第5話・寄宿舎
広島電鉄家政女学校の生徒は、入社式を行ったとおり広島電鉄の社員でもある。自動車課に配属されればバス、電車課に配属されれば市内の路面電車と鉄道路線の宮島線で、車掌として働くことになる。予習復習しやすいように、という配慮だろうか、寮の部屋割りも所属課に基づいていた。
はじめて迎える寮の夜、美春たちは改めて自己紹介を行っていた。
「よかった……。電車を見たことないんは、うちだけじゃなかったわ」
美春の言うとおり、広島に来てはじめて電車を見た少女が少なからずいた。それでも電車の存在を知らなかったのは、美春ただひとりである。
相部屋の娘たちは、さくら、すみれ、かえでと色鮮やかな名前で、山間部の
しかし、三次から来たさくらが不思議なことを言うものだから、美春の頭に疑問符が浮かんだ。
「ガソリンカーなら、見たことあるけどねぇ」
「ガソリンカー……?」
これを解したのは、夏子と千秋だ。
「たまに広島駅に来る、小さい汽車ね? あれは三次に行っとったんね」
「へぇ、広島にもガソリンカーがおったんやね」
そして話について行けないのは、美春ひとり。
「また違うのがあるんか……」
「知らんの!? ガソリンを節約せなあかんって、焦って
無知を恥じ、またもや美春はしおしおと萎んでいった。
これをなだめるのは、千秋の役目である。広島に明るく物腰も柔らかだから、いつしかみんなが頼りする班長のような存在になっていた。
「まあまあ。今覚えるんわ、爆発せん電車じゃ。うちらも電気を節約せないかん、早う寝よ」
明日に備えて布団に潜ると、そのうちどこからか
「千秋ちゃん、どうしたん?」
「お腹痛いん? どっか苦しいん?」
すると嗚咽の隙間から、たったの一言がポツリと呟かれた。
「……お母さん……」
夏子が漏らした溜め息は、ついたそばから吸い込まれた。
自らの意志とは言え、親元を離れての寮生活は十四歳の少女たちには重荷だった。郷愁がひとりふたりと伝播して、しんみりとした重たい空気が部屋いっぱいに広まった。
「……お母さん……」
「……寂しいよ……」
「……帰りたい……」
「……お父さん……」
「美春ちゃんは、お父さん子なんやね……」
さめざめとした雰囲気は壁を
「……君たち、一体何があったんじゃ……?」
翌日、教室は泣き腫らして真っ赤になった瞼で埋め尽くされた。ただひとりだけ、気丈な夏子が各部屋を慰めて回り、それでも寝付けない千秋に添い寝したので、青白い顔でゲッソリしている。
教師一同、ただただ呆気にとられるばかりであった。
それも日を負うごとに慣れていき、枕を濡らす少女はひとりふたりとなだめ役に回り、ついには誰ひとりとして泣かなくなった。
が、少女たちは入れ替わるように、新たな課題に直面するのだ。
ある夜、美春たちの部屋でのこと。少女たちが裁縫机を取り囲み、今日の授業をとりとめもなく振り返っていた。
「広島に詳しい千秋ちゃんが同じ組で、同じ部屋なんて、えらい助かったわ」
さくらの言葉に千秋は、頬を染めて恥ずかしそうに頭を掻いた。
「夏子ちゃんもよう電車に乗っとった言うから、乗り方とか仕組みとか詳しくて助かるわ」
すみれの言葉に夏子は、苦笑いをしながら頭を掻いた。
「ええ同期に恵まれて、本当によかったわ。夏子ちゃんと千秋ちゃんがいれば、百人力じゃ」
かえでの言葉に夏子と千秋は、互いを見合わせ照れ隠しに頭を掻いた。
「せっかく教えてくれとるのに、覚えられんで、ごめんねぇ」
千秋と夏子に申し訳なさそうな顔をして、美春は面目ないと頭を掻いた。
「それは、うちらも同じことじゃ」
さくらも、すみれも、かえでまでも悪戯っぽく舌を出して頭を掻いた。
そして六人が、はたと顔を見合わせた。
「シラミじゃあ!!」
「頭にえらいついておる!!」
「南京虫もおるわ!!」
「誰じゃ、連れてきたんわ!?」
「そんなん言うてる場合違うわ!!」
髪を掻き、頭を振り、枕を叩き、布団を払い、ついには畳をめくりはじめた。少女たちの総攻撃により安住の地を奪われた虫たちは、床板の上で右往左往し蠢いている。
「紙に包んで燃やしてしまえ!」
「紙なんか、どこにあるんじゃ」
「ええわ、これ
「夏子ちゃん、帳面はもったいないわ!」
「そんなん言うてる場合やないわ! こいつらを駆逐せんと、うちの気が済まん!」
「みんな……寝床の隙間に南京虫がビッシリおるわ……」
「針で潰せ! 乙女の柔肌を食い荒らしよって、一匹たりとも生かしておけんわ!」
夏子隊長の勇猛果敢な陣頭指揮により、シラミ南京虫両軍の殲滅作戦が繰り広げられた。
夜戦に危険が伴うのは、
「あんたら、さっきからうるさいわ!!」
勢いよく扉を開けたのは、寝静まっていた隣室の同期生である。眉間に皺寄せ目を釣り上げて、食いしばった歯を剥いて、不機嫌そうにガシガシと頭を掻いた。すると白いものがポロポロと落ちて、彼女の足元でのたうち回る。
「……シラミ……凄いじゃろう?」
「……そうじゃねぇ……」
侵入者による奇襲には、どの部屋も悩まされていたようである。
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