第8話・旅②

 己斐こいって変わった地名やね。そんな素朴な疑問に答えるのは、千秋の役目だった。

「鯉を神功じんぐう皇后に献上したから、己斐なんよ」

「広島城を鯉城りじょうと言うとったが、何でなん?」

「広島の街は昔、己斐浦こいのうらいう海だったんよ。太田川が砂を運んで出来た土地に、毛利輝元公がお城を建てたんじゃ。そんで広島城は己斐の城から鯉の城、と言うんよ」

「そうなんか。みんなでお城に入りたいねぇ!」

「美春ちゃん。お城は第五師団司令部になっとるけぇ、入れんのよ」


 ガックリうなだれる美春と入れ替わるように、夏子が感心しきって声を弾ませた。

「千秋ちゃんなら、広島の観光案内もお手のものやね! 旅行客だけ乗せた電車を走らせて、千秋ちゃんが教えたるねん。そしたらバスの方がええか? 電車が走っとらんところも説明出来るんと違うん?」

「そうねぇ。今は遊興旅行が出来んけど、日本が勝ったらやってみたいねぇ」

「うちらのは遊興旅行と違うわ。勉強、勉強!」

 美春がガバッと顔を上げ、真剣な眼差しをふたりに向けた。それが何ともわざとらしくて、そのうち三人で声を上げて笑い出した。


 三人とも行き着く先が楽しみで仕方なかった。弁当を下げて景色を眺め、駅名を言い当て短いお喋りを楽しむこれを、遊びと言わず何と言おう。

 それでも美春と夏子にとって、押し寄せる知識を吸っては飲み込む、波打ち際の海綿にも似た旅であった。


 勉強と言われては、遊んでばかりはいられないと、美春は次に停まる駅を答えた。

「次は実践女学校前じゃ。お降りの方はございませんか」

「すっかり様になっとるやないの。美春ちゃん」

「そりゃあ、姉妹校で先生を借りとるけぇ。学校に何かあったら頼らないかん、忘れんわ」

 すると美春はくうを指差し、得意気に鼻をツンと高くした。

「ほんで電車五日市、楽々園、電車廿日市はつかいちじゃ」

 美春がつらつらと駅名を言うので、夏子も千秋も思わず目を見張る。美春はそれに構うことなく天井を見上げ、弾むような声で続きを唱えた。

「宮内、地御前じごぜん阿品あじな、最後は電車宮島じゃ!」

「凄いわ、美春ちゃん! 全部言えたわ!」

「うん、だから宮島に着くまでお喋りしよう」

 夏子も千秋もキョトンとしてから、笑みをこぼした。美春が頑張ったご褒美に、勉強の旅は遊興旅行に成り代わっていた。


 並行していた宮島街道を線路が跨ぐと、美春は車窓に目を奪われた。

「見て! 海が見えるわ!」

「もうじき阿品あじなじゃね。宮島が近いんよ」

「海が好きなんて、さすが島のやね」

「うちら、ここで働けるんじゃね! うち、電車が好きになったわ!」

 晴れやかな美春の笑顔に、もう大丈夫だと夏子も千秋もそっと胸を撫で下ろした。


 電車宮島駅を出てると、漂う匂いにくすぐられ三人とも鼻をヒクヒクさせた。

「美味しそう……何ね? これ」

「煮穴子ね、宮島の名物なんよ」

「ああ……お小遣いの少なさが恨めしいわ。しっかり働いて、ぎょうさん稼ぐで!」

 決意を新たにして、宮島に渡る。その船も広島電鉄が運航しており、今までと同じように事情を話すと無料で乗れた。


 宮島といえば厳島いつくしま神社である。

 さざ波に映る大鳥居に感動し、海にせり出した紅白の回廊を渡り、拝殿に着いた頃にはその美しさに三人は、すっかり心を奪われてしまった。

「見とれておらんと、お参りしよう」

「あかん……お願いごと、考えてなかったわ」

「厳島は海の神様じゃろう? うちはお父さんが漁師じゃけぇ、豊漁をお願いするわ」

 学業でも仕事でもなく、父親のことを祈る美春に、夏子も千秋も呆気にとられた。電車の勉強に苦戦しているのが、嘘のようである。


「それやったら、うちはお父さんが作っとる船の安全を祈るわ。船造りの名人なんやで?」

「それじゃったら、うちは……」

 欲を出してはみたものの、お願いごとが決まらない千秋に茶々を入れたのは、夏子である。

「ええ人とのご縁と違う?」

 千秋は破裂しそうなほど真っ赤になって、丸くした目を泳がせていた。普段は温厚で大人っぽいから、動揺しているのが夏子には可笑しくて仕方ない。そして中身が幼い美春には、恋の機微などわからない。

「千秋ちゃんは綺麗じゃけぇ、神様にお願いせんでも大丈夫じゃ」

「せやね、宗像むなかた三女神も嫉妬しよるわ」

 千秋が降ろす気のない拳を振り上げ膨れていると、三人まとめて咳払いに吹き飛ばされた。


「早うしてくれんか、後がつっかえとるんじゃ」

 三人揃って柏手を打ち、空っぽなお願いをそそくさと済ませて退散すると、後ろから本殿を貫きそうな力強い柏手が響き渡った。思わず振り返ると、年配の男が一心に両手を合わせ、祈りを長く長く捧げている。

「戦勝祈願じゃろうか」

「それにするんやった。うちら、まるで非国民やないか」

「息子さんが出征しとるんじゃないかねぇ」


 お詣りは済んだけぇ、鳥居を見ながらお弁当を食べよう。そう美春に促され、夏子も千秋も拝殿を後にした。

 心に引っ掛かるものがあった千秋は、去り際に拝殿を振り返る。三人をけた男は力を込めて、ずっと祈りを捧げていた。その唇が誰にも聞こえてしまわぬように微かに動き、千秋が秘める思いと交差した。


 無事に帰って来てくれ──。


 後方におるけぇ、生命は取られんじゃろうが、満州から無事に帰って来て……お父さん……。

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