第7話・旅①

 休日の朝。


 美春と夏子と千秋の三人は、舎監さんに作ってもらった弁当を手に下げて、女学校最寄りの御幸橋停留所で電車を待っていた。

「夏子ちゃん、電車賃はどうするん?」

「まぁ、見てたらええ。うちに任せて」

 そのうち、宇品うじなから電車が車体を揺らしながらやって来た。

「美春ちゃん、あの電車が何かわかる?」

「……500じゃろうか……わからん……」

「屋根に段があるから300、大阪から来た電車なんや。変わった足回りやさかい、よう脱線すると冬先生が言うとったわ」


 夏子が先陣を切って乗車すると、車掌が切符を買えと言うより先に、背筋を伸ばしてハキハキとした声で申し出た。

「広島電鉄家政女学校、安田夏子、他二名、停留所の勉強に参りました!」

 車掌は呆気にとられてキョトンとし、運転士も何事かと振り返っている。

「そりゃあ、感心じゃのう。広島駅まで勉強して来んさい」

 車掌が切符を引っ込めると、三人は深々と頭を下げて、ニンマリとした顔を見合わせた。

「それと今は空いとるからええが、他のお客さんもおるけぇ、もう少し小さい声でええからな」


 三人の旅がはじまった。夏子と美春が車掌より先に停留所を言い当てられるか、停留所では千秋が近くに何があるかを解説する、そういう遊びのようなことをして広島駅まで向かっていく。

「大学前の大学いうのは、広島文理大学よ」

「革屋町と紙屋町は、広島一の繁華街なんよ」

「そうよ、八丁堀じゃ。あっちが白島はくしまに行く線路で、広島駅方向からは行けんのね。福屋百貨店! 小さい頃、連れていってもらったわ」

 玄関から見上げれば、仰け反って後ろに倒れてしまいそうな高層建築だ。あんぐりと口を開ける美春の様子に、夏子と千秋は口元を抑えてクスッと肩を震わせた。


 広島駅に着くと、乗っていた電車は電鉄前へと帰っていった。不調車だから、積極的に使いたくないのだろう。

己斐こい行きは、あれじゃ。美春ちゃん、あの電車はわかる?」

「最新鋭の650じゃ!」

「当たりじゃ、車掌ふたり乗務なんよ。一緒に乗れるとええね」

「見て。竿やのぅて、ビューゲルで電気取ってんねん。電線から外れんし、向きも勝手に変わってくれるんや」

「……ビューゲルって、屋根に載っとる布団叩きみたいなん……?」

 最新鋭の電車を掴まえて酷い言い草の美春に、夏子も千秋も苦笑いをせずにはいられなかった。


 相生あいおい橋停留所を過ぎると、車掌が広島護国神社への敬礼を求めてきた。

 これもやらなければいけないのだ……少女たちに畏敬とは別に緊張が走る。忘れてしまったら、不敬である。憲兵さんに怒られて、会社に戻ってからまた怒られるに違いない。

 頭を上げると、千秋が急に向き直った。美春も夏子もそれに続くと、過ぎゆく景色にすっかり目を奪われてしまった。

「千秋ちゃん……あれは何なん……?」

「産業奨励館よ。物産展とか絵画展とかやっとったけど、今はどうなっとるんじゃろうか……」

 背広のような堂々たる佇まい、窓ガラスの多い明るく華やかな雰囲気、中央に構えるドーム屋根は、まるでアラブの王族の大邸宅だ。

 福屋百貨店といい、産業奨励館といい、広島は大都会だと見せつけられて、美春はすっかり当てられてしまった。


 一瞬過ぎた風景に、夏子がハッとしてみせた。珍しいものを見たらしく、美春も千秋もその様子を覗っている。

「変わった橋や、ていの字になってる……そうか、島になっとんのや!」

「そうよ、これが停留所の名前になっとる相生橋ね、渡った先が中島じゃ。広島は川が多いけぇ、己斐までにたくさん橋を渡るんよ」

「学校からも三回、橋を渡ったね! ほんに川が多いんじゃのう」

「二回は同じ京橋川じゃ、広島駅の手前が猿猴えんこう川言うんよ」

 鬼の首を取った美春の顔は、それがつまらぬ壺だとわかり、力なくガックリとうなだれた。それを千秋がなだめていると、夏子がハッとして車掌に目をやった。


「次は左官町さかんちょうです、お降りの方はございませんか」

 降りかかるような車掌の声に、三人は顔をしかめて笑いあった。

「いかん、夢中になって車掌さんに負けてしもうたわ」

「そうじゃった……ここは横川よこがわ線との分岐じゃね」

「負けておれん。次は堺町、ほんで土橋じゃ!」

「美春ちゃん、凄いわ! 舟入ふないり町とか江波に行くんじゃったら、土橋から歩くようになるねぇ」


 汚名返上を果たした美春が得意気にしてみせる一方で、夏子が不安を匂わせていた。

 真っ直ぐ西へ向かっていた電車は左へ曲がって左官町、右へ曲がり土橋、小網町と西天満町を過ぎて再び左へ右へとカーブを描く。

「こう何度も曲がったら、集電ポールが外れてしまうわ」

「そうね、ゆっくり走ってもらわなぁ」

「アメリカ兵が攻めてきたら、ここで迎え撃てばええな。見通しが効かんから、角で構えるんや」

 城攻めに見立てた夏子の冗談に、美春が真剣な顔で「そうじゃね」と頷いた。決して口には出さないが、本当に本土決戦となるのだろうか、銃を持ったアメリカ兵に竹槍なんかで抗えるのかと、千秋は疑念を抱いた。


 己斐川を渡れば電車の終着、己斐である。しかし同じ広島電鉄で同じ駅舎を使いながら、宮島線では西広島を名乗っている。

「何で名前が違うんかね、ややこしいわ……」

「宮島線は路面電車とちごうて鉄道よ、規則が違うんじゃ。そんで名前が違うんかねぇ。だから停留所と言わんと、駅と呼ぶんよ」

「美春ちゃん、見て。床が高いし、パンタグラフで電気を取っとる。ポールやビューゲルよりも、ずっとはよう走れるんやで」

 床の高い小さな電車と、屋根に載ったやぐらを見つめて、美春は深い溜め息をついた。

「こっちは、まるっきり違うんか……覚えることだらけじゃねぇ……」

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