※第80話・美春②

 家に着くなり、美春は青年に突き飛ばされた。畳に突っ伏した次の瞬間、後ろから襟を掴まれ服を剥がされ肌着を露わにさせられた。

「何するんね!? やめて……」

 獣のような青年が馬乗りになる。美春の身体は押し潰されて、声を上げられない。自らも知らぬ背中を見せまいと、必死に抵抗するのみである。


「江田島じゃあズル剥けの死体ばっかり見とったけぇの、生きとる人間のピカの痕を見せんかい」

「何で……こんなこと……」

「マルレに乗って死ぬ気でおった、それが負けてピカにやられた死体の処理じゃ。軍神のはずが、ひたすら焼き場じゃ! こんなん、やっておれるかい! 俺は好き勝手に生きると決めたんじゃ」


 井上に誘われて船舶司令部に行った日のことを思い出した。帰る際、江田島で白波を引く小型艇を目にして井上が「連絡艇じゃ」と言っていた。

 ありゃあ、連絡艇なんかじゃあない。ほんで、井上は帰るよう急かしとった。あれは、特攻兵器だったんじゃ。

 それじゃあ、この人が特攻崩れ!

 もう、誰も信用出来ない。誰もがピカの化身と見してさげすみ、もてあそび、嘲笑あざわらう。もう誰も、人間として見てくれない。


 軍隊上がりの力尽くに抵抗するなど、小娘には無理な話だ。死守する背中に気を取られ、モンペを引き下ろされそうになる。

「ピカは背中か……しかし美春、子供じゃと思うとったが、広島でずいぶん垢抜けたのう。あとで仲間を呼んでやるわい、仲良くしようや」

「やめぇ……」

「今更やめられるかい、あの戦争と同じ──」

 青年の目的は変わっていった。肌着に触れると美春は激しく抵抗するので、その隙を狙いモンペを一気に引き下ろす。


「ひぃ……ひあ、ああああぁあああぁあ──!!」


 モンペが下げられ金切り声を上げたのは、青年だった。背中が覗いたその瞬間、血相を変えて家を飛び出した。用をなさずに棄てられて、美春は悔しくて、情けなくて、憎らしくて、恥ずかしくて、力の限り泣き叫んだ。

 辺りを震わすその声を気に病むものは誰ひとりとしていなかった。


 それから美春は、一歩も外に出なかった。夜、目を盗み外へ出ている様子であったが、両親はおもんばかってか腫れ物には触れぬのか、何ひとつとして尋ねようとはしなかった。


 ある日、美春は化粧品が欲しいとこぼした。

「背中がどうなっとるかわからんけぇど、お化粧をすれば火傷の痕も消えるんじゃあないんかね」

「美春、化粧なんぞ出来るんか」

「広島で、挺身隊ていしんたいのお姉さんに教わったんじゃ。白粉おしろいみたいなぁを塗るんよ」

「そんなん……島に売っとらんぞ?」

「三原なら売っとるんじゃあないんかね? お父さん、船を出してくれん?」


 燃料は貴重であったものの、大事な美春のためならと父はすぐさま船を出そうと決めた。財布を手にした美春は玄関を出て、振り返る。被爆した美春への誹謗中傷が、夥しい貼り紙となって家を包み込んでいた。

 父は、黙って美春の背中を押した。


 三原に着いても美春は船を降りず、トツトツと鳴るエンジンルームの蓋を開けた。

 そこから取り出されたのは、風呂敷包みと美春の釣り竿。それらを担いで船を降り、呆然とする父に微笑みかけた。

「うち、広島によ」

「美春、帰るって……。お前の家は、ここじゃあないんか」


 美春は父から目を背け、岸壁に押し寄せる波を見つめた。

「うちが帰ってきてから、魚がなかなか売れんでしょう? 知っとるよ、ピカの魚なんぞ買わん、毒が入っとるって言われとるの」

 父は言葉に詰まっていた。確かに、魚が売れるのは漁師仲間で一番最後、それも足元を見られて買い叩かれている。

 それでも家族を、美春を思えばこそ、恥も外聞もなく魚を売った。漁師一筋、他に何も芸のない父に出来ることと言ったら、それだけだからだ。


 だが、美春の意志は固かった。それも家族を、父を母を思えばこその意志だった。

「うちがおらんようになったら、魚も売れるよ? たくさん売って新しい船を買ったら、もっと魚が売れるんよ?」

 父は、娘の名前を呼ぶことしか出来なかった。しかしそれも、岩をも穿うがつ意志の前では無意味とわかり、何も言えなくなってしまった。


「ありがとう、お父さん。元気でね」


 美春は、三原駅へと向かっていった。そのうち汽車が滑り込み、美春をさらって去っていく。

 揺れる船から、どこということなく三原の町を見つめていると、父は再び幻を見た。

「お父ちゃん……。只今、帰って参りました!」

 苦々しい唇を噛み、敬礼したのは美春の兄だ。幻ではない、夢でもない、戦地から生きて帰ってきたのだ。


 兄は船に飛び乗って、噛みつくように茫然自失の父を掴んだ。

「美春は!? 美春は、どうしたんじゃ!? 広島は新型爆弾で焼け野原じゃ、電鉄に寄ったら帰った言うとった。爆弾が毒を撒き散らしたと聞いとるが、美春は無事なんか!? 美春はどこじゃ!!」

 父は、日暮れのはじまりとともに我に返って、震えが止まらぬ唇を恐る恐る動かした。


「美春は……死んだ」

「お父ちゃん、嘘はやめんかい! 俺は、美春の電車に乗らなぁいかんのじゃ!」

「死んだ、美春は、死んだんじゃ」

 父はその場で崩れ落ち、真新しい甲板へと泣き伏せた。兄は掴んだ手を離し、魂が抜けるように膝を落とした。

「……美春は、死んでしまったんか……」


 そうじゃ、わしは美春を殺してしまった。

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