※第77話・声

 顔を拭うと生温かく、どろりとねばついてきた。ところどころに柔らかい塊が散りばめられて、指で触れるとぽとりぽとりと落ちていく。

 目を拭い、恐る恐るまぶたを開いた。

 手の甲が赤黒く染まっている。指先からはぽたぽたと雫が垂れる。立ち上る生臭さからそれが血だと、塊は内蔵の破片だとすぐにわかった。


 拭った手の向こうには、口元を黒く染めた夏子が弛緩していた。


「……夏子ちゃん?」


 血濡れた手で肩を掴み、揺さぶってみるが虚ろな目は覚めてくれない。


「夏子ちゃん」


 問いかけても、力なく開いた口も、光を失った瞳も動いてくれない。


「ねぇ、夏子ちゃん」


 わずかに残った血の気が引いて、夏子は急速に白んでいった。美春は、頭に浮かぶ一文字を振り払うように名前を呼んだ。


「夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

「森島さん!」

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

「やめるんだ! 森島さん!」

 わああああああああああ!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

「森島さん! 安田さんは!」

 ああああああああああ!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

 夏子ちゃん!

「安田さんは……夏子さんは、もう……」

 夏子ちゃん……」


 永遠の眠りを得て横たわる夏子を前に、美春と赤井先生は言葉のない水底みなそこへと沈んでいった。

 あぶくのようにふつふつと囁かれている言葉が耳孔で蠢き、腕を伸ばして美春の心臓を鷲掴みにした。


「やっと死んだんか」

「雨風しのぎおって」

「朝鮮人が」


 聞こえぬように、聞えよがしに呟かれる無数の侮蔑が鉤爪となり、胸の奥底を締め上げている。


「……朝鮮人?」

 赤井先生が膝を折り、夏子と美春だけに囁きかけた。

「安田さんは『重い』と言っていたんじゃない。オモニ、朝鮮の言葉で『お母さん』と言っていたんだ」


 ぐらりと揺らめく美春の肩を、赤井先生が掴み取る。それでも美春を捉えられず、掛ける言葉が思い浮かばず、うろのような瞳に寄り添うことしか出来なかった。


「……朝鮮人だから、何ね。夏子ちゃんは、夏子ちゃんじゃ」


 虚空を掴む美春の言葉に、小さな炎が灯っていった。


「家政女学校第一期生で、電鉄車掌の夏子ちゃんじゃ。元気いっぱいで、気ぃが強くて、うちらを引っ張ってくれておった」


 涙がとめどなく溢れ出て、真っ赤に染まった頬を伝い、吐き出された血を夏子に返していった。


「何でも器用にこなしておった、誰よりも電車を知っておった。うちが運転士になれたんは、夏子ちゃんと千秋ちゃんがおったからじゃ」


 赤井先生は、掴んだ肩を強く抱いた。美春は手の平から伝わるほどに、熱かった。


「日本が勝つと誰よりも信じておった。亡くしたお母さんを、ずっと呼んでおったんじゃ。みんなと何も変わらっとらんわ!」


 叫びを上げる美春を見る目は冷ややかだった。

 不穏の中に糸を通すような怯える視線が美春を突いた。

「うちの家族を朝鮮人と一緒に焼くんか」

「大丈夫よ。街中、誰も触ろうとせんわ」

「そうじゃ、誰も片付けようとしとらん」


 美春の頭で千の罵声が渦巻いた。言葉の羅列は絡み合い、もつれていって、千切れ砕けて繋がり弾けた。今までに感じたことのないほどの、抑えきれない憎悪が小さな身体を震わせた。


 押さえる手を押しのけて立ち上がった美春を、赤井先生が身体で制した。

「森島さん、やめるんだ」

「赤井先生、止めんでください」

「夏子さんの前だ、やめてくれないか」

「うちは、夏子ちゃんが……」

「夏子さんが悲しむよ、だからやめてくれ」


 力の限り押さえつけた美春の肩から手を離し、赤井先生は夏子のそばに腰を下ろした。

「夏子さんは、僕の妻になる人だった」

 赤井先生は夏子をそっと抱き起こし、膝下に腕を入れて立ち上がった。

「森島さん、夏子さんは僕が引き取る。そういう約束をしていたんだ」

 そして赤井先生は、夏子とともに実践女学校を去っていった。


 *  *  *


 それから一週間もしないうちに、はじめて神様の声をラジオで聞いた。何を言っているのかよくわからなかったが、誰彼構わず集められ、ラジオの前で正座をさせられ、神妙な面持ちの軍人さんが歯を食いしばり涙を流す様子から、ただならぬ雰囲気だけは感じ取れた。

 苦々しく発せられた

『堪え難きを堪え、忍び難きを忍び』

から、じわじわとその意味を悟っていった。


「日本は……負けたんかね?」


 やれやれと散開する者、身体を激しく震わせる者、嗚咽を漏らす者と様々だった。毎日、軍歌を歌って出勤していた軍国少女は茫然自失で、糸が切れた人形のように、その場から動けなくなってしまった。


「長崎にも新型爆弾を落とされちゃあのう」

「ありゃあ、六日前じゃったかいな」

「アメリカには敵わんわい」


 美春はひとり、駆け出した。当て所なく、当てずっぽうに、息が切れるまで走っていった。


 うちが電車を走らせた日に『残虐なる爆弾』を長崎に落としたんか。どんだけうちらを蹂躙したら気が済むんじゃ。

 千秋ちゃんが、何をしたって言うんかね。

 夏子ちゃんが、何をしたって言うんかね。

 広島が、長崎が何をしたって言うんかね。


 もう、どれだけ泣きわめこうと、憲兵さんも機銃掃射も襲ってこない。

 美春は雲の向こう、空の彼方に届けと泣いた。

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