※第79話・美春①
学校の金庫に仕舞われていた預金通帳、退職金代わりの反物二反、燃え残ったいくつかの私物を包んだ風呂敷は、咲かずに萎れた蕾のように
ひとりで降り立った、三原駅。そこから渡船に乗り換えて、両親の待つ島へと帰る。
父の船が漁港に係留されている。動かせる患者を島に帰して、無事に帰ってこれたのだと細やかに安堵した。長旅を
ただいま、と言えばいいのかと躊躇いつつ引き戸を引いて、他人のように「ただいま」と言う。
両親が「美春、美春」と息を呑む。幻でも見ているような顔をして玄関まで来て、これが現実であると涙した。
「大変じゃったのう、ゆっくり休め」
「ピカと台風にやられて、女学校がなくなってしまったんじゃ」
「そうかそうか、それは大変じゃったのう」
父はそう繰り返し、晴れ着を仕舞い込むように美春を居間へと通していた。
「お父さんも、ありがとうね。船で駆けつけて、患者さんを送ってくれて、大変じゃったねぇ」
父は視線を泳がせ
「そういや甲板、張り替えたんじゃね。まっさらじゃけぇ、見違えたわ」
美春は、自分の言葉にハッとした。電車を運転した日の夏子が思い出されて、動揺を隠せない父と真新しい甲板が重なった。
「お父さん、患者さんは助からんかったんね」
言葉に迷い、そうか知っているならと父があの日の話をはじめた。
「近い島から周ったけぇ、はじめは降ろしただけじゃった。次の島へ、次の島へと渡るうちに悪くなってきてのう」
ええよ、広島で見てきたけぇ、と美春が促す。
「急に、急にじゃ。赤痢になって口や鼻から……甲板が真っ黒になってのう、張り替えんと仕事にならんのじゃ」
「ピカの毒は怖いねぇ……」
そう何気なく呟いた母自身がハッとして、申し訳なさそうに美春を見つめた。
「あんたは大丈夫よね?」
美春は口ごもってから立ち上がり、台所の障子に手をかけた。
「お母さん、ちょっとこっちに来てくれん?」
母とふたりきりの台所で障子を閉め切り、肌着まで脱いで母に背中を見てもらう。背中はどう? と問うより先に母は謝り、口元を押さえて台所を去ってしまった。
よっぽど酷いんじゃね、うちの背中は……。
身なりを整え居間に戻ると、そこには固い顔をした父しかいなかった。口を開かなければ時間は止まったままになる、そう思って美春はパッと顔を上げて声を叩いて弾ませた。
「疎開しとった子たちは、どうじゃったん?」
「おう、みんなええ子ばっかりじゃ。すぐ広島に帰ったが、会わんかったんか?」
「ずっと看護しとったけぇ。そうじゃ! うち、ピカが落ちて三日後に電車を運転したんよ! 男の社員さんが頑張ってくれたんじゃ!」
ようやく美春の笑顔を見れて、そうかそうかと父は目を細めていた。
そこへ青い顔をしたまま母が戻り、心配そうに話しかけた。心
「美春、愚連隊みたいなのがおるけぇ、あんまり夜は出歩かんほうがええよ?」
「特攻崩れじゃ。死ぬ気でおって死ねずに負けたけぇ、人生を棒に振っとんのじゃ」
戦争に負けて日本は、こんな小さな島までもがすっかり変わってしまった。そう思うと、美春は檻に入れられて海の底まで沈んでいくような気がしてならなかった。
「ほんなら家の手伝いをするわ。女学校仕込みの料理も針仕事もするし、お花もお茶も、ミシンもタイプライターも勉強したんよ? うちは、島のみんなに役立つことをしたいんじゃ」
美春は息継ぎするように顔を上げ、無理を利かせて明るく振る舞った。それでも両親の笑顔は、灯火管制が続いているように
「何か、美味しいものを買ってくるわ! 電鉄のお給金があるけぇ、うちに任せて!」
引き留めようかと狼狽える両親をよそにして、美春は外へと出ていった。
貧しい島だから、商店はひとつしかなく商品も数少ない。それでも貧乏漁師の森島家にはハレの日にしか買えないものが置いてある。そうじゃ、あれを買おうと決めた美春は、顔見知りの店主に声を掛けた。
しかし店主は目を背け、素っ気なく返事をするのみである。
「カレー粉ください、幾らですか?」
店主は棚からカレー粉一缶を掴み取り、麻雀牌でも振るように美春の前に叩きつけた。
「二円じゃ。金は、そこに置いていけ」
「二円!? 二十銭くらいじゃないんかね!?」
「値段が上がっとんのじゃ! いらんのじゃったら
電車賃の二十倍を店先に置いて、カレー粉缶を
値段が上がっとるから苛立っとんのかね……。こんなんじゃあ、カレーライスの具まで買えん。
そのとき、胸の風穴が埋められた。子供の頃、一緒に遊んだ青年が呼び止めた。その晴れやかな顔を見て、安堵せずにはいられない。
「森島んとこの美春じゃないんか? 帰っとったんか」
「お久しぶりです」
「広島におったそうじゃのう。実は俺も、江田島の船舶司令部おったんじゃ」
井上を通じて親近感が湧いた美春は、青年に心を引き寄せられた。
「うち、暁部隊に知り合いがおるんよ!
「そりゃあ、積もる話がありそうじゃのう。
広島を知る人がいる、その親近感と安心感から美春はいそいそと青年のあとを付いていった。
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