第81話・美春③
広島電鉄宮島線、
改札から海を臨めるこの駅に美春が配属されたのは、海を愛する島生まれだからと冬先生が配慮した結果だった。
その冬先生も、台風の日を境にして更に体調を崩してしまい、島を追われた美春の世話を最後に布団から動けなくなっていた。
休日には冬先生の自宅へ行って、恩返しのつもりで看病をしていた。それも先日、身体を拭いていたときのこと。
「冬先生、どこかにぶつけたんですか?」
「いいや、布団から出ておらんぞ」
「ここに
冬先生は押し黙り、意を決して口を開いた。
「森島君。もう、わしは大丈夫じゃ」
「大丈夫って……どういうことですか?」
「もう、わしに構わんでもええいうことじゃ」
そんな、まだ快方に向かっとらん、むしろ悪くなっておる。美春はそう言いかけて、息を呑む。
これは、ピカの毒じゃ。冬先生の身体が、ピカに侵されておる。うちにつらい思いをさせんように、もうええと言うたんじゃ。
冬先生の身体を拭き終え、寝巻きを整え布団に寝かせて、美春はそっと語りかけた。
「うちには、ピカがようわかりません。知らんは恥と父が言うとりましたが、ピカを落としたアメリカにもピカがわからんので、アメリカの科学者さんが市内に来て、色々調べております」
「わからんモンを落とすなんぞ、アホじゃのう。恥ずかしい連中じゃ」
冬先生が呆れたように
「アメリカの科学者にもわからんのです、ピカにやられても生きるか死ぬかはわかりません。その証拠に、うちはこのとおりピンピンしとります」
美春は、力こぶを作る仕草をして見せた。袖に隠れた細腕を冬先生は
「どうせわからんのじゃったら、冬先生が元気になるまで付き合わせてつかぁさい。女学校で勉強したことで、うちは役に立ちたいんです」
冬先生は、微笑んだまま天井をじっと見つめていた。死ぬ覚悟、生きる希望、そのどちらも美春と分かち合おうと心に決めた。
しかし美春は、冬先生とは違った思いを秘めていた。感謝の蓋をし、恩義の鍵をかけていたが、冬先生を思うたび固く閉ざした口を言葉が衝く。
看病を終え、寮に帰るため
「美春! 美春じゃないんか!?」
兄だった。死んでしまったのが信じられないのか、骨を拾いに来たのだろうか、美春を探しに島を出たのだ。
「違います、人違いです」
「そんなわけ、あるかい。家族を見間違えるわけがないわ。森島美春じゃないんか?」
悲愴と歓喜の狭間で揺れる必死な兄の形相に、美春は愛想笑いを返すだけ。
「ここ広島では、ようあるんですよ? 亡くした家族に似た人に会うことが」
呆然として立ち尽くす兄を置いて、美春は駅をあとにした。追い縋る兄の視線がケロイドだらけの背中を貫き、胸をきゅうきゅうと締めつける。
「森島さん、いいのかい?」
心の蓋に鍵をした美春に声を掛けたのは、もう先生ではない赤井先生だった。今は、密かに身を投じていた団体に本腰を入れて、原爆を非難する活動を行っている。
「ええんです。また署名しますか?」
「署名は一度でいいんだよ。それより、彼は家族じゃないのかい?」
美春は言いかけた唇を結び、パッと開いて笑顔を作った。
「人違いです、ようあることです。うちも、夏子ちゃんや千秋ちゃんに似た人に、声を掛けそうになりますわ」
赤井先生は、伏せた目を沈ませた。同じような経験があるから、美春を思いやっての否定が出来なかった。
去来する後悔から気を逸らすため、海の向こうに広がっている平らな広島に視線を投げた。口の中がぐじぐじとして苦くなるだけで、晴れることは一度もなかった。
それらから意識を連れ去ったのは、軽快な車輪の音を伴って宮島へと向かう師匠だった。
「森島君! 土産があるぞ!」
プラットホームに投げた言葉が、ひとりの男の背中を押した。その姿を前にして、美春の感情が波濤を立てた。
「小川……さん」
小川が取ってつけたような敬礼をすると、美春はすぐさま駆け寄って、みっともなく突き出した胸を拳で叩いた。
「何をのこのこ帰ってきとんのじゃ! 死力を尽くして戦ったんか! 玉砕覚悟で戦ったんか! 決死の特攻をせんかったんか!」
「すまん、生き恥を晒して、すまん、ちょっと、やめてくれんか、苦しいわ」
小川に両手を掴まれて、ふつふつ煮える怒りを腹に収めた。それでも熱は冷めることなく、美春は口を尖らせている。
手を離した小川は荒い呼吸を整えてから、うつむき視線を
「大変じゃったのう、本社で聞いたわ」
「すみません、せっかく帰ったんに。小川さんもお勤め、お疲れ様でした」
「わしは、ええんじゃ。戦い抜けんかったけぇ。それより、森島さんが無事でよかったわい」
小川が自身を差し置くと、押さえた蓋が
「ちっともよくない! 千秋ちゃんも夏子ちゃんも死んでしまうし、女学校はなくなるし、島にはもう帰れんし、海も街も見える駅におっては島もピカも忘れられん! 冬先生はわかっとらん! 小川も、ちっともわかっとらんわ! うちが……うちが、どんな……」
小箱の中身を吐き出すと、言葉にならない感情の残滓が美春の唇を震わせた。そのうちそれは、美春の胸を掻きむしり、身体を内から熱くして、止めどない涙を溢れさせた。
美春がどこかに流されそうな気がしてならず、小川は燃えるような肩を抱いて繋ぎ留めた。
「わかっとらんで、すまん。ほんでも、よかったと言わせてくれ」
「何がよかった言うんじゃ!」
「わしは、森島さんと踊りたくて帰ったんじゃ。そんためなら生き恥を晒してもええと、ビンタを堪えて草むらに忍んで、泥水
美春は
「格好悪いねぇ」
「格好悪くても、ええ。生きておれば……生きていてくれて、ありがとうな」
小川は目を泳がせた末、美春の両手に行き場を求めた。しかし美春は、怯えるように
「わしと踊るんは、嫌か?」
「うち、ピカにやられとるけぇ……背中の火傷、見たら気分が悪くなるくらい酷いんよ」
すると小川は美春の肩をしかと掴んで、くるりと半周させて抱きしめた。
「こうしたら何も見えんわ」
「……
美春からパッと離れて半周させて、小川は汗を吹き出し真っ赤な顔を晒していた。
「何を言うても、わしを
「そんなん、小川さんだけよ」
美春は、小川の手を取り重ね合わせた。
「わしと踊ってくれるんか?」
「ええよ、何で踊るん?」
「決まっておろうが、椰子の木の下でずっと考えておった。あの日と同じ『椰子の実』じゃ」
「うん、狭いよ、気ぃつけてね」
手を取り合って歌を合わせて、電車が来るまで未来までプラットホームでふたりは踊った。
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