BACKGROUND 暗
花を踏みつけないよう、慎重にルチアの元へ歩いてゆく。
足元の花びらで蜜蜂が静かに羽音をたて、蜜を集めている。
ひらひらと舞う蝶は、花畑で最も美しい花を選び、ルチアの頭へ止まる。蝶を生きたリボンにするルチアは綺麗だ。
こんなに綺麗な妹の兄であることが、誇らしい。そして、ルチアにふさわしい兄にならねばと強烈に願う。
すると、ルチアと同じく、ぼくの肌の色まで白く染まってゆく。
いや、本来の肌の色に戻っているのだ。
今ままでの肌色は瞬に似せて、作っていったもの。顔も姿も全部、瞬を真似て自分を作ってしまった。
灰色の瞳だけは、どうしても似せられなかった。まるで烙印のように。
そして、その意味をやっと知る。この灰色の烙印は、ルチアとの絆だったのだ。
灰色の瞳と灰色の瞳が向かいあう。瞳の中の自分を見つつ、ルチアを見つめる不思議。
純白の百合を手に、その香りをかぎながら微笑んで、ルチアが言った。
「はい、兄さん。これが母さんの好きな花」
「そうなんだ」
きっと、この百合のように綺麗で凛とした母さん。早く会いたい。
「わたしの好きなお花、どれだと思う?」
ルチアがいたずらっぽい瞳を向けて言った。
「どれだろう?」
こんな風に、花をまともに見るのは初めてだ。
どれも彩り豊かで、かぐわしい香りを放ち、真っ盛りに咲き誇っている。
どれがルチアにふさわしい花なのか、どれも美しく綺麗だ。でも、やっぱり花畑の真ん中で、ほくそ笑みながらぼくを見つめる。
ルチアが、一番美しい・・・
言いかけて、そっと胸にルチアへの思いをしまう。
あえて言うなら、母さんが好きだという百合の花の気がしたが、既に、ルチアの胸で握りしめられている。
ぼんやり考え込んでいると、うっかり花々の間に転がる緑がかった石を拾ってしまう。
「それ?」
ルチアが目を丸くして、掌の緑石を見つめている。
「あ、石じゃなく、花だったね。ごめんよ。ルチア」
「そうじゃないの。ミカ兄が選んでくれたお花が、わたしの好きな花だから。聞いてみただけ」
緑の石を脇に放り投げようとした。
「それ、ちょうだい」
「え?」
パッと掌から、緑の石を奪う、ルチアの手はやけに素早い。
ルチアは笑顔を弾ませて、緑の石ころを握りしめている。
「ミカ兄の選んでくれたモノが、わたしの好きなモノ」
ルチアのことが愛おしくて、思わず小さな肩を抱き寄せた。
ふと、思った。
血の繋がりがなければ。
「ポト!」
ビクっとして、足元にルチアが握っていた緑の石が転がっている。
ルチアが潤んだグレーの瞳で、ぼくのグレーの瞳をのぞき込んでいる。ぼくたちは、瞳の絆でしっかり結ばれている。
もっと、ルチアの瞳と近づきたい。
思うと、本当にルチアの瞳が近づいて、動転する。
「じゃ、母さんのところ、お花持って、行ってみようか?」
とっさに、ルチアから離れて言った。
「うん」
ルチアがしゃがみこむと、滑らかな臀部から伸びる両腿のラインがスカートにくっきりと浮かび上がる。
ルチアは大切そうに緑の石についた土を払う。そうしてハンケチでくるみ、百合と一緒に握りしめて立ちあがる。その姿が眩しくて神々しい。
「お母さん、あっちに住んでるの」
ほっそりとした人差し指を、森のほうに向けた。そして森の暗がりを見つめた時、そういえば、父さんて、どうしているのだろう? 妙な疑問がわいた。
辺りを見回してみるが、影も形もない。
「行こう。ミカ兄」
再びルチアが、ぼくの脇から腕を捕まえるように組んで歩き始める。ぼくをどこにも逃さないようにやっている、そんなルチアの思いが腕から伝わってくる。
ずっと昔から、こんなシーンを思い描いていた気がする。
ずっと心の中で、こんな風景を夢見ていた気がする、いや、こいねがっていた。今ならわかる。ぼくはずっと、本当の家族を渇望していた。
父さんの不在を感じると、西の空から夕陽が忍び足でやってきた。
「この遊園地って、どこまで続いているの?」
ルチアが、その柔からな頬を、ぼくの肩へ埋めた。
「ここには、囲いがないの」
「囲いがない?」
「区別がない。って言えば、いいかしら?」
「区別が、ない?」
区別の世界で、いかに上位に区別されるか。目指してきた頭では、想像がしにしにくい。
「兄妹の区別もない」
ルチアが上目使いに、ぼくの瞳を覗きこんでいる。
いつの間にか、ぼくらは薄暗い森を進んでいる。ルチアの瞳だけ輝いて、モヤモヤした心が明るくなった。
ルチアの胸の柔らかさが伝わってくるほど、きつく腕を抱きしめられ。
「ルチア、いなくなったりしないから。ぼくたちはもう、自分たちの意志でいっしょになることを、選べるのだから」
ルチアの頭をなでると、その胸からスッと力が抜けた。
「わたしね、恐いの」
「なにが恐いか、教えてくれる?」
「もうじき、着くから」
「ルチアの母さんの家?」
「そう、わたしたちの母さんの家に」
「こんな森の奥に住んでるの?」
「母さんね、父さんとミカ兄が出て行って、森の中で暮らすようになったの。昔は遊園地で暮らしていたのに」
「そうだ。父さんは?」
「父さんは、いつも通り。もう帰っちゃったよ」
「どこに?」
「区別された家族のところに」
心がざわついて、居ても立ってもいられなくなる。
「・・・ルチア、急いで母さんの家、連れてってくれないか」
母さんの家はわからないけど、ぼくがルチアの腕を引っ張る格好で、森の道を駆けていった。
日は沈みかけて、森はどこまでも深く、夜のように暗い。
淋しい暗がりの中、蝋燭みたいな明かりの漏れる家が、ポツンと闇に浮かんでいる。
「母さん!」
たまらず、ルチアの腕を振りほどいて駆け出した。
この世界から弾き出されたような粗末な木造の平屋、あんなところにたった一人、病身で。
蝋燭に見えた玄関灯に照らされる、オークの扉に手をかける。取っ手を握って、手前に引くと、ネバっとした感触がする。
玄関灯に照らされる室内へ、吸い寄せられると、大きなダイニングテーブルが置いてある。
そうでなければ、そこがダイニングとは気づかないほど、薄暗い。
ダイニングの奥、ちょっとした間仕切りの向こうで明かりが灯っている。
ぼくは虫みたいにただ明かりの差すほうへ駆けこんだ。
誰もいない。このキッチンは機能していない。
蛇口から、ポタポタ水が滴り落ちている。不吉な水音が、脳裏にダイニングを通り抜けた時、左側に明かりのない部屋をよぎらせる。
嫌な胸騒ぎがして、猫のように足音を忍ばせ、ゆっくりと謎の部屋へ向かっていった。
「母さん?」
真っ暗な部屋へ怯えて固まった足を踏み入れた。
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