第66話・呉③
疲れただろう? 今日はゆっくり休んで、挨拶は明日にしよう。僕も一緒に行くよ、女学校の前で待っているから。
赤井先生の提案に、夏子は嗚咽混じりの返事をして、止めどない涙を拭いながら頷いた。
寄宿舎に帰り、舎監さんに挨拶をして、乾いた笑みを振りまいた。その何もかもが痛々しくて、愛想笑いも曇ってしまう。
どう声を掛ければいいのか、少女たちにはわからなかった。震える布団に寄り添うことしか出来なかった。ともに涙を流しても、眠れぬ夜は枯れ果てることを知らなかった。
赤井先生は約束どおり、黄色く染まった朝日を浴びて粗末な校門に寄りかかっていた。眩しさのせいか、泣き腫らしたせいか、夏子は細めた目を凝らしていた。赤井先生も顔を上げると同じ顔になったので、夏子の心がほんの少し軽くなった。
「おはようございます」
「おはよう、早すぎたかな。森島さんと吉川さんは?」
「今日は早番の乗務です。寝ててもええ、言うてましたが目が冴えてしまいまして」
「眠くないのかい?」
「眠いのは毎日です」
他愛もない言葉を交わして、ようやくふたりは笑顔になれた。少しずつ、少しずつ歩みを進めるように。
赤井先生は懐かしそうに校舎を見上げた。夏子は不思議そうに、その目を見上げる。
「まだ先生は来ていないのかな? 職員室の前で待たせてもらおう」
「女学校に戻られるんですか?」
「……どうかな、空きがあれば……いや、授業があれば、か」
赤井先生に差した影を、期待に輝く夏子の瞳が照らしていった。昇る朝日よりも眩しくて、つい視線を
「先生、行きましょう! 学校に!」
夏子は腕を絡め取り、跳ね飛ぶように赤井先生を女学校へと導いた。
* * *
女学校、電鉄本社と挨拶を済ませた夏子と赤井先生は路傍に佇み、通り過ぎゆく電車をぼんやりと眺めた。ふたりに気づいて手を振る車掌に挨拶を返して、消え入るように手を下ろす。
どちらでも別々に話をしたので、お互いが今後どうなるのかは、語り合わなければわからない。
その口火を先に切ったのは、夏子だった。
「赤井先生は、女学校に戻れるんですか?」
「今は、ほとんど授業をやっていないだろう? 家政女学校には枠がないと言われてね」
意気消沈した夏子を目にして、赤井先生は微かな期待を差し込んだ。
「でも、系列の実践女学校を薦められたよ。授業はなくても、家政女学校と違って半分授業の学校ではないし……」
夏子はハッとし、赤井先生の横顔を見つめた。それは紛れもなく希望の光で、ふたりを
「非常勤で、家政女学校で働けるかも知れない」
そのとき、過ぎ去ってゆく電車から黄色い声が響き渡った。
「師匠ー! 電車に乗りましょーう!」
夏子の一番弟子、和江だった。手を振ると急に顔が熱くなり、夏子は小さく萎んでいった。赤井先生に目をやると、同じようにうつむいている。
「こんなところで立ち話なんて、憲兵さんに見つかったら大変だ。そろそろ帰ろうか」
不器用に立ち去ろうとする広い背中は、指先に摘まれて引き止められた。そっと振り返って見てみれば、夏子は変わらぬ赤い顔をして視線を路傍に落としている。
「立ち話やなかったら……ええですか?」
ふたりの足は、赤井先生が泊まる宿のある中島へと向かっていった。
* * *
宿の部屋で向き合うふたりに言葉はなかった。思い出したくない光景を伝えたくて、言葉にすることが躊躇われ、それでも聞いてもらいたくて、夏子の心はメトロノームより激しく揺れた。
静寂に亀裂を走らせたのは、赤井先生だった。
「僕は、ひとりになった。東京のすべてを失ったんだ」
「……うちも、ひとりで……」
赤井先生の眼差しがあまりに真っ直ぐで、夏子の琴線を爪弾く。伏せた瞳は、擦り切れた畳の目だけを映していた。
夏子は呉のすべてをひとりでやった。朝鮮人の亡骸に誰ひとりとして手を差し伸べず、遺された夏子ひとりでやるしかなかった。それが帰るまでに時間を要した理由であったが、親友にさえ打ち明けることは憚られ、胸の奥底に仕舞い込んだ。思い出すたび、内側から掻きむしられて耐え難い痛みが走る。
焼土で目にした光景が夏子の秘密と重なった。悟った赤井先生は唇を固く結び、意を決したように開け放つ。
「僕は実践女学校の近くに越すつもりだが、安田さんはこれから、どうするんだい?」
「どなたか決まっていませんが、先生のお世話になる形をとって、学校を続けます。役所の手続きの話なので、寄宿舎に暮らすのは変わりません。その……卒業までは……」
口をつぐんで曇る夏子に、赤井先生が羅針盤で指し示す。それが正しい航路とされるか、わからない。遠回りでも静かな海があるかも知れない、豊かな町に寄港すれば楽なのかも知れない。それでも、波濤を浴びる海峡を進むことしか考えられなかった。
「その役目、僕にやらせてくれないか?」
夏子はハッと顔を上げ、短くも力強く放たれた言葉の意味を読み取った。それは頭に染みて、心に響いて、胸を熱くし、夏子の瞳を潤ませた。
「僕は、君をひとりにさせない。そのためなら、教師でなくても構わない。こんな身体でも出来るのなら、どんな仕事だってしてみせる。女学校を卒業したら、この広島で一緒に暮らそう」
夏子は三つ指をつき頭を下げて、ぽとりぽとりと畳を濡らした。
「赤井先生は、先生やないとあきません。階段も教壇も、うちに支えさせてください」
熱い微笑みを送り合い、新たな秘密を心の小箱に仕舞い込み、ふたり手を取り合って鍵をした。
秘密が秘密でなくなる、来年の春を待ち望み。
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