約束。part1

 昨日と同じ廊下を歩いて、地下室へと降りる暗い階段の前に立つ。


「今日はこれを飲まなくて大丈夫?」

 

 先生がこちらを振り返り、にやりと笑いながら小棚の引き出しから茶色の小瓶を出す。


「いいえ、今日は……結構です」


 この目でしっかりと確かめると決めたのだ。何があっても、僕は正気で現実を受け止めなきゃいけない。

 

 そう、と先生は小瓶を棚に起くと、そこに置かれていた手持ちの燭台に火を灯し、それを手に地下へ降りていく。

 

 ギシギシと軋む階段を無言で降り、その先にある木の扉の前に立つ。


「開けるわね」

 

 暗い背中をこちらへ向けたまま言い、扉を開けて中へと入る。

 

 僕は先生の茶革のブーツのかかとだけを見るようにしながら部屋へと入って、そして――意を決して顔を上げる。すると、


「……あれ?」

 

 そこにあったのは――一挺(ちよう)のバイオリン。


 その他にはほとんど一切、何もない、ガランとした部屋。その奥の壁に一つ、それが寂しくポツンと立てかけられてあるのだった。


「これは……」

 

 きのう自分が見た光景とは、何もかもが違っている。

 

 あれから部屋を片づけた? いや、そんなのは無理だろう。そもそも昨日見たこの部屋は壁も床も石造りだったし、排水溝まであったはずだ。一晩でそんなものまでなくすなんてことは不可能だ。

 

 それに、あの立ちこめる悪臭もさっぱり消えている。料理で脂っぽい肉を焼いた後でさえ、そのニオイが消えるのに数日はかかるのに……。何か薬品を使って掃除をしたとも考えられるが、そんなニオイも全くない。するのは、地下室特有の少しカビっぽいニオイだけだ。


「ロッジくんは、私のことを『完璧な人』って言ったよね?」

 

 部屋の壁に二つあった燭台に火を移しながら先生は言う。


「そう言ってもらえるのは嬉しいな。だって、私はみんなからそう思われるために、『私』を演じているんだから」

「『演じている』……?」


 そう、と先生はどこか苦笑するように微笑む。


「もしロッジくんが『本当の私』を見たら、きっとガッカリするんじゃないかな。私、これまで勉強と仕事ばっかりしてきた人間だから……本当はもっと暗くて、人とのつき合い方も解らない人間なのよ」

「先生が……? 想像できません。僕の知ってる先生は、いつも明るくて、優しくて、この街のみんなに好かれていて……」

「私、勉強は得意だから。だから、どうすれば人に好かれるかを色々勉強したの。今はそれを実践しているだけ」

 

 そう言って、くすりと微笑む。だとしたら、今のその笑顔は……? その笑顔も作り物なのだろうか? 

 

 先生は手に持っていた燭台を床に置き、代わりにバイオリンをその手に持って、


「でも、そうしているとストレスが凄く溜まるでしょう? だからそういう時は――」

 

 突然、バイオリンを構え、それを弾き始めた。

 

 優しい音色ではない。ありったけの力を込めたような、弦が弾け飛ぶのではないかというような荒々しい演奏だった。


 一瞬の猛烈な嵐。そんな演奏を終えて、確かに先生の顔はどこか晴れやかだった。


「こうやって、メチャクチャに演奏するの。ここでなら近所の人にも迷惑にならないし、私が実はこういうことをしているってこともバレないしね」

「そ、そうだったんですか……」

 

 演奏の迫力、そして垣間見た気がする先生の苛立ちの感情に、僕は思わず圧倒される。


 先生はバイオリンを再び壁に立てかけると、燭台を再び手に持ち、いつもの柔らかな微笑で尋ねてくる。


「ところで、キミは昨日、ここで何を見たの?」

「え? あ、はい、ええと……血だらけの部屋を」

「血だらけの部屋?」

 

 先生はギョッとしたように目を丸くする。僕は頷いて、


「僕は本物を見たこともないですけど、たぶん拷問部屋とか、そんな感じの部屋でした。部屋の真ん中には死体があって、壁にはノコギリとかが掛けられていて……床は血みどろでした」

「ふ、ふぅん……。つまり、キミは私がそういうことしてるかも、って思ってたんだ」

「い、いやいや! そんなことは全く――」

ぷっ、と先生は吹き出して、

「ごめんなさい、少しからかっちゃった。実は昨日、キミに飲ませたのはね、幻を見せる薬なの。それも、悪夢みたいに不快な幻を、ね」

「そ、そう……だったんですか? でも、どうして……?」

「キミを確かめるため」

 

 微笑んでいた目を不意に真剣にして、僕を見つめる。


「キミはきのう言ったわよね?『あなたみたいな完璧な人なんて本当にいるのか。きっと何か、人には言えないような秘密があるはずだ』って」

「……はい」

「そう言って私に寄ってくる人はね、これまでにもたくさんいたの。どんな目的だったのか、それは人によってそれぞれ違ったんだろうけど……でも、昨日、キミにやったように薬を飲ませて怖がらせてみたら、すぐにみんな私から離れていっちゃった」

 

 それは……そうだろう。他の人もあんなものを見てしまっていたとしたら。

 

 先生は壁に背をもたせかける。その顔には悲しげな微笑が浮かんでいた。


「所詮、人間なんてそんなもの。『あなたの秘密を知りたい』って言っておいて、いざそれを知ってみたら、本気で受け止めることなんてしようともしない。誰も彼も、ただ野次馬のように私に興味を持っているだけ。……本当の意味で、私という人間に興味があるわけじゃない」

「…………」

 

 先生は……そんなことを思っていたのか。

 

 誰も信用できない。誰とも解り合えない。だから誰にも隙を見せず、『完璧な私』を演じる。それが、僕がずっと見ていた先生の姿だったんだ……。


「でも、ロッジくん、キミは違ったね」

 

 先生は壁から背を離して、僕へとゆっくり歩み寄ってくる。

 

 そして、僕のすぐ目の前で立ち止まる。

 

 先生は僕よりも頭一つぶん、背が高い。だから、先生の大きな胸の前、そして僕のちょうど目の前で、燭台の火が明るく揺れる。


「キミは、それでも私を理解しようとしてくれた。私を……信じてくれた。そんな人は、キミが初めてだったのよ」

「ぼ、僕がですか? エミールさんは……?」

「エミールさん?」

「先生とエミールさんって、なんというか、その……特別な仲、なのかなと……」

 

 へ? と先生は目をパチパチさせて、それから小さく吹き出す。


「それは誤解よ。私たちはそんな関係じゃなくて……うーん……まあ……仕事の関係? かしらね?」

「そ、そう……だったんですか……」

 

 拍子抜けして力が抜けたような、あるいは安心してドッと疲れが押し寄せてきたような、そんな気分で僕は息をつく。


 と、先生はくすりとからかうように笑う。


「ロッジくん……もしかして安心してるの?」

「え? い、いや、そんな……!」

「キミは、勇気を出して自分の秘密も教えてくれたよね。そんなキミに、私の秘密をもう一つ教えてあげようかしら。キミならきっと秘密にしてくれるし……それに、『秘密の重さ』は平等にしないといけないものね」

「秘密をもう一つ……? い、いいんですか?」

 

 さっき秘密を教えてもらって、それでさえ僕は先生とある種『特別な仲』になれたのに、さらにもう一つの秘密を? そんな――そんな幸せがあっていいんだろうか? もしかして、僕はまた夢を見ているんじゃないのか?


「実はね、私……」

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