第76話・光②
扉を開けると停留所のひとりが乗車して、美春の両手を掴んで腰を折り、ぽつりぽつりと足元を濡らした。
「運転士さん、生きとったんか。車掌さんのお陰で、わしらは命拾い出来たんじゃ。お下げの車掌さんに礼を伝えとくれ」
あの日、三日前、八月六日。夏子が逃した乗客たちが電車を、美春を囲んでいた。その誰も彼もが軽症で、感謝を涙に変えている。
「安田車掌に必ず伝えます。せっかくじゃけぇ、乗ってください」
停留所の客が電車に乗ると、その後ろで控えていた電鉄社員が歓声を上げ、美春を揉みくちゃにして
「やったのう、森島君!」
「安田君に必ず伝えぃよ!?」
「やめぇや、縮んでしまうわい。こら井上、どこ触っとんのじゃ! お前は仕事に行かんかい!」
賑やかな様子に苦笑していた冬先生は、電車を降りると停留所の隅に力なく座り込んだ。美春を囲んでいた男性社員が、美春と赤松が輪を成して冬先生を心配そうに覗き込む。
「冬先生! 大丈夫ですか!?」
「張っとった気ぃが抜けてしもうたわい、わしも歳かのう」
心配掛けまいとする冬先生の目には力がなく、電鉄社員一同は曇った顔を見合わせた。
「冬先生は、ほとんど休んでおられん。復旧作業はわしらに任せて、今日は帰って寝てください」
「わしが送ります、家を知っとりますけぇ」
「疲れが出ただけじゃ、大したことない」
赤松が疲弊しきった冬先生の脇を抱えて、半ば無理矢理電車に乗せた。これに冬先生は抗えず、ただ狼狽えるばかりである。
「美春ちゃん、
「待て、赤松君。まだ席が埋まっとらん」
「……わかりました。今すぐ席を埋めます」
次の瞬間、見送りの男性社員が一斉に車内へとなだれ込む。出遅れて乗り切れなかった男たちは電車を囲み、悔しそうに笑ってみせる。
「冬先生だけ一番電車に乗るなんてズルいわい。二番でええから、わしらも乗せてくれ」
「そうじゃそうじゃ、乗らなぁ仕事にならんわ」
「次は、わしらの番じゃ。待っとるけぇ、超特急で戻ってこいよ」
悪戯っぽく不満を述べる男性社員を、冬先生は歯をギリギリ鳴らして睨みつけた。が、男たちは秘密基地の子供のように車内を賑わせている。
「これで満員じゃ。森島君、
「宮島線に乗り入れて、冬先生をご自宅に送ったろう」
「それがええ、
「
冬先生が、とうとう怒りを爆発させた。ぶるりと震えた電鉄社員一同は肩を小刻みに震わせて、ついには腹を抱えて涙が出るほど笑いだした。
「そんだけ元気なら、心配いらんわ」
「冬先生は、こうでないといかんのう」
「ゆっくり休んで、会社で怒鳴ってつかあさい」
しかし美春は乗車せず、乗り切れなかった社員におずおずと視線を送った。
「どうした? 森島君」
「左官町の電車、うちのなんよ。このお客さんも夏子ちゃんも乗っておって、うちを守ってくれたんじゃ。……あの電車も直してくれるん?」
男たちは顔を見合わせ、唇を噛む美春に微笑みかけた。
「必ず修理したる、待っておれよ」
焼け野原の広島に朝日が燦々と差して、男たちの後光となった。それは美春にとって、希望の光でもあった。
「森島君、冬先生を頼んだぞ」
社員一同と敬礼を交わし、扉を閉める。発車の鐘が車内に響くと、美春は電車を加速させた。
広電天満橋、
「待っておれよ、みんなまとめて説教じゃ」
宮島線へ向かう背中は
「心配ばっかりしても仕方ないわ、全線復旧させたるぞ! 森島君、わしらを職場に送ってくれ」
「ええけど、お客さんが待っとるけぇ、半分ずつにしてくれんかね?」
「そうじゃのう、また貸切じゃあ説教だけで済まされんわい。半分が電車に乗って、あとは冬先生の見送りじゃ」
そして美春が声を張った。電車に乗った冬先生に届くように、と。
「西天満町行きです! 席はまだ空いとるよ!」
何気ない日常を破壊し尽くされた三日前、もう取り返すことなど出来ないと諦めていた。
でも、みんなは照りつける陽射しの下であろうと幾千の星の下であろうと、諦めなかった。
そうして欠片を、ほんのひと欠片を取り戻し、みんながこの手に掴ませてくれた。
ハンドルを回して加速させると、垂れ込めた雲が晴れるように、誰もが伏せた目を見開いた。
ぽつんと佇む停留所へと電車を停めると、身も心も傷つけられた人々が吸い寄せられた。
車内には、忘れてしまった笑顔が溢れ返った。
凄い、凄いよ。うち、魔法使いになったみたいじゃ。撒いた種を芽吹かせておる、焼け跡に希望を注いでおる、かけがえのない日常を取り戻しておる。
短い線路をたった一両の電車が走る。ただそれだけが、焦土の希望の光となった。
昼になり、交代の女学生がやってきた。電車を引き継いだふたりは一路、実践女学校へと帰っていった。
講堂に飛び込んで、夏子の元へ──。
朝おったところに、夏子ちゃんがおらん……。
まさか! と、美春は血相を変えて外へと駆け出し、遺体の山に夏子を探す。少女の姿はどこにもなく、赤井先生を探して尋ねた。
「先生! 夏子ちゃんはどこね!?」
赤井先生は何も言わず、講堂に入って隅のほうへと向かっていった。美春が黙ってついていったそこは、暗くじめじめとして強い西陽が差す場所だった。
「こんな隅に移されたん? 何でなん?」
美春の問いに、赤井先生は口をつぐんだ。周りの患者は、そこには誰もいないのだと目を背けている。
気にしたらいかん。うちはお客さんから、夏子ちゃんへの
「夏子ちゃん! うち、電車を運転したんよ! あのときのお客さんが迎えてくれて、夏子ちゃんにお礼を──」
美春は、闇に包まれた。
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