第68話・暑い朝

 いつものように、暑い朝だった。少しでも涼を感じるために電車の窓を全開にして、風を切る。

 広島に生まれ育った千秋でさえも、ついさっきすれ違った際、同じようにしていたのだから本当に今朝は暑いのだと辟易とする美春である。

 車内に風を通すのは、眠い目を覚ますためでもあった。安眠を阻害する空襲警報は連日連夜、ご多分に漏れず昨晩も闇を切り裂き、今朝も生活の足を止めて、見事に空振りしてくれた。

 こうも暑く寝不足だと、朝早くから建物疎開に駆り出されている動員学徒や挺身隊ていしんたいが倒れないかと、心配せずにはいられない。


 しかし一番つらい思いをしているのは、朝日が昇るまで恐怖に震えた夏子だった。うつらうつらと乗務しており、ふとした瞬間に寝入ってしまい近くの客に揺り起こされる。

 七時頃、たった一機が鳴り響かせた空襲警報に「やれやれまたか」といった顔が並ぶ中、夏子は過剰に恐怖して乗客の避難を急かしていた。

 一晩中、千秋とともに寄り添った効はなかったのかと、美春は自分自身に落胆した。


 元気な夏子ちゃんに戻すには、どうしたらええんかね……。


 そうぼんやり考えていると

「降ります! 降ります!」

 咄嗟にブレーキハンドルを回して電車を停めたが、停留所を行き過ぎた。むっつりとする客に平謝りして扉を開けるが、夏子が集札しに来ない。やむなく美春が切符を受け取って、後方扉に目をやると、夏子は扉にもたれて安らかな寝息を立てていた。

はよう開けてくれんかね!?」

 停留所に並んだ客が苛立って、後方扉を叩く。


 夏子ちゃんも限界じゃけんど、お客さんがおる停留所を見落とすなんぞ、うちも限度を超えとるようじゃねぇ。


 美春は乗客に謝りながら後ろへ向かい、夏子の肩を揺さぶった。

「夏子ちゃん、お客さんよ」

「……美春ちゃん? ごめん、今どこ?」

「左官町じゃ。お客さんが待っとるけぇ、はよう扉を開けてあげて」

 夏子はのっそりと扉を開けて、しょぼしょぼとした目を足元に落とした。

「えらいすんません、己斐こい行きです」

「車掌のお嬢ちゃん、しっかりせんと」

「運転士さんも、前見とらんといかんわ」

 恨み言を浴びせられても、ふたりに返す言葉はない。ただひたすらに頭を下げるばかりである。


 並んだ客をすべて乗せ、扉に伸ばした夏子の手がピクリと跳ねて、止まった。低く野太い爆音が忍び寄り、降り注いで空気を、夏子を震わせた。

「……Bや……」

 夏子の視線を辿った先にB−29が二機……いや三機、澄み渡る青空を支配していた。

「何じゃ、またかい」

「警報が鳴らんのう」

「どうせ空振りじゃ」

 呆れ顔の乗客は腰が重く、中には立ち上がろうとしない者まであった。緊張感なく、のんびりとした避難に痺れを切らして、張り裂けんばかりに夏子が叫ぶ。


「何してんねん! はよう逃げんかい!」

「わかっとるわい、押さんでも逃げたるわ」

「いらん爆弾を捨てに来たと違うんか?」

「三機だけじゃあ、大したことないわ」

「どこに逃げたらええかのう」

「本川国民学校が近いわ」

「そりゃあええ。コンクリートじゃけぇ、焼夷弾にも耐えるわ」


 電車を降りた乗客が足を止め、空を見上げた。真っ青な中にポツンとひとつ、白いパラシュートがふわふわと落ちた。


「見てみぃ、落下傘じゃ」

「アメリカ兵が逃げたんじゃ」

「高射砲が当たったんかいのう」

「おかしいのう、煙が上がっとらんわ」

「恐れをなして逃げたんじゃ、天皇陛下万歳!」

「何してんねん! はよう逃げなぁ、死んで……」


 乗客は叱られた子供のように、はいはいと返事をして国民学校へと向かっていった。その背中を見送る夏子は、一歩たりとも動こうとしない。

 いや、足がすくんで動けない。激しく震えて、床に貼り付いてしまっている。

「……夏子ちゃんも、逃げなぁ……」

「……あかん、歩けへん……」

 美春を映した夏子の瞳が潤んで歪む。ぽろぽろと頬が濡れると力が抜けて、ついには膝から崩れ落ちた。


 美春が夏子の手を引くと、駄々をこねるようにかぶりを振った。

「美春ちゃん、うちを置いて逃げて」

「いかんよ! 一緒に逃げなぁいかんよ!」

「うち、お父さんとお母さんのところに行く」

 夏子は音もなく嗚咽を上げた。テコでも動かぬ手を引くのを諦めて、美春はその場で膝を折り、溺れる夏子に微笑みかけた。


「夏子ちゃん、歌を歌おう?」

「……歌?」

「そうじゃ、大好きな歌を歌いながら逃げよう? みんな言うとった、Bが三機だけなら大したことない、いらん爆弾を捨てるだけじゃ」

 爆弾の二文字に夏子が陰る。美春は夏子の手を掴み、愛をもって握りしめた。

「夏子ちゃんは、死んだらいかん。死にとうないんじゃ。お父さんとお母さんも、そう願っとる」

 赤井先生との約束が脳裏をよぎり、夏子は小さくしっかりと頷いた。足の震えはいつしか治まり、子鹿のように膝を伸ばした。


 が、夏子は再び崩れ落ちた。

「ごめんね、まだあかんわ」

「ええよ、Bはこっちに来とらんわ」

 美春はコントローラにもたれて座り、スゥッと息を吸い込んだ。


 名も知らぬ 遠き島より

 流れ寄る 椰子やしの実一つ






















 ピカッ。






















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