第二十七話(後編)

 クリスは、インターホンの音で現実に引き戻された。


『荷物をお持ちしました』

「入って」


 届いた荷物を開けてみると、中にはこの前ダグラスが選んでくれた服が入っていた。

 クリスは、服を広げて持ち上げてみる。

 それを体にあてると、クリスは珍しく姿見の前に立ち、鏡をまじまじとのぞき込んだ。

 クリスにとって、自分の容姿などはどうでも良かったが、この服を着た自分が、ダグラスにどう映るのか気になったのだ。

 そこで、クリスは、ひとまずシャワーで体を流してから、早速、服にそでを通してみる。

 そして、姿見の前でボタンをひとつづつ留めながら、ダグラスの言葉を思い出す。


『ボタンを外す楽しみが増える』


 クリスは、その時の事を思い出して、口元に笑みを浮かべた。


 この日、ダグラスはいつもより早く部屋に戻って来た。

 クリスはドアが開くと同時に、椅子を回転させてダグラスの方を振り向く。

「おかえり」

「ただいま」

 ダグラスは、クリスに挨拶をすると、持っていた箱をテーブルに置いた。

 その後、ダグラスが何か言おうと口を開きかけるが、クリスは続く言葉を待たず、真剣な顔で告げる。

「社長は僕に居場所をくれた。絶対に手に入らないと思っていた幸せをくれた。だから、社長にはいくら感謝してもしきれないんだ」

 唐突に言われて、ダグラスはなんと答えていいか戸惑う。

 そもそも、脈絡みゃくらくがなさ過ぎて、何故なぜこんな事を言い出したのかさえ分からなからないのだ。

 ダグラスは、考えあぐねて曖昧あいまいな笑みを浮かべる。

「そうか」

 ダグラスは、それだけ言うと、クリスの髪をそっとでた。

 すると、クリスはダグラスを見つめたまま礼を言う。

「ありがとう」

 しかし、ダグラスには、クリスが何を考えているかなど、分かるはずもない。

 礼を言われて、ダグラスは更に困惑した。

 クリスは、軟禁状態で暮らしている。

 どう考えても、この不自由な生活が幸せとは思えない。

 ダグラスは、クリスの言葉に胸が痛んだ。

「すまない」

 ダグラスは、いたたまれなくなって、クリスに謝罪の言葉を述べる。

「なんで謝るの?」

 クリスは、不思議そうに首をかしげた。

 ダグラスは、何もかける言葉が浮かばない。

 その代わりに、ダグラスは、クリスを抱きしめようと手を伸ばした。

 そして、もう少しで指が触れると言うところで、クリスは逃げるように椅子から立ち上がった。

 ダグラスは、クリスを驚いたように見る。

 しかし、クリスは、ダグラス以上に、自分の行動に驚いていた。

 そもそも、クリスは逃げるつもりなどなかったのだが、自分の意に反して体が動いてしまったのだ。


『僕は汚れている』


 クリスは、何度、違うと言われても、その思いを拭い去る事が出来なかった。

 そして、先程まで過去の記憶にとらわれていた事で、その思いは今まで以上に強くなっている。

 クリスも、いつまでもそんな事を言っていては、ダグラスに迷惑をかけるだけだとは分かっていた。

 だから、そんな態度を見せないようにしていたのだが、これでは誤魔化しようもない。


「クリス、こっちにおいで」

 そう言って、ダグラスが両手を差し出すと、クリスは戸惑いながらもその手を取った。

 ダグラスは、その手を握りし返すと、クリスの前にひざをつく。

 そして、ダグラスは心配そうにクリスの顔を見つめる。

「一体どうしたんだ?」

 ダグラスに聞かれて、クリスは居心地悪そうに顔を背けた。

「どうもしない」

 クリスは、そう言ったが、嘘をついているのはあきらかだった。

 それに、ダグラスには、クリスが自分との接触を避けるのがどういう時か分かっている。

「何かあったんだろう? 話してくれないか?」

 しかし、ダグラスの質問に、クリスは首を横に振る。

「何も、ない」

 クリスは、消え入るような声で答えた。


 クリスは二年もの間、店で体を売って働いて来た。

 経験人数など。百や二百ではすまない。

 そして、それらの客が望むままに様々なプレイをして来た。

 聞かれた事に答えるなら、その一端を話さなければならなくなる。

 しかし、クリスは、ダグラスにだけは、自分の過去を知られたくなかった。

 だから、口を閉ざすしかなかったのだ。


「とりあえず座ろう」

 ダグラスは立ち上がると、クリスをうながして一緒にベッドに腰かけた。

 そして、どう聞けばクリスが答えてくれるのか、慎重に考えて言葉を選ぶ。

「何か、つらい事を思い出したのか?」

 ダグラスが聞いても、クリスはうつむいたままで何も話そうとしない。

 しかし、ダグラスは、今までの経験から、クリスの気持ちは案外読みやすいという事に気付いていた。

 クリスが答えにくい事で否定も肯定もしない時は、肯定の場合がほとんどなのだ。

「良かったら、その時の事を話してくれないか? 一人で抱えるのはつらいだろう?」

 根気強くたずねるが、クリスはずっと黙ったままだ。

 こうなった時のクリスは、何があっても絶対に話さない。

 ダグラスは、聞き出す事を諦め、代わりにクリスに優しく話しかける。

「クリスに、何があったって大丈夫だ。私はだまされておくと言っただろう? 話したくないなら、話せるようになってから話せばいい。その時はいつでも聞くから」

 その言葉に、クリスは何度もうなずくいた。


 しばらくしてから、ダグラスはクリスに尋ねる。

「薬を飲んでみるか?」

「うん」

 ダグラスは水をむと、クリスの手のひらに薬を出す。

「ありがとう」

 クリスは、礼を言って薬をのどに流し込んだ。

「少し横になっておくか?」

 ダグラスに言われると、クリスは頷いてベッドで横になった。

 すると、ダグラスは自分の上着を脱いで布団の上にかける。

 けれど、その優しさが、クリスにはつらかった。

「ごめんなさい」

 クリスはいたたまれなくなり、顔を隠して謝る。うなが

「謝る必要はないだろう?」

 クリスは顔を隠したまま、二、三度首を横に振った。

「僕は自分の感情もコントロール出来なくて、社長に迷惑ばかりかけている」

「まだ子供なんだ。仕方ないさ。それに迷惑なんて思った事は一度もない」

「早く大人になりたい」

 クリスは、そう言って肩を震わせた。

「そのままで大丈夫だ。無理をする必要は何もない」

 ダグラスは、クリスの手にそっと自分の手を重ねる。

「顔を見せてもらえるか?」

「うん」

 ダグラスは返事を聞いて、クリスの手を優しくほどいた。

 クリスは笑顔を見せたが、まだつらそうなのが手に取るように分かる。

「無理しなくていい。なにかあったら、いつでも頼っていいからな」

 ダグラスはクリスが落ち着くまで、ずっと髪を撫で続けた。


 クリスが落ち着くと、ダグラスはテーブルの上に置いた箱を指さす。

「今日はお祝いをしたくて、ケーキを買って来たんだ」

「お祝い?」

 クリスは、不思議そうにダグラスを見る。

「クリス、十三歳の誕生日おめでとう」

「僕の誕生日覚えていてくれたんだ!」

 クリスは、驚いて目を見開いた。

「ありがとう」

 そう言って、クリスはダグラスの方に手を伸ばす。

 その手をダグラスは優しく包み込んだ。

「何をプレゼントしたらいいのか分からなかったから、変わり映えしないがケーキを選んだんだ」

 苦笑するダグラスに、クリスは首を横に振る。

「社長から貰えるなら、なんだって嬉しい。それに、ケーキは大好物だし」

 そう言って、クリスは嬉しそうに目を細めた。

「気分転換になるか分からないが、一緒に食べないか?」

 ダグラスに言われて、クリスはベッドから起き上がる。

 すると、ダグラスが促すように言う。

「開けてみるといい」

 クリスは、ケーキの箱を開けた。

 そして、箱の中身を見て、クリスの動きが止まる。

「気に入らなかったのか?」

 ダグラスが不安そうに聞くと、クリスは首を横に振った。

「嬉しすぎて死ぬかと思った。これ、社長がはじめて僕にくれたケーキだ」

 ダグラスは、そんな事とは知らずに買って来たので、少し決まり悪くなる。

「良かった」

 ダグラスは、ばつ悪そうに言って苦笑した。

「ありがとう」

 クリスは、嬉しそうにケーキを見つめながら礼を言う。

 しかし、クリスはいつまでもケーキを見ているだけで、一向に食べようとはしない。

 ダグラスはそれに焦れて、クリスに声をかける。

「食べようか」

「うん」

 クリスは、ダグラスに促されて頷いた。


 ダグラスは、クリスが今までの出来事を全て覚えているのは知っている。

 そして、それが、クリスが不安定な理由だと言う事も分かっている。

 しかし、つらい記憶も沢山あるだろうに、クリスがそれを表に出す事はあまりない。

 稀に、ダグラスに訴えかけて来る事もあったが、それは本当に耐えられなくなった時だけだ。

 その時も、クリスは訴えかけはするが、その原因を話す事は殆どない。

 つらければつらい程、クリスは口を閉ざすのだ。

 今回も話せない程つらい記憶だと言う事はダグラスにも分かった。

 だから、ケーキの話を聞いて、クリスの中にある記憶が、つらい物ばかりでないと言う事に少し安堵した。


「ご馳走ちそう

 食べ終わると、クリスはそう言って微笑んだ。

 ダグラスも、その笑顔を見て顔がほころぶ。

 それから、いつ言おうかと迷っていた事を言ってみる。

「服、似合ってるな」

 ダグラスはクリスが前に頼んだ服を着ている事に、部屋に入ってすぐに気付いていたが、なかなかタイミングが掴めずにいたのだ。

「ありがとう」

 クリスは褒められて、照れたように笑った。

「よく見せてくれないか?」

 ダグラスは、クリスのそばに行くと、両手を引いて椅子から立ち上がらせる。

「綺麗だ」

 ダグラスは、クリスを見て目を細めた。

 クリスは、普段ルーズな格好をしている所為せいか、きちんとした格好をすると本当に見違えるようになる。

 ダグラスが、しばらく見つめていると、クリスがおずおずと口を開く。

「社長。服、脱がせてみる?」

 そう言われて、ダグラスは心配そうにクリスを見た。

「いいのか?」

 ダグラスは、最初クリスが触られるのを嫌がっていたので、無理をさせているのではないと思ったのだ。

 しかし、クリスはなんでもないと言うように、悪戯いたずらっぽく笑う。

「だって、脱がすために買ったんじゃない」

 ダグラスは、クリスが冗談が言えるくらい元気になった事に、安堵あんどすると同時に苦笑した。

「脱がす為に買った訳ではないけどな」

 選ぶ時に、よこしまな考えが浮かんだのは確かだが、本来はクリスにきちんとした格好をさせたくて購入した物だ。

「どうする? 嫌?」

 心配そうに尋ねるクリスに、ダグラスは笑顔で答える。

「嫌な訳がないだろう。しかし、これじゃあ誰のお祝いか分からないな」

 ダグラスがそう言うと、クリスが抱きついて来た。

「違うよ。誕生日に僕が社長を貰うんだ」

「私で良ければいくらでもあげよう」


 ダグラスは、クリスを誘い、優しくベッドに寝かせる。

 そして、首元をくつろげるとネクタイを背中の方に払った。

「大丈夫か?」

 心配して、クリスに尋ねる。

「大丈夫」

 クリスは、照れたように答えた。

 ダグラスは、それを聞くと、クリスのシャツのボタンをひとつずつゆっくりと外しはじめた。

 そして、最後のボタンを外すと、クリスのシャツの前をはだけた。

 クリスの白い肌が顕になる。

「綺麗だ」

 ダグラスは、はだけた胸元に口付け体に指をはわせる。

 ダグラスの愛撫あいぶは、長くもなく短くもなく。

 いつも、クリスの心を解すように優しかった。


 そして、しばらくそうした後、ダグラスはクリスのベルトに手をかけた。

「クリス、どんな気分だ?」

 ダグラスは、クリスの耳元でささやく。

「社長に触られるの好きだよ。すごく気持ちいい。社長は?」

「私も同じ気持ちだよ」

 ダグラスは、クリスに口付けた。


 クリスは、ダグラスに抱かれる時は、演技をする必要がなかった。

 ダグラスに体を任せていれば、心の中心から感じる事が出来たのだ。

 それでも、時々息を吐くだけで声は出さない。

 声を出せば、それが全て演技になるような気がしたからだ。

『社長、大好き』

 クリスは、心の中だけで愛を告げる。

 口に出すと、全てが消えてしまいそうで、その一言を伝える事が出来なかった。


 二人は、行為の後の余韻よいんに浸って、軽い倦怠感けんたいかんに包まれていた。

 クリスは、ダグラスを優しい目で見つめる。

「社長は誰よりも優しい」

 そう言って、クリスはダグラスのほほに手を当てた。

「はじめて、社長が僕を抱いてくれた時、僕よりも社長の方がつらそうだった。それなのに、途中でやめないでいてくれた。なんの見返りも求めずに、自分を追い詰めてまで僕を抱いてくれた。あんなふうに優しくされたの、生まれてはじめてだったんだ」

「クリス……」

 ダグラスが名前を呼ぶ。

 すると、クリスは、手を滑らせて、ダグラスの唇をなぞる。

「不思議だね。ひとつ手に入れると、更にもっと欲しくなる。僕は欲張りじゃないつもりだったんだけどな」

 クリスは、悲しそうに笑った。

 ダグラスには、その表情の意味がよく分からなかったが、このままクリスが消えてしまいそうに思えて、その手を取ると優しく口付けた。

「私に与えられる物は、クリスに全部あげよう。だから、そんな悲しい顔はしないでくれ」

 ダグラスは、クリスをきつく抱きしめた。

「もう一度、抱いて」

 ダグラスの腕の中で、クリスが囁くように言う。

「社長の事だけ考えていたい」

「分かった」

 ダグラスはそう言うと、クリスに優しく口付けた。

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