第4話・女学校②

 御幸みゆき橋を渡ると、専売局の大工場が飛び込んできた。この脇にある京橋川沿いの土手道を広島駅方向へ北上すると、真新しい建物が見えてくる。

 これが、広島電鉄家政女学校である。

 設置認可は、前年の十一月末。

 様々な理由により進学を諦めかけた少女には、お釈迦様が垂らした蜘蛛の糸のような話に思えてならなかった。

 女学校の北側には、ガスタンクが建っている。

 去年の今頃、国策により分離させられるまで、電鉄とガス会社は一体だった。そう考えると家政女学校のある場所も、千秋が言い間違えたのも頷ける。


 簡素な校門を抜けると、校庭が広がっている。左には二階建ての校舎、その奥には講堂が建っている。右は男性乗務員を養成する青年学校、その並びに女学生のための竹寮が建ち、食堂と浴室、松寮、舎監室と連なっている。

「男の人が来るんかね……」

「乗務員養成は、君たちが仕事か勉強しとる間にしかやらんよ。それに、若い男はみんな出征してしまうから滅多に使わんわ。心配せんでええ」

 先生の言葉で不安は拭えたものの、銃後を守るという意味を痛感させられ、少女たちの口の中が苦くなった。

「さぁ、まずは寮に荷物を置きんさい。君までが松寮、竹寮は君からじゃ」


 美春、夏子、千秋の三人は同じ寮、同じ部屋に落ち着いた。六人部屋の両翼には引き出し付きのベッド、というか畳敷きの蚕棚かいこだな。苗字が近いので、三人の寝床は縦に並んだ。真ん中には共用の裁縫机がひとつある。寝泊まりするだけの、実に簡素な部屋だった。

 荷物を置くなり、互いの挨拶をする暇もなく隣の部屋から伝言が届いた。

「荷物を置いたら、教室に来るよう言われたわ。怖い社員さんが呼んどるけぇ、早うして」

 あの鬼社員さんが呼んどるんか……。

 少女たちは、吊り天井に押し潰される気持ちになって、苦々しい笑みを送りあった。


 校舎二階の教室に向かう。広島市内とその近郊から来た一組、遠くから来た二組に分かれるかと思ったが、そうではないらしい。

「うちらはこっちよ」

 夏子と千秋に導かれるまま、美春は夢見心地な足取りでヒョコヒョコとついて行くだけである。

 教室に全員が揃ったところで教壇には先生が、そしてあの鬼社員までもが並んで、ひとりひとり起立して名前と出身を言うようにと指示された。

 あっちの組に鬼社員さんは来んのじゃろうか、それなら今から組を変えたいわ……と、少女たちは思っていたが、もう手遅れである。これはただの組分けではないからだ。


 女学生が自己紹介を終えると、インテリ風の優しそうな若い先生が東京弁で進行を務めた。

「本校常勤の教員は六人……いや、そろそろ七人になりますか? あとは非常勤の講師でまかないます。非常勤の先生は掛け持ちです、困ったことがあったら、私たちを頼ってください。それでは常勤教員の自己紹介をはじめます。私は国語科の赤井哲夫です、宜しくお願いします」

「裁縫担当の笹口正代です。みなさんの制服は、私が図案を考えました。制服ともども、宜しくお願いします」

 教師陣が自己紹介をするに連れ、女学生の緊張が次第に高まっていく。トリを務めるのが、目玉を右に左に動かして、少女たちに睨みを効かせている鬼社員だからだ。


 そしてついに、鬼社員の番となった。教室には張りつめた無数の糸に、雁字搦めにされたような緊張感が漂っている。少女たちは蜘蛛の糸に捕らえられ、今にも取って食われそうな、怯えきった表情を崩せずにいる。

 鬼社員は少女たちに背中を向けて、自らの苗字を板書した。その広く盛り上がった背中からも、圧倒的な威圧感が伝わってくる。

「広島電鉄市内線運転士の岩鬼いわきです。師範として車掌を五人、運転士を十人養成した後、青年学校の養成担当をしとります」


 名前まで鬼じゃ……。

 名実共に鬼なんじゃ……。

 この人も電車の先生なんか……。


 少女たちは、まとわりついた糸にキュウキュウと締め上げられて、瞳を潤々とさせている。

 すると、岩鬼先生は困った顔で天井を見上げて頭を掻き「参ったのう……」と呟いた。そして、再び背中を向けて名前を板書した。


 岩鬼終


「わしゃあ、十二人きょうだいの末っ子でのう、もう子供は終わりっちゅうて、名前はしまいになったんじゃ。ただ、この名前が昔から嫌で……」

 岩鬼先生が黒板消しを手にして、板書した名前をサッと払うと、美春も夏子も千秋も総毛立ちで息を呑み、顔を見合わせたいのを必死に堪えた。


 岩鬼冬


「親からもらった名前じゃけぇ、無下には出来んわ。糸を抜いて冬先生とでも呼んでくれ」

 少女たちを拘束していた緊張の糸も、黒板消しで拭い去られた。穏やかな空気が流れ、冬先生もようやく表情を緩められた。

「すまんのう。女学生を教えるなんぞ、はじめてじゃけぇ、わしも緊張しとったんじゃ」


 冬先生が恥ずかしそうに苦笑すると、少女たちもその可笑しさに目尻を下げた。

 が、ひとりだけ怪訝そうな少女がいた。

 美春である。

 家政女学校で電車の先生が、うちらに何を教えるんじゃ?

 その答えは、すっかり機嫌がよくなった冬先生が、にこやかに教えてくれた。


「君たちには、明日から電車の車掌になる勉強をしてもらう。一ヶ月後には出征した男に代わって乗務じゃ。辞めたもんはおらんが、わしは厳しいぞ? 精進せいよ」

 美春は堪らず、絶叫して立ち上がった。冬先生も他の先生も、同期生一同も目を丸くしてポカンとしている。

「君は、何をすると思うとったんじゃ?」

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