第78話・嵐

 さすがは漁師の娘と言うべきだろうか、美春の予感は的中した。風を読み、海を眺めて、空気を嗅いで「時化しける」と呟いていた。


 それから数日後の九月十七日、日本列島を台風が嘗めた。教員の誰もが緊張し、講堂に並ぶ負傷者は成す術もなく祈るのみ、少女たちは身を寄せ合って恐怖している。

「線路が流されやぁせんかねぇ」

「せっかく、八丁堀まで伸びたんに」

「宇品じゃあ、波を被っとるんじゃないかねぇ」

 少女たちが案ずるように、運転再開から一ヶ月を過ぎた市内線は着々と復旧をさせていた。広島駅前まで、あと少し。支線はそれぞれ短いので、全線復旧は夢物語ではなくなっていた。


 その矢先の台風である、しかも尋常な規模ではない。絶え間ない暴風が窓枠を歪め、つぶてのような雨粒が硝子を叩く。筋交いで固めた扉はまるで、暴徒に襲われたように激しく音を立てている。

 そんな中でも、美春は信じていた。何があろうと電鉄社員が一丸となって市内線を復旧させるのだ、と。


「ピカに負けんかった電車じゃけぇ、何度だって立ち直れるわい」

 自信たっぷりに言い放った美春の影に、不安が垣間見えていた。そして少女たちも、同じ不安を募らせていた。

「うちらは、どうなってしまうんかね」

「……どうって?」

 美春は眉をひそめて首を傾げ、キョトンとして見せた。だが、それは心に蓋をしたもので、美春自身も薄々勘づいているものだった。

「今残っとるのは専攻科だけで、家に帰らされたもおるんよ」

「全線復旧したら、作業しとった社員さんが乗務するんよ? うちらは余ってしまうんじゃあないんかね」


 閉ざした美春の蓋が開き、くっきりとした形を現して揺れた。一番電車を担当してからは残った女学生の輪番となり、乗務は回ってこなかった。ずっと看護婦として講堂に詰めており、あの日は夢か幻かと思ってしまうほど運転感覚が遠のいていた。

 しかし美春は、希望を捨てたくなかった。それで閉ざした蓋だったから。興奮気味に顔を上げ、不安を露わにする彼女たちを見つめた。

「そしたら……そしたら、うちらは女学生だけをやっとりゃあええ! 戦争は終わったんじゃ、女学校は──」


 そのとき、扉が開け放たれた。凄まじい風雨が講堂を襲う。張り詰めていた緊張が木っ端微塵に弾け飛び、少女たちは金切り声を上げていた。


 扉を開けたのは、嵐ではない。コートから雫を垂らす、冬先生だ。


「冬先生! 大丈夫なんですか!?」


 冬先生は重たくなったコートを脱ぎ捨て、一目散に少女たちの元へと向かった。


「居ても立っても居られんわい」


 無理を押したのだろうか、冬先生は胡座あぐらをかくと長く長く息を吐き、車座になった少女の空虚に視線を落とした。

 しばらくして上げた顔は、今までに見たことがないほど弱気に見えて、少女たちの心を揺らす。


「宮島の先に、陸軍病院があるのは知っとるか」

「大野陸軍病院ですね、そちらに移った患者さんがおりますけぇ」

「どうも、流されたらしい」

「流された!? 病院が、ですか!?」


 想像を遥かに凌駕した冬先生の呟きに、少女はおろか講堂全体が戦慄した。横になった患者たちは身体を起こし、女学生の輪を見つめている。

 しかし、これが本題ではない。冬先生は膝の上で拳を握り、唇を固く結んでいたが、固唾を飲む少女たちと目を合わそうとはしなかった。

「山津波が起こるほどの嵐じゃ、覚悟してくれ」


 冬先生は唇を噛み、躊躇い、ぽつりと放つ。


「……天満橋が、流された」


 凍りついた少女たちが考えるより早く、冬先生は両手をついて、額を床に擦りつけた。

「電車も流された、線路も敷き直さなぁいかん。しかし、このままでは復旧費用が足りん」

 美春が身体を乗り出して、背中を見せる冬先生に語りかけた。

「冬先生、うちの貯金を使つこうてください。通帳は女学校に預けてありますけぇ」

 美春が起こしたさざ波に少女たちが同調しようとしたときだ。冬先生は苦悶の表情を露わにし、身体が震えるほど奥歯を噛んだ。


「広島電鉄家政女学校は、解散じゃ」


 少女たちは、言葉も思考も失った。ただ呆然として、根無し草のようにふわふわと漂うばかりであった。

 冬先生は再び額を床に擦りつけ、潰れた腹の底から声を絞った。


「電鉄に尽くしてくれた君たちに、こんな仕打ちをして、何度詫びても足らんのは承知の上じゃ。ただ、今の電鉄には家政女学校を運営する余裕がない。これから男性職員も復員してくる。君たちを働かせることが、もう出来んのじゃ」


 家政女学校が、なくなる?

 うちらは、卒業出来んのかね?

 うちらは、どうしたらええんかね?


「すまん……君たちを卒業させられんで、本当にすまん。この嵐が過ぎ去ったら、君たちの本当の家に帰ってくれ」


 冬先生は身体を起こすとうつむいて、拳をぽたぽたと濡らしていた。

 茫然自失となった美春は女学校のはじまりに、千秋と夏子と出会った電車へと帰っていった。


 名も知らぬ 遠き島より

 流れ寄る 椰子の実一つ

 

 故郷ふるさとの岸を 離れて

 なれはそも 波に幾月いくつき

 

 もとの木は いや茂れる

 枝はなお 影をやなせる

 

 われもまた 渚を枕

 孤身ひとりみの 浮寝うきねの旅ぞ

 

 実をとりて 胸にあつれば

 あらたなり 流離りゅうりうれい

 

 海の日の 沈むを見れば

 たぎり落つ 異郷の涙

 

 思いやる 八重の汐々しおじお

 いずれの日にか 国に帰らん


 最後まで残り、尽くし、祈りを捧げた少女たちは講堂の一角に雨を降らせ、いつしか歌声を重ねていた。

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