※第72話・ヒロシマ③

 欄干らんかんが落ちた御幸みゆき橋では、服も身体もボロボロにされた人たちが右往左往しておった。

 通り沿いの専売局は、屋根が焼け落ちて壁だけになっとった。まだ火の手が収まらんのか、もうもうと黒い煙が立っておる。

 女学校は、崩れておらんじゃろうか。

 女学校は、燃えておらんじゃろうか。

 みんな、無事でおるじゃろうか……。


 火を避けながら京橋川の土手道を歩く。まず目に飛び込んだんは、骨組みだけが残されたたガスタンクじゃった。鉄骨は直立しとるけぇ、これに爆弾が当たったんじゃあ、ないようじゃ。

 間に建つ女学校が、見えん──。


「突撃ぃぃぃぃぃ!」

 白シャツだけの憲兵さんが軍刀を抜いて、燃え盛る市内へと駆けていった。パンパンに腫れた顔は鼻水とよだれでびしゃびしゃで、身体から出るものを好き放題に垂れ流しておる。

「水をください……水……」

 焼けた服を、剥がれた皮を腰から垂らした動員学徒が、京橋川へと入っていった。

「お母さーん! 水! 水!」

「熱いよう! お母さーん!」

 裸になった子供たちが、わんわん泣きじゃくりながらあとに続いた。やめぇやめぇとうちが言うても一切聞かず、ベルトコンベアで運ばれるように川に入ると、ぶくぶくと沈んでいった。


 女学校では、女の子も先生も校庭場所に集まっとった。校舎はぺしゃんこになって燃えておった、寄宿舎も崩れかけておる。

 下着姿で逃げてきた娘、身体に硝子が刺さった娘、巻いてもらった三角巾を真っ赤に染めた娘、けられた瓦礫から這い出てくる娘、校舎の火を消しとる娘。

 酷い、酷いよ、酷いけぇど、うちにはまだマシに映って、ホッとしてしまったんじゃ。


 ふらふら歩いとったら、一年生の宏子ちゃんがぐったりと座っとった。うちらに気づいて、ぼうっと顔を見上げとる。

「森島先輩……」

「大丈夫? 怪我しておらん?」

 宏子ちゃんは、堰を切ったように泣き出した。けた瓦礫から、女の子の手が見えた。

 潰されて、死んでしまったんじゃ。

 何でかね、ちっとも涙が出てくれん。


 苦い口をギュッと結ぶと、男の乗務員さんが声を上げた。

「専売局の火が移るぞ! 市内は火の海じゃ……宇品うじなに避難せい!」

 うちらは、瓦礫に潰されて動かなくなった同窓生をそのままにして、崩れ落ちた女学校をあとにした。燃える女学校に、火柱が立つ市内に、千秋ちゃんに背を向けて──。


 電車道に再び出ると皮膚を指先から垂らした人や、顔をパンパンに腫らせた人、硝子を浴びた人を背負う人、とにかく酷い怪我をした人たちで、ごった返しとった。みんな宇品うじなを目指しておる。

「怪我人は県病院で手当てして……戦闘機が来るぞ! 伏せぇ!」

 潰れた家ばっかりで、隠れられるところなんかひとつもない。そこらに伏せて、機銃掃射が当たらんことを祈るだけじゃ。Bに怯えとった夏子ちゃんには、もう怯える元気は残っておらん。

 戦闘機は、舐め回すような低空飛行をするだけじゃった。食らいつく前にチロチロと舌を伸ばす毒蛇みたいじゃ。

 アホぅが、骨の髄まで食い尽くしとろうが。


 戦闘機をやり過ごして、御幸みゆき橋を渡った先の県病院で治療を受けた。治療言うても、薬も道具もほとんど燃えてしまったけぇ、油を塗って包帯を巻くくらいしか出来んのじゃ。

 うちの背中は一面、火傷をしとったそうじゃ。

 うちを守ったコントローラに焼かれたんじゃ。あそこにおっては、無傷ではおれんのね。

 綺麗に治ってくれるかね……。


 治療が済むと再び歩いて、宇品うじな港との真ん中にある神田神社に落ち着いた。ここが避難所ということじゃ。

 そんとき、電鉄のバスが走ってきた。神社の前で停まると、自動車部の女の子がたくさんの握り飯を下ろしてきた。入れ替わるように、怪我した人を次々とバスに乗せておる。

「電鉄からの炊き出しを持ってきたわ。みんなに行き渡るよう、一個ずつにしてね」

「ありがとう。自動車部のみんなは、何をしとるん?」

「市内から郊外に避難させとるんよ、宇品うじな港から似島にのしま検疫けんえき所に船も出とる。ひとりでも助けなぁいかんけぇ、もう行くね」

「待って!」


 引き止められても、バス車掌の女学生も運転手も、嫌な顔ひとつせんかった。うちの声が、必死じゃったからかねぇ。

「ここにおらん娘で、無事なんがわかっとるのはおるんかね?」

「避難のバスに乗って、広島駅から線路を歩いて帰ったがおったよ。検疫けんえき所に行ったもおる。ここにおらんでも、無事なはおるわ」

 うちが顔を緩めると、バスは車掌を乗せて市内へと走っていった。あの車内は、すぐに怪我した人でいっぱいになるんじゃろうね。

 見送った先は、えらい雨が降っておる。あれが火を消してくれたら、ええね。


 一瞬、島のお父さんとお母さんが頭をよぎった、ほんの一瞬だけじゃった。かき消したんは、夏子ちゃんの浅い呼吸じゃ。

 うちは、広島におらなぁいかん。夏子ちゃんが元気になるまでは、島に帰れん。

「夏子ちゃん、おにぎり食べよう?」

 ちょっとでええのか、夏子ちゃんはおにぎりを知らん人に手渡しとった。何も食べんのは身体に毒じゃ、そう思うてうちは夏子ちゃんとおにぎりを分け合った。


 おにぎりは、砂と硝子の味がした。

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