第6話・停留所
入学から一週間ほどが過ぎた頃、多くの女学生が早々に頭を抱えてしまっていた。
女学校の授業科目は国語、数学、物理、化学、公民(修身)、歴史、地理などのほか
体操の授業はバレーボールやドッジボールばかりではなく、
更には家政女学校の名に相応しく華道、茶道、裁縫、家事(料理)、そして少女たちがこの学校を志すきっかけとなったタイプライターも学ぶ。
これらが難し過ぎる、あるいは想像と異なって落胆しているわけではない。
問題は、冬先生の授業にあった。
「市内線の停留所、宮島線の駅名、頭に入れんと仕事にならんぞ!」
わずか一ヶ月で見習乗務するのだから、教える側も教わる側も必死である。
勉強するのは停留所や駅名だけではない。社員としての心構えや乗務マナー、
しかし入学したのは、今まで広島を訪れたことがない女学生ばかりである。市内のみならず郡部や隣県にまで募集の声を掛けたから、仕方のないことではあった。
そういった少女がひとつの組にまとまっていたが、広島の地名も位置関係も淀みなくつらつらと暗唱出来る千秋、電車に慣れ親しんだ夏子がいたのは、少女たちの救いとなっていた。
しかし、そのふたりの力を持ってしても、美春は誰より苦しんでいた。
知恵熱に侵されて机に突っ伏す美春を、夏子と千秋がなだめていた。
「いかん……ちっとも覚えられん。また冬先生に怒られてしまう……」
「まだ、はじまったばかりよ。それに実際、電車はゆっくり走るんよ。ちょっと時間を置いて思い出せれば、何とかなるわ」
「そうそう。バレんように車内の路線図を見たらええし、電停をチラッと見て確かめてもええわ」
穏やかな千秋らしい助言も、要領のよさそうな夏子らしい技術論も、地名で埋め尽くされた美春頭には、ほんの少ししか染みてこない。
見かねた夏子が隣に座り、美春の顔を覗き込むようにして声を弾ませた。
「うちも広島は、はじめてや。一緒に覚えよう! まずは会社から広島駅を目指すで! 千秋ちゃんは合ってるか教えてな!」
「電鉄前、大学前、鷹野橋、公会堂前、
順調に暗唱している美春に、千秋は安堵の笑みを浮かばせた。夏子も、思い出したものと合っていることがわかって、ホッとしている。
「
「違う違う! 白神前、
美春は自身に落胆して力を失い、額を机に打ちつけた。夏子が苦笑いしながら肩を抱き、はっぱをかけて揺さぶっていた。
「美春ちゃん! 気ぃ取り直して逆、行こう!」
「そうよ、ちょっとつまづいただけじゃ! 全部言えるようになるよ!」
ふわっと身体を起こした美春が、念仏のように停留所を唱えはじめた。
「電鉄前、御幸橋、
うんうん、と千秋が頷いた。夏子は思い出した停留所名と合っていることに安堵している。
「十丁目……七丁目……
「言えたやないか! それで宇品線、全部や!」
「美春ちゃん、出来るじゃない! 凄いよ!」
夏子と千秋は喜んでいるが、美春は浮かない顔で、
「でも、本線も宮島線もあるし、それに……えっと……」
「
「でも! でも! ええっと……」
「冬先生が言うとった、あれ?
「軍の要請があるかも、言うとったねぇ」
美春は
「全部覚えとらんのに、また覚えなあかん……。住んどった言うても、千秋ちゃんは凄いわ。停留所の観音さまじゃ」
「休止電停があるけぇ、うちも間違えそうになるんよ?」
「夏子ちゃんも、電車のことは大概わかっとる。電車観音さまじゃ」
「嫌な観音さまやなぁ……後光が集電ポールで、先に滑車がついとるんか」
「そりゃ、えらい観音さまじゃねぇ」
夏子の冗談を聞いて千秋がクスクス笑っているが、美春はぼんやりと机の木目を眺めているだけだった。
自信をつけてあげたい夏子と千秋だったが、当の美春がこれでは
ふたりがやれやれと顔を見合わせると、美春はあばら家ならば吹き飛びそうな溜め息を吐いて、ぶつぶつと恨み言を呟いた。
「家政女学校言うから、良妻賢母になる勉強する思うとったのに……電車に乗るとは予想外じゃ」
「三年生になれば専攻科に進んで、そういう勉強だけになるけどねぇ」
美春がガバッと頭を上げて、今にも泣きそうな目でふたりに縋った。
「でも、電車に乗るんは変わらんのよ!?」
そして再び、美春はパタリと突っ伏して、ぶつぶつと恨み言を呟いた。
「大体、島にはこんなたくさん町がないわ。停留所を言うても、どんなところかわからんし……」
丸く垂れ下がった美春の肩を夏子が掴んで、机から強引に引き剥がした。起こされた美春も見ていた千秋も、目を丸くして固まっている。
「それや! 美春ちゃん、電車乗ろう!」
「でも……うち、そんなにお金を持っとらんわ」
「そんなん……うちが何とかしたる! やっぱり乗って覚えるのが一番や! 千秋ちゃんも一緒に来て、広島を案内して!」
かくして三人は、休みの日を利用して路面電車の旅に出ることとなった。ただし、電車賃の工面について、いくら聞いても夏子は含み笑いをするだけだ。
美春も千秋も、不安が募るばかりであった。
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