BACKGROUND 速
サングラスをかけた恭四郎が、笑みを浮かべてガムを噛み、アスファルトに立っている。
アスファルトと言っても、そこはサーキットじゃなく公道。しかもアーケードの歩行者天国だ。
乗り物の音と言えば、自転車と配達の原付きバイクぐらいのもの。
ストリートが始まるアーケードの外で、瞬は通りを歩く歩行者の群れを、ぼんやり見つめていた。
その引き締まった体でまたがっているのは、恭四郎フルチューンのモンスターマシンじゃなく、錆びついたママチャリだった。
どこを見るでもく、瞬はただ、スタンドを下ろしたママチャリのペダルをこいで、ひたすら後輪を空転させている。
カゴの中のハムスターが、ひたすら回し車を走っている、そんな風に。
そんな瞬に、駆け寄って言った。
「瞬! なに、するつもりだ!? 母さんが心配してる」
「骨と羽根だけだって平気だよ、母さん。『かもめのジョナサンより』」
瞬は虚ろな目をしたまま、更に後輪を高速空転させる。
「瞬? なにを言ってる」
「ぼくは自分が空でやれることがなにか、やれない事はなにかってことを知りたいだけなんだ」
瞬が空転するママチャリで前傾姿勢をとった。
「まさか・・・」
アーケードの下を、歩く人々の群れを見わたした。
「ただそれだけのことさ」
瞬がボンヤリしがら、かもめのジョナサンのフレーズを口にした直後。
「ビュン!」
突然スタンドが持ち上がって、タイヤが路面に噛みつく唸りを上げた。
瞬が全速でこぐママチャリが、歩行者天国を歩く群衆へ突っ込んでゆく。
抱っこ紐にくるまれた赤ん坊、買い物する母親、杖をつく老人、ランドセルを背負う小学生の集団。
種々雑多に歩く人々の群れを、モーセが海を裂いたように、瞬のママチャリが一直線に引き裂いた。誰一人として、轢くことなく。
「パチパチパチ」
恭四郎の拍手が、通りにこだまする。
「これぞ、スカイアロー青矢。すばらしい。そう思わないか?」
「人を、殺す気?」
「愛しの息子。レーサーになるんだって? それが何を意味するか・・・自覚していなければいいのだけど。つまり、こういうことだ」
「こういうこと?」
「トマホーク、私が考案したトレーニングだ。俯瞰を超えた既視俯瞰、とでも言ったらいいだろうか。瞬の目は、現在の群衆動作と心理から、その三秒後の世界を捉える」
「誰か轢いたら、どうする!」
「それは、これら人々を支配する資本が解決してくれると思う。レースに挑むとは、こういうことなんだ。愛しの息子」
「それを、知らしめるために?」
拳をぶるぶる震わせて、握りしめた。
「しかし、親子の問題は資本をもってしても解決しづらい」
母さんの、大切な瞬を! 人の命を! 一体なんだと?
スッと、恭四郎からメモ紙を手渡された。
怒りに震える手で開くと、メモ紙に『息子が父親を殴る」と書かれている。
頂点にこみ上げた怒りで、メモ紙を丸めて投げ捨てた。
「シュン!」
目の前を影がかすめる。
ぶっ飛んできたママチャリが瞬のブレーキングで、制動する。
そして、スタンドをかけているかのように、両足をペダルにのせたまま、ピタリと停止。
瞬はキャッチしたメモ紙を開いて、虚ろな瞳で覗き込んだ。
「息子が父親を殴る? 兄さん、なにかあったの?」
「なにかあったって? 母さんはおまえを愛してるんだぞ。下りるつもり、ないか? 先には、死しか待っていない、こんなレース」
この腹違いの弟。母さんから心底愛される実の子に、心底から歩み寄った。
「そうだとして、だから、どうしたの?」
「レースに浪花節は必要ない。スピードの世界に立ち入るな。大阪人じゃないイギリスの母さんが寂しがってる」
「本当の母さんは、会ったこともない、イギリス人じゃない。日本人の優しい母さんだ」
「そんなだから。母さんに会わせられない。悲しませるだけだ」
恭四郎が寂しげな瞳を、通りに泳がせた。
「あんたがそんなだから、会いたくもない! 母さんのこと瞬のこと、人として、もっと大事にして欲しい」
「兄さん、やめなよ。父さんとケンカしたところで、ぼくはもう、ここから下りられないんだ。父さんのマシンの一部だから」
錆びたママチャリが弟の一部に見えた。
「マシンの一部じゃなく! 血の通った弟! 母さんの大事な息子!」
「母さん、母さんて。それなら、ぼくになって、母さんを一人占めすれば?」
久ぶりに、フッと笑う瞬のニヒルな笑顔。
握りしめた拳がほどけ、肩から脱力感に襲われてしゃがみ込みそうに。
それだけは、言われたくなかった。
「兄さんがレーサーになるって、そういうこと、なんでしょ?」
「違う! 弟を助けるためだ」
「だったら、ぼくたち、兄弟じゃなくなっちゃうけど?」
「なんで、そうなる!?」
「ぼくの尻を追いかけ回す、ハエ共の一匹になるから」
恭四郎が腕時計を見て言った。
「フロイドは言っている。人には死を欲する本能があると。人がレースをしたがるのは、スポンサーのためじゃない。テクノロジーの進歩のためでもない。ましてや観客のためでも。人は死の本能を満たすためにレースをする。そして、瞬はそんな本能の塊だ。おまえはレースに近寄るな。これが最後通告だ」
「生還してこそのレースだろ? 生きたがるのが人の本能なんだ、瞬、目を覚ませ。これが最後通告だ」
「だからもう、下りられないって言ったろ。聞いてた? ぼくの兄さん」
「じゃあ、本気で、ぼくを追いかけてもいいかな? 弟よ」
幼い時、見て以来だった。瞬がニッコリ笑ったのを。そして瞬は、ママチャリを下りずに、レースへ向かった。
「スカイアロー青矢、死の本能に魅せられた観客どもが、楽しみに待っている」
「だったら、レースで、教えるしかない。死の恐ろしさを」
「妹と母さんがおまえに会いたがっている。今度、ムール貝が旨い地中海のレストランで、食事でもしよう。さあ、レースの時間だ」
恭四郎が腕時計を指さし、虚空を見つめながら瞬と同じレースへ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます