混乱。
「えぇーっ!? 本当に行かなかったんですの!?」
午前中の、まだ昼まではいくらか時間があるという頃合い。いつもの幼なじみメンバー四人が、店の前で輪を作って話している。
大きな声を上げたオデットちゃんを、ノエルちゃんが冷ややかな目で見る。
「師匠(マスター)が断ったほうがいいって言ってたじゃない。あなた、昨日のことももう忘れたの?」
「忘れてませんわよ! ただ、その……やっぱりもったいないように思えて……」
「ううん、いいの」
今日もメイド服姿のユーノちゃんは、どこか寂しげな笑みを浮かべて顔を横に振る。
「あれから自分でも考えてみたけど、やっぱり会ったこともない人の所に一人で行くのは怖いから……。だから今回はやめておこう、って」
「それでいいと思う」
と、リナ。
「ユーノは強く押されたら、相手がどんな人でも流れで頷いちゃいそうだし」
「う、うん、わたしもそんな気が……。――あ、師匠(マスター)!」
ユーノちゃんは照れるように笑ってから、パッと横を向いて叫んだ。
「おはよう、みんな。今日も元気ね」
と、市場のほうからではなく診療所のほうから、アネモネ先生が軽やかに白衣をなびかせて現れた。今日はこれから市場に行くところなのだろう、その両手はまだなんの荷物も抱えていない。
それからは、またいつもと同じくアネモネ先生の恋愛相談会が始まる。
僕はその様子を、薄暗い店内からぼんやりと幽霊のように立って眺めていた。
だが、眩い光の中で清らかに微笑む先生や、彼女を囲む無邪気な少女たちを見ていると、不思議なほどにスッと胸が軽くなってきた。
――そうだ……そうだよな。先生が本当にあんなことをしてるはずがない。あんなのはただの悪夢だ。
そういえば、僕はあの地下室に降りる前、お酒みたいな薬を先生に貰って飲んだじゃないか。きっとあれのせいだ。あれを飲んで調子が悪くなって、それで変な夢を見たんだ。そうに違いな――
「おはよう、ロッジくん」
「うわっ!?」
気づくとすぐ傍に先生の顔があって、僕は危うく傍の花瓶を倒しそうになる。
先生も驚いたように目を丸くして、
「ど、どうしたの、ロッジくん? 大丈夫?」
「え? あ、ああ、はい、大丈夫です! 大丈夫、大丈夫……」
気づけば、店の前から少女たちの姿がなくなっている。僕は一体どれだけの時間、ぼーっとしていたのだろう。
だが、いま驚いたのはそれだけが理由だっただろうか。僕はなぜだか自然と一歩、二歩と先生から身を引いてしまいながら、
「あ、ええと、その……こちらこそおはようございます、アネモネ先生」
「『こちらこそ』……? ふふっ、どうしたの、ロッジくんったら。変な挨拶」
「え? あ、あはは、すみません……。――あ、そういえば先生、昨日はすみませんでした。僕、先生の診療所に行って……何か迷惑はかけませんでしたか?」
「迷惑? ううん、そんなことは何もなかったけど……?」
先生は不思議そうに言う。その目に全く嘘の色はない。
「そうですか。実は僕、昨日のことをよく憶えてなくて……」
「そうなの……? ああ、それなら、これから少し、うちに来てもいいのよ。何か気分が良くなる薬を――」
「い、いえ、結構です!」
咄嗟に拒否してしまう。
瞬間、きのう目の前にしたものが鮮明に脳裏に蘇る。燭台の火に照らされる死体と血、部屋に充満した生臭さ、そして先生の冷たい微笑……。
思わず吐き気を覚えて、僕は口元を押さえる。
「……そう」
先生は平淡にそれだけ言うと、くるりとこちらへ背を向けて歩き出し、肩越しにこちらへ微笑む。
「じゃあね、ロッジくん。……お大事にね」
なんていうこともない、別れの挨拶。
だが、そう告げて店を出て行く先生の後ろ姿は、どういうわけか、まるで遠くへ行ってしまう人のそれのように見えた。
店を出て行ったら、そのまま外の光の中に消えていってしまうんじゃないか……。そんな強烈な予感が、なぜか確信のように僕の胸を打った。
突き動かされたように、僕は先生の腕を掴んでいた。
「先生! やっぱりお願いします!」
「え……?」
こんなことを言われるとは思いもしなかった。そんな顔で先生は僕を見る。
「急な仕事が入らなければ、たぶん昨日と同じくらいの時間に行けると思うので……よろしくお願いします」
「そ、そう……? じゃあ――」
「おい」
不意に横からグッと腕が伸びてきて、先生の腕を掴んでいた僕の手首を掴み上げた。まるで握り潰されるような強い力だった。
いつの間にかやって来ていたエミールさんが、冷たく鋭い目で僕を睨んでいる。
「先生に何をしている」
「い、いえ、僕は何も……」
すぐに手は放してくれたが、痛みの残る手首をさすりながら僕は一歩退く。
やれやれと言った様子でエミールさんは嘆息して、
「先生はいま色々と大変で、子供の相手をしている暇はないんだ。あまり先生を困らせるんじゃない」
静かだが抑え込むような口調でそう言うと、「先生、お話が」と先生を店の外へ連れて行き、そのまま二人連れだって診療所のほうへと歩いて行った。
僕はなぜ、先生の家にもう一度行くと約束をしてしまったのだろうか。
エミールさんは、先生の何を知っているのだろうか。
そしてやはり、あの二人は特別な仲にあるのだろうか。
戸惑いや驚き、疑念や不安……。様々な感情が頭の中を行き交って混乱し、僕はただなすすべもなく石像のように立ち尽くしたのだった……。
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