第67話・あくび
我慢に我慢を重ねていたが、身体は嘘をついてくれない。とうとう耐えきれなくなった美春は、運転中にも関わらず大
そして運の悪いことに、すぐ先の停留所で電車を待ち構えていたのは船舶司令部の井上だった。しまった、と思ってももう遅い。井上は乗車するなりニヤニヤしながら運転台へとまっしぐら、気まずそうにする美春のそばに陣取った。
「森島さん、おはよう」
「おはようございます……」
うめくような挨拶に、井上は何やら嬉しそうにしている。美春は恥じらい、しゅるしゅると萎むばかりであった。
「寝れんかったんか? 夜更かしはいかんのう」
「空襲警報がうるさかったんじゃ、こう毎日だと敵わんわ。井上さんは眠くないん?」
「防空壕で寝とるからのう。終わったら、誰かが起こしてくれるわい」
引っ
「森島さんも、防空壕に入ったら寝たらええわ。眠ってしまったら、何もかもどうでもええようになるわい」
「それが、そうもいかんのじゃ」
美春は昨晩のことを思い出し、への字に結んだ口を歪めた。
* * *
千秋は飛び起き、寝息を立てる美春を揺さぶり起こす。面倒そうに身体を起こし、しょぼしょぼとした目をこする。そんな美春に、千秋は焦燥を隠せない。
「んん……また空襲警報かね」
「美春ちゃん、
「どうせ今日も来んわ」
と、美春は背を向け毛布を被った。これに千秋は痺れを切らし、毛布を
「美春ちゃん! 防空壕に行かんと、舎監さんに怒られるよ!?」
美春は渋々身体を起こすと、ずりずりとベッドから這い出て、真っ暗闇でもわかるほどの
「まったく……緊張感がないねぇ」
「毎晩じゃけぇ、もう飽きたわ」
「これで全員、揃ったんかね?」
「部屋が暗くて、よう見えん」
「いち、にい、さん……」
「夏子ちゃんがおらん」
少女たちはハッと身体を屈めて、夏子のベッドを覗き込む。
夏子は毛布を被り丸まって、ガチガチと震えて動けなくなっていた。少女たちは狼狽えつつも、恐れと焦りに押し出されて声を掛ける。
「……夏子ちゃん、
夏子の背中が恐怖に跳ね、廊下を鳴らす足音の隙間をか細い声が縫った。
「……嫌や……みんな死んでしまうんや……」
焼き尽くされた街、潰されて炭になった家屋、苦悶の末に生命を絶たれた家族、ひとりで葬った亡骸──。夏子から禍々しく滲み出て、千秋は針で突かれたように思わず手を引いてしまう。
千秋も下級生も成す術もなく、オロオロとするばかりである。扉を貫く喧騒と、部屋に充満する不安に、美春がついに突き動かされた。
「夏子ちゃんは生きなぁいかんよ!」
美春は毛布ごと夏子を抱えて、先陣切って部屋を出た。予想だにせぬ行動に、千秋も下級生たちも困惑しながら後に続いた。
夏子は毛布の下で、どんな顔をしているのかと少女たちは考えて、息が詰まるほどの胸苦しさに苛まれた。
* * *
「何で、そんなんになってしまったんかいのう」
と、帰路につく井上が運転台の脇に陣取り千秋に問うた。
「夏子ちゃんは、呉でご家族を亡くしとるけぇ」
「ほうか、呉か……」
千秋は少しだけうつむいて、井上は暮れゆく空に視線を投げた。溌剌とした夏子の笑顔がふたりの瞳に映し出された。
千秋は浮かぶ言葉を呑み込もうとしていたが、馳せる思いに胸が詰まってのどを通らず、ついに口を突いて出た。
「広島も……来るんじゃろうか」
軍人として黙っていられず井上は胸を張って鼻を吊り上げ、力強く言葉を放った。
「Bなんぞ、我ら陸軍の高射砲で落としたるわ」
「井上さんは船舶司令部じゃあないですか」
痛いところを突かれた井上は、小さくうめいて引きつった。が、部隊が違えど軍人としての誇りがあると虎の威を借り続けていた。
「て……帝国陸軍には変わりないわい。それに、わしは顔が広いんじゃ。高射砲部隊にだって知り合いがおる」
自慢の顔の広さとは、疎まれようとも気にせずすり寄る、軽薄で軟派な性格に起因していた。要するに便利な奴として重宝されて、結果的に使い走りさせられている。船舶司令部での光景を思い出し、それでは出世は出来んねぇ、と千秋は呆れ顔をしてみせた。
しかし井上は、自尊心のためならば誰の手柄であろうと関係ないと、自身の薄っぺらさを削いでまで自慢話をやめようとしない。
「わしのような二等兵が将校とええがにやっとるなんぞ、そうないんぞ? 偉い先生を紹介されて形勢を一発逆転出来るっちゅう話も聞いとるわ」
「逆転……?」
「おう、アメリカなんぞ一撃必殺じゃ」
千秋は悪戯っぽく笑ってみせて、必死に締めた他人の褌をするりと引いた。
「軍人さんが大本営発表に背いたら、いかんですよ?」
千秋は華麗にハンドルを回し、停留所へと滑り込ませる。電車が停まると扉を開けて、ポーッと呆けて立ち尽くす井上に視線を向けた。
「お住まい、こちらですよね? 今日もお疲れ様でした」
熱を帯びた井上は促されるまま電車を降りた。千秋にひらひらと手を振られ、過ぎ去る電車を見送ったのち我に返ってみるみる紅潮していった。
「凛とした吉川運転士も、堪らんのう!」
これでも帝国軍人なのかと冷めた視線を浴びせられても、井上はまったく気することなく身悶えしていた。
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