、ミカ兄が、こっちに来てもらう代わりに交わした、これがわたしのネガイゴトだから」
ドキッとして、跳ね起きる。これは夢だった・・・しかし、夢じゃない。
ネガイゴト。とても大切なこと、ぼくは忘れていないだろうか?
大切な記憶を呼び覚ますため、ただ呆然と虚空を仰ぎ見ていると、ルチアがぼくの胸で溺れるように泣きついた。
ぼくは黙って、嗚咽するルチアの頭を撫でてやる。
「今までずっと、がんばってくれていたんだね。ぼくがいない間も」
「これからずっと、ここで、わたしといっしょ?」
「も、もちろんさ。ルチアを一人ぼっちに、しておけるわけないだろ」
そう言いながらも、ぼくの足は後退している。
頭のどこかで違う何かを求めている。それでも、ルチアを一人にはできないし、できるわけがない。
ぼくはルチアのことを、この胸に収めて一つになりたいほどに、愛してしまった。
「ルチア、明日の母さんのお葬式、手伝うから」
「うん、ありがとう。じゃあ、ミカ兄はずっとわたしといっしょ?」
「もう、離れられないよ。身も心も」
そう言って、ルチアを抱き寄せると、ルチアはするりとぼくの腕をくぐり抜けた。
拍子抜けに突っ立っているぼくへ、ルチアが笑みを取り戻して言った。
「夕飯の支度、これからするから。ここでは、急ぐ必要なんてないの。時間をかけて、ゆっくり一つに溶け合おう」
そう言い残して、ルチアはキッチンへ入っていった。
夜の帳が下りて、ふるまわれたルチアの料理はとても美味しかった。こんなに夕食というものが温かく、体を養い心を明るくする食事を初めて味わう。
「ルチアと母さんて、今までどんな風に暮らしてきたの?」
食後のコーヒーを、ルチアとお揃いのカップで飲みながら尋ねた。
「毎日、お父さんとミカ兄のこと話してたよ。たまに、お父さんが来てくれた時は、こんな風に三人で夕食を囲って、楽しく食事してた。でも、決まってミカ兄の話しになって・・・」
伏し目がちにコーヒーへため息を漏らした。
「ぼくが、母さんに会いたがらないって?」
ルチアはコーヒーを口に含んで、ゆっくり喉を潤すように飲んだ。
「ミカ兄には、ミカ兄の世界があった。でも、もうそれはかつての世界になったの」
「かつての世界?」
それがなんだったか、思い出せなくて尋ねた。
「そう、今ミカ兄の全世界は、わたしのいるこの世界、でしょ?」
「そういうことになる」
「じゃあ、この世界で明日すべきことは?」
「母さんのお葬式」
「よかった。ミカ兄がわかってくれて。それで、お母さんともっと過ごしたかったって?」
「まあ、そうだね。でも、それが生前の約束なら、母さんの意志を汲んで」
母さんと言った途端、自然に涙が溢れた。母さん、母さん、懐かしく甘い響き呼べば口の中で甘くとろける、母さん。
「ミカ兄、いっしょに寝ない?」
「え!?」
ルチアが悪戯っぽく笑っている。
「お母さんといっしょに、今晩は、最初で最後、親子三人で眠りましょ」
「ありがとう、ルチア。そう言われてみれば、眠くなってきたよ」
ルチアが片付けしている間、ぼくは熱いシャワーを浴びて、父さんが泊まる時に使用している寝間着に着替えた。
ダイニングルームで手持ち無沙汰でいるぼくへ、ルチアが洋菓子を差し入れてくれる。
まるでルチアは、ぼくが願っていることを知っているかのように、世話してくれる。その作法も、さりげなくて無駄がない。
そしてなにより恩着せがましくないのが、ぼくの気に入るところだ。いったいどうしたら、こんなに気の利く子に育つのだろう?
考えてみて、やはり母さんとの生活が大きかったのだろうと思う。
母さんの眠る寝室からルチアが出てきて「どうぞ」と案内された。
恐る恐る中へ入ると、母さんの顔は白い布で覆われている。その瞳は、おそらくグレーのはず。
今となってはもう、確認する気もおきない。やつれた母さんの重苦しい、物言わぬ亡骸に触れることはタブーに感じる。
母さんの眠るベッドと対に、同じようなベッドがあって、寝具がきれいに整っている。部屋を漂う香の匂いに、なんとも眠気を誘われて、ベッドに横たわり、ぼくは母さんを見つめながら深い眠りに落ちていった。
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