花言葉。
仕事が片づいた夕方、今日はこっそりとリナの目を盗んで家を出た。一応、『届け忘れがあったから配達に行く』と書き置きはしておいたけど。
アネモネ先生の診療所へ行くと、先生は今日も一人でそこにいた。挨拶をして中へと入って、昨日と同じようにベッドに腰掛ける。そして一通りの問診を受けたが、正直、もう気分の悪さなどすっかりなくなっていた。
「特に問題はないみたいでよかったわ」
先生はいつもと同じく花のように微笑んで、机の上に置かれていた茶色の小さなガラス瓶を僕に差し出した。
「でも、一応これを飲んで。頭痛に効く薬だから」
「……あ、ありがとうございます」
一瞬、思わず躊躇ってしまったが、それを受け取る。そして、少しの間を挟んでから――僕は尋ねた。
「あの、先生……」
「何?」
「昨日、僕はあの後一体……?」
「『あの後』って?」
「先生に地下室に案内してもらった後です。あれから後のことを、僕はよく憶えていなくて……」
先生は――心の裡で何を思っているのだろう。
静かな、僕の心をじっと見つめるような目でしばしこちらを見つめて、それから言った。細い、微かに震えるような声だった。
「……私のこと、嫌いになった?」
「え?」
「きのう見たものが……ショックだったのよね?」
「と、ということは、やっぱりあれは夢じゃなくて……!」
「どうするの?」
強ばったような表情で先生は言う。
「色んな人に言いふらす? あの人は実はこんなことをしているんだって。あの人はみんなが思うような人じゃないって」
「そ、そんなことしません!」
思わず叫んでしまう。が、咄嗟に出た嘘というわけではない。
「秘密は秘密です。先生は僕が秘密を教えた代わりに、自分の秘密も教えてくれたんです。なのに、それを裏切るようなことはしません。それに、僕はアネモネ先生を信じてます。先生があんなことをしているのも……きっと何かちゃんとした理由があるはずです」
僕は必死に、祈るように言う。
しかし、先生の硬い表情が変わることはなかった。温度のない、平淡な声で言う。
「どうしてそう言えるの? あなたは私のことなんて何も知らないのに」
「それは……そうです。でも、僕は知っています。あなたは絶対に優しい人です」
「だから、その根拠は?」
「花です」
「花……?」
ふっと、先生の表情から力が抜けた。
そのキョトンとした円らで大きな瞳を、僕は強く見つめ返す。
「花言葉を、先生はかなりよく知っていますよね?」
少し待ったが、問いへの答えはなかった。沈黙を肯定とみなして僕は続ける。
「ハルジオン」
追想の愛。
「ノースポール」
愛情、生まれ変わり。
「ビバーナム」
私は誓います。
「アイリス」
よい便り、希望。
「アキレア」
真心、治療。
「ヒヤシンス」
悲しみを超えた愛。
「先生が気に入って買っていく花は、そういう花ばかりです。ひょっとしたら、誰かへのメッセージなんでしょうか……。それは解りませんが、でも、そういう想いを持って生きている先生が酷い人だとは、絶対に思えません」
「そ、そんなの、たかが花言葉なんかで……」
「確かに、それだけで根拠になるとは思いません。でも、僕はきのう一度あやふやに見たものなんかよりも、これまでずっと会って話をしてきた先生を信じます。それだけです」
「…………」
目を大きく見開いて、先生は僕を見つめる。
が、ハッとしたようにその目を伏せて、何か迷うような表情で視線を床に泳がした。そして、やがて何か決意したように、射るような強い瞳をこちらへ向けた。
「じゃあ、もう一度、ちゃんと確かめてみる? 昨日、あなたが見たものを」
「え……」
「やっぱり怖い?」
「は、はい、正直に言うと……。でも、お願いします。僕は、あなたのことがもっと知りたい。何をしているのか、何を考えているのか……ちゃんと話を聞きたいんです」
「……そう」
先生は静かに席を立った。
「解ったわ。じゃあ……ついてきて」
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