第75話・光①
包帯まみれの患者が眠る隙間から、女学生が深い闇から朝を察して身体を起こす。窮屈な中で背筋を伸ばし、患者の寝息に視線を落とす。まだ生きていると安堵しつつ、やるせない一日がまたはじまるのだと、音もなく溜め息をついた。
そっと扉が開かれて、淡い光が講堂に差した。女学生が注視する、その先にいたのは冬先生だ。
光を浴びたのは、美春。
冬先生は患者を起こしてしまわぬよう、微かな筋道を静かに歩いた。
「森島君、あと赤松君、来てくれんか」
美春は眠る夏子に目配せし、女学生車掌の赤松とともに実践女学校講堂をあとにした。
冬先生に連れられて向かったのは、実践女学校前駅、そこには三人を待ちかねていたように回送電車が停まっていた。
「宮島線が……走っとる?」
「看護に集中しとったけぇの、知らんのも無理はないわい。被害が軽微じゃった宮島線は、昨日の八日から全線で運転再開しておる。ふたりとも、
理由を明かされないまま乗車させられ、美春と赤松は怪訝な表情を浮かべたまま、西広島駅へと向かっていった。
薄ぼんやりとした車窓の向こうには、灯火管制よりも暗い焦土が広がっている。もしも明かりが見えたとしても、積み上げられた亡骸を燃やす炎だけだ。
宮島線のあたりは、こうして避難出来るくらいの被害じゃけえ、運転再開も早いわけじゃ。
ほんでも市内線は……市内全域が壊滅しとる。
電線は燃えて、電柱は倒れて、電車は丸焦げか脱線か、その両方か。電鉄の変電所も崩れたり、吹き飛ばされたりしておった。
そう簡単に復旧なんぞ──。
美春は、目を疑った。
西広島駅舎の向かい、
「……マスト?」
「ひと目でマストとわかるとは、さすが漁師の娘じゃのう」
船舶司令部の井上だ。疲弊しきった顔を無理に歪ませ、自信に満ちた笑みを浮かばせている。
「井上さん! ……ほんなら、この線路は……」
「我ら暁部隊と広島電鉄の共作じゃ、電気は宮島線から拝借しておる。ただ素人じゃけぇ、多少の不具合は目ぇつむってくれ」
「ほんじゃあ、冬先生、この電車は!?」
「宮島線に疎開留置しとった電車じゃ。しんどい思いをさせとったが、やっておくもんじゃのう」
冬先生は膝を折り、輝く美春の瞳を見つめた。
「線路は全線単線、
冬先生は、美春の肩を強く掴んだ。
「たった一両、わずかな距離が広島の新たな一歩となるんじゃ」
美春は総毛立ちして、小さな身体を震わせた。
「ほんで、誰が運転するんですか?」
「何で森島君を呼んだと思うておる。わしら男性職員は、昼夜問わずの土木作業でヘトヘトじゃ。それにまだ、市内線の復旧作業をせないかん」
「ほんでも……何で、うちなんですか?」
「森島君は、誰よりも努力をしておった。あんな姿を見せられとったら、誰だって報いてやりたくなるわい」
冬先生は呆れたように笑ってみせると社紋入りの鉢巻を取り出し、再び美春の瞳を見つめた。
「森島君、君こそ一番電車に相応しい。この広島に、希望の光を注いでくれ」
美春は大きく頷くと鉢巻を受け取って、運転台から焦土に伸びる線路を見据えた。
「時刻表はない、席が埋まったら走らせてくれ。それと、金を持っとらんでも乗せてやれ」
美春が唇を結んで、鉢巻を締める。立ち上がった冬先生は、駅舎を一瞥しながら声を張った。
「広島電鉄市内線、運転再開じゃ!」
うなだれていた人々が
「ほんに電車が走るんか?」
「ああ、助かった。乗せてもらうわ」
「お金は全部、燃えてしまったんじゃ……」
「ええですよ、乗ってください」
あっという間に席は埋まった、あとに続く客はもういない。冬先生が最後に乗車し、美春に寄り添った。
「いつも通りでええ、いつも通りでええんじゃ。この電車から広島の日常を取り戻すんじゃ」
美春はコクンと頷いてから扉を閉め切り、車掌から発車の鐘をもらう。
チン、チン。
ハンドルを回してブレーキを緩め、噛みしめるようにコントローラを慎重に、一段一段投入していく。電車は轟音を鳴り響かせて、焼け野原へと走り出した。
音のない世界に聞き慣れた音が響き渡る。行くあてのない人々が顔を上げて、昇る朝日を浴びる電車に目を奪われた。虚ろな瞳に生気が注がれ、聖なる泉が湧き出すように光を放った。
「……電車じゃ」
「電車が走っておる」
「見てみぃ、電車が走りよる!」
「電車じゃ! 電車が走っとる!」
「お姉さん、電車に乗せてくれんかね!」
瓦礫に囲まれた停留所に電車を停めて、走って追いかけてきた傷だらけ、火傷だらけの子供たちを乗せる。
「ええよ、好きなだけ乗っていって」
するとあとからあとから停留所に人が集まり、小さな電車に乗り込んでいく。腫れ上がった手を破れたズボンに突っ込んで、溶けた小銭を車掌に手渡す。
「こんなんじゃあ、幾らなんかもわからんのう」
「ええですよ、それじゃあもらいすぎですけぇ。それは仕舞って、そのまま乗ってください」
車内は活気に満ちていた。何もかもを焼き尽くされた広島の、たったひとつの特別な日常。
「森島君、もうええじゃろう。電車が来るのを、みんな待っとるわ」
冬先生にそっと促され、扉を閉めて電車を加速させていく。
ああ……何て気持ちええ。
「次は終点、西天満町でございます」
「赤松さん、終点じゃないわ。これが広島のはじまりじゃ」
「森島君の言うとおりじゃ。ほれ、見てみぃ」
冬先生が示す先、停留所では電車の到着を待つ客がいた。あのお客さんは……と、美春は
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