僕の秘密、先生の秘密。part1

 アネモネ先生の診療所は、僕の家から歩いて五分ほどの所、やや街外れの林に面した通り沿いにある。


 先生がここに住むようになるまでは数年、空き家であった家で、僕の生まれる前からあったはずだから、割と築年数は経っていると思う。


 でも、壁の塗り替えをしたり屋根の張り替えをしたり、先生らしく丁寧に家を扱って住んでいるから、家の雰囲気にボロ臭さなんて感じない。


 むしろ、うちで買ってくれた花や、オーダーメイドで注文したのだろうネームプレートや燭台がセンス良く飾られていて、さながら洒落た喫茶店か何かのよう。夕暮れの薄闇の中でふんわりと明かりを灯すその家の佇まいは、まさに先生自身のように温かく美しい。


 そんな診療所の前に立って、ドアをノックする前にこっそり窓から中を覗いてみると、机に向かっている先生の姿は見えたが、誰か患者がいる様子はない。今なら落ち着いて先生と話せそうだ。


 ふぅ、と一つ深呼吸をしてから、


「す、すみません……」

 

 ノックをして、少しだけ扉を開ける。

 

 梁から観葉植物が吊されていたり、ステンドグラスのように色とりどりのガラスを使った綺麗な燭台が置かれていたり、外観と同じくオシャレで綺麗な診察室だ。しかしちゃんと診療所らしく、消毒液のニオイがつんと満ちている。

 

 机で何か書き物をしていた先生は少し目を丸くしながらこちらを見て、


「あら、どうしたの、ロッジくん?」

「あ、その……トゲで、指を指してしまいまして……」

「トゲで?」

「はい……。あ、でも、ただのトゲでも甘く見ないほうがいいんです! 毒がないトゲでも、たまにかなり手が腫れることがあるので!」

「え、ええ、そうね……」

 

 マズい。リナに言わせれば、『必死でキモい』感じを出してしまったかもしれない。落ち着け、僕。そうだ、まずは。


「あ、あの、これ……どうぞ」

 

 言いつつ先生に歩み寄って、背後の左手に隠して持っていた花――紫色の鮮やかなリモニウムの小さな束を差し出した。

 

 先生は目をパチパチ瞬かせて、


「え? これって……」

「先生が今朝、見ていた花です。どうぞ、差し上げます。あ、でも、気にしないでください。ちょうど売れ残ってしまったので持ってきただけですから……」

「そ、そう? それなら、いただいちゃおうかしら……」

 

 ありがとう、と先生はどこか遠慮がちにそれを受け取って、それから僕の右手に目を留める。


「トゲが刺さってしまったのはそっちの手ね? じゃあ、そこに座って」

 

 はい、と僕は先生に勧められた、机の傍に置かれているベッドに腰掛ける。


「トゲは……もう抜いてあるのね」

 

 早速、治療が始まり、先生の細い指が僕の手に触れる。

 

 それだけでドキリとしてしまうのに、こちらへ顔を寄せた先生から甘い花のような匂いが漂ってきて、思わず心臓がドキンと高鳴る。

 

 その長い睫毛が、薄紫の瞳が、さらりと流れる金色の髪が、透き通るように白い肌が、形の整った唇が、大きな胸のふくらみが、僕からことごとく平常心を奪っていく。考えていた会話の段取りなんて、もう真っ白に弾け飛んだ。


 何も言葉が出てこない。

 

 先生の温かい指が僕の手に触れるその感覚にただ呆然としているうちに、


「はい、これで大丈夫よ」


 先生が僕の指に包帯を巻き終えて、包帯とハサミを机の引き出しにしまう。


「でも、念のため今日はその手を水につけたりはしないようにね」

「は、はい。じゃあ、えーと、お代は……」

「いいわよ、お金なんて。リモニウムを貰っちゃったし」

 

 と、先生は机の上で横たえられている花をちらと見ながら言う。


「いえ、でも、そんなわけには――」

「いいのよ、そんな固いことを言わないで。私たちは友達でしょ?」

 

 ――友達……。


 そう言ってもらえるのは嬉しい。でも、なぜだろう。その言葉の響きが、無性に僕の胸には悲しく響いた。


「どうしたの、ロッジくん? まだどこか悪い所があるの?」

 

 治療が終わってもまだベッドから立ち上がらずいた僕に、先生が怪訝そうに尋ねる。

 

 ――訊きたい。


『先生は、エミールさんとつき合っているんですか?』

 

 その問いが胸までせり上がってきているがしかし、喉に大きな石でも詰まっているように、何も言葉が出てこない。

 

 でも、ダメだ。ここで黙り込むのはあまりにも不自然で奇妙だ。先生も不審に思うに違いない。何か喋らないと。


「あ、あのっ!」

「えっ? は、はい」

 

 固く閉じていた喉を開くために、場違いに大きな声を出してしまった。先生を驚かせてしまって申し訳なかったが、ここはこの勢いのまま喋るしかない。


「せ、先生の好きな食べ物はなんですか?」

「好きな食べ物? そ、そうね、何かしら……? 例えば、ユーノちゃんの家のクリームパンとか……?」

「そうなんですか。ぼ、僕も好きです、あのパン」

「そ、そう、それは奇遇ね」

「……………………」

「……………………」


 空気が止まったような静寂。


 完全に、会話が詰まってしまった。

 

 ……ダメか。

 

 これ以上は無理だ。僕はもう、この空気に耐えられない。


「すみません。じゃあ……」

 

 言って、僕は先生と目も合わせられないまま玄関へと向かう。だが、

 

 ――いや、違う。そうじゃないだろ。

 

 扉の前で立ち止まる。


 今を逃してはいけない。そう決意して、僕はここに来たんじゃなかったか?


 ここで腹をくくらないと、僕はきっとこのさき一生後悔する。もしここで何も言わないまま出て行って、そのまま年を取ってヨボヨボのおじいさんになって、もう命も今日か明日までかというふうになったら、きっと今この瞬間を苦々しく思い出すに違いない。


『もしもあの時、勇気を出して踏みとどまっていたらどうなったろう』と。


 そんなのはあまりにも惨めだ。それまでの人生がどんなに幸せだったとしても、それは空虚な幸せだ。僕は自分の人生を後悔で終わらせたくない。しがない花屋にだって、ちゃんと意地とプライドはあるんだ。


「あの、実はっ」


 僕は意を決して先生を振り返る。


「ぼ、僕……魔道具を隠してるんです」

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