第二十八話

 クリスは、あれから色々な事を考えた。

 そして、過去の自分を責めて、今の自分も許せなくなる。

 クリスは、抜け出せない底なし沼にでもはまっているような感覚に襲われていた。


 当時のクリスは、毎日繰り返される現実に心をけずられ、あらがう気力もなくなっていた。

 だから、クリスは店長に飼われたくない一心で抵抗していたはずなのに、いつしか、命令に従うだけの都合のいいペットになっていたのだ。

 クリスの自尊心は踏みにじられ、ボロボロにされた。


 どんなに反発したところで、まだ幼い子供に出来る事など限られている。

 来る日も来る日も、汚い言葉でののしられながら、心と体に刻み込まれるのだ。

 なかば洗脳のような形で、自分で自分をさげすむようになって行ったのも無理からぬ事であった。


 本来、クリスは負けず嫌いだし、自分なりのプライドもある。

 例え、それが敵わない相手だったとしても、自分がひざくっする事など絶対に許せない。

 だから、犯される事よりなにより、店長に従うしかなかった自分が、酷く汚くみじめな存在に思えた。

 誰にどれだけ否定されようと、その気持ちだけは、クリスの中に根ざして、ぬぐい去る事が出来ないのだ。


 クリスは、この事をレイにすら言う事が出来なかった。

 けれど、それが根本にあるトラウマであり、現在クリスを苦しめている元凶なのだ。

 それをなんとかしない限り、今の苦しみから逃れる事は出来ない。

 クリスも、そんな事は百も承知だったが、自分の過去を誰かに知られるのは嫌だった。

 しかし、それと同じくらいに、誰かに聞いて欲しいと願っていたのも事実だ。

 それでも、それを誰かに言う事は、クリスにはどうしても出来なかった。


『助けて』


 クリスは、仕事が終わると、残り少ない安定剤を飲む。

 それから、シャワーを浴びようとバスルームに入る。

 しかし、体を綺麗に洗い、シャワーを止めようとしたところで、また過去の記憶が浮かんで来た。

 クリスは、シャワーを流したまま耳を塞いで床にうずくまった。


『助けて』


 その日、ダグラスは仕事が忙しく、部屋に帰った時には、もう夕飯の時間を回っていた。

「ただいま」

 ダグラスは、いつものように挨拶をするが、部屋にいる筈のクリスの姿が見当たらない。

「クリス?」

 部屋を見回していると、バスルームから水音がする事に気付いた。

「ただいま」

 ダグラスは、バスルームの扉を軽くノックする。

 しばらく待っても返事がない。

 シャワーの音で聞こえないのだろうと思い、もう一度、声をかける。

「クリス?」

 しかし、随分ずいぶんと待っているのに、クリスは一向に出て来る気配がない。

「開けるぞ」

 ダグラスが声をかけて扉を開けると、そこには床にうずくまるクリスがいた。

「クリスどうした? 大丈夫か?」

 ダグラスは、スーツが濡れるのも構わずバスルームに入ると、シャワーを止めてクリスを抱きしめた。

「クリス。私の声が聞こえるか?」

 クリスは、抱きしめられた腕の温かさに気付いて顔をあげる。

「社長?」

 ダグラスがクリスの手を取ると、指先がふやけていた。

「いつからこうしていたんだ?」

「分からない」

 クリスは、ぼんやりと視線を彷徨さまよわせた。

「とりあえず、部屋に戻ろう」

 そう言うと、ダグラスは、クリスの体をバスタオルで包んだ。


 ダグラスは、クリスをタオルで乾かすと、自分も濡れた衣服を着替える。

「自分で歩けるか?」

 たずねられて、クリスはうなずく。

 クリスの意識は、ダグラスが見かけた時よりもハッキリしているようだった。

 ダグラスは、クリスをうながしてベッドの端に座らせると肩にバスローブをかける。

「疲れただろう」

 ダグラスは、ポットから温かいお茶を注いでクリスに手渡した。

「ありがとう」

 クリスは、ぎこちなく笑ってコップを受け取ると、ゆっくりと口に運んだ。


「最近、ずっと様子がおかしいが、何かあったのか?」

 ダグラスは、クリスの隣に座って肩を抱く。

「何もないよ」

 しかし、クリスの様子は何もないようには思えなかった。

 ダグラスは、クリスが話せるようになるまで待っておこうかと思っていたが、とてもそんな悠長ゆうちょうな事を言っていられる状態ではない。

「何があったか話してくれ」

「何もない」

 クリスは、答える事をこばんで首を横に振った。

「クリス!」

 ダグラスは、なにも話そうとしないクリスにれて、思わず大きな声を出してしまった。

 それに驚き、ダグラスは慌ててトーンダウンする。

「すまない。私に話してくれないか?」

 ダグラスは、咳払いをしてから、クリスの顔をのぞき込む。

「今日は話してくれるまで、諦めないからな」

 クリスは、ダグラスの顔をぼんやりと見返した。

「クリス。話してくれないか?」

 クリスはうつむくと、数回、首を横に振った。

「何があったんだ?」

 しばらく、間を開けるが、クリスは答える気配がない。。

「何があったか話してくれないか?」

 ダグラスは、先程から同じ質問ばかりを繰り返して、まともに質問が出来ない自分に苛立いらだちを覚えた。

 その時に、ふと、ヴィクターの事が頭に浮かんだ。

「入院してみるか?」

 その言葉に、クリスは敏感に反応すると、ダグラスの胸元を掴んだ。

「それは絶対に嫌だ」

 ダグラスは、クリスの手を優しくほどく。

「じゃあ、答えてくれるか?」

 クリスは、しばらく考え込んだ。

 そして、おもむろに口を開く。

「昔の事を考えていた」

 クリスが話してくれた事に、ダグラスはホッとする。

「それはどんな事だ?」

「嫌な事」

 ダグラスの問いかけに、クリスは即答した。

 それを聞いて、ダグラスは更に踏み込んだ質問をする。

「どんな嫌な事か教えてもらえないか?」

「話したくない」

 しかし、話しはじめたと思っても、結局クリスは黙り込んでしまった。


 それからしばらくしてから、クリスはダグラスの胸にしがみついて来た。

「今日はね。誰かに抱かれたかったけど我慢したんだ。褒めてくれる?」

 褒めるまでもなく、それは当然の事なのだが、クリスにとってはそうではない。

「よく我慢したな」

 ダグラスは、クリスの頭をでる。

「こんな自分が嫌になる」

 クリスは、ダグラスの胸に顔を埋めた。

「薬を飲むか?」

 クリスは、顔を埋めたまま首を横に振った。

「もう、飲んだし、残り少ないからやめとく」

「もう、受診日だったか?」

 ダグラスは、腕を伸ばして薬の袋を手に取った。

 まだ一週間分残っている筈の薬が、後、数錠しか残っていない。

「無茶な飲み方をしていたんじゃないだろうな」

「時々、たくさん飲んでいた」

 劇薬ではないとは言え、この様子では、クリスに薬の管理をさせるのは危険だ。

「受診の予約は早めて貰うとして、次からは薬の管理は私がするな」

 クリスは、少し考えてから頷いた。


 ダグラスは、クリスをそっとベッドに寝かせた。

「良いか?」

 聞かれて、クリスは目をそらす。

「嫌なら無理強むりじいはしないが」

 クリスは首を横に振る。

「違う。そうじゃない」

「じゃあ、どうしたんだ?」

 クリスは少し考えてから口を開く。

「僕が汚いからと言ったら、社長は怒る?」

「怒りはしないが、否定はするな」

 そう言って、ダグラスはクリスの顔を覗き込んだ。

 クリスは、その視線から逃れるように、顔を背けてから答える。

「なにも話せなくて、ずっと社長をだましているのが本当に嫌だ」

「騙されておくから、問題はないと言っただろう?」

「僕はその言葉に縋って生きている。でも、そうじゃないんだ。これは僕の問題なんだ」

 珍しく強い調子のクリスの言葉に、ダグラスは困惑する。

「こんな自分が、嫌で堪らない」

 クリスは、両手で顔を隠した。

「消えたい」

 ダグラスは、クリスの手を無理矢理開かせる。

「なんでそんな事を言うんだ!」

 責めてはいけないと知りつつも、ダグラスは、強い調子で言わずにはいられなかった。

「私はそんなに信頼出来ないか?」


『レイになら、言えるのか?』


 ダグラスは、のどまで出かかった言葉を飲み込む。


「社長の事は、信頼してるよ。それでも言いたくないんだ。社長だって僕に言えない事くらいあるでしょ?」

 ダグラスも、クリスに言っていない事はたくさんあるが、会社の機密事項以外で、何か言えない事があるだろうかと考える。

 そこに、クリスが温度の感じられない声で、予想外の事を言って来た。

「セドリックをどうやって抱いていたか、僕に言える?」

 ダグラスは、きょをつかれて驚いた。

「どういう意味か、よく分からないんだが」

 その声には、戸惑いと苛立ちがこもっていた。

「ほら、社長にだって、僕に言えない事がある」

 クリスは自嘲気味じちょうぎみに笑う。

 しかし、それは、クリスが質問と見せかけて、ダグラスに投げかけた、助けを求める必死の叫びだった。

 その言葉は暗に、クリスが言えないでいるのが、過去の肉体関係の事だと指し示していた。

 それに気付いて貰えたなら、クリスは少しでも伝える事が出来たのかも知れない。

 けれど、それがダグラスに届く事はなかった。

「セドリックの事が、今回の話とどう関係があるんだ?」

 ダグラスには、クリスが話をそらそうと、無理な質問をして来たようにしか思えなかった。

 その言葉に、クリスはつらそうに目を閉じる。

「僕は、社長と喧嘩けんかしたかった訳じゃないんだ。ごめん」

 ダグラスには、クリスの質問の意味は分からなかったが、自分の態度がクリスをさらに追い詰めた事は分かった。

 ダグラスは、大人げない事をしたと思い酷く後悔した。

「クリスすまない。怒った訳じゃないんだ。私が悪かった。すまない」

 クリスは、目を閉じたまま苦しそうにくちびるむ。

 唇から赤い筋が流れた。

「クリス口を開けるんだ」

 ダグラスは、クリスの口を開けさせると、流れる血を舌でめてそっと口付けた。


「抱いてもいいか?」

 ダグラスには、今にも消えてしまいそうなクリスをつなぎ止めておく方法が、他に思いつかなかった。

 例えこばまれたとしても、ダグラスは、無理矢理にでもクリスを抱こうと思いベッドに上がった。

 その時、クリスが苦しそうな声でダグラスに告げる。

「何も言えないけど、でも、助けて欲しいんだ」

 ダグラスは、自分を落ち着けるように、一呼吸おいてからクリスの髪を撫でた。

「何かあったら、いつでも甘えてくれ。私に出来る事ならなんでもするから」

 ダグラスは、クリスが自殺未遂をした後もこんな感じだったと思い出した。

 酷く追い詰められているのが、手に取るように分かる。

 しかし、なにも出来ない無力感に、ダグラスは打ちのめされた。


『私では、何も出来ないと言うのか』


 ダグラスは、クリスをきつく抱きしめた。

 クリスは、ダグラスの背に腕を回す。

「社長、抱いて」

「クリス」

 ダグラスは、名前を呼ぶと、抑えきれない衝動のままにクリスを抱いた。

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