第2話・広島②
お下げの少女は車掌から切符を買うと、勝ち気な吊り目を丸くして美春たちに歩み寄った。
「あんたら、家政女学校に行くんと違うか?」
「ほ、ほうじゃけど……」
と、ふたりは勢いに負けて狼狽えている。そんなことはお構いなしに、少女は前へ前へと突進してくる。
「うちもなんや! うちは安田夏子、宜しく頼むわ!」
「うちは吉川千秋、宜しくね。夏子さんは、大阪から来たん?」
「生まれは大阪や。お父ちゃんの仕事の都合で、尾道に越したけどな。大阪にも市電があるけど、広島もえらい数の電車が走っとんのやな」
尾道ならば、同じ汽車に乗っていたはず。それをきっかけに美春も自己紹介をしようとしたが、輝く瞳の眩しさと、膨らむ期待に押し潰されて、入る隙がまったくない。夏子が矢継ぎ早に繰り出してくる女学校の話を、ただ黙って聞いているのみである。
「勉強をしながら働いてお給金が稼げるなんて、夢のような学校やないか。お給金から学費を引いたら、親に仕送り出来んねんで? 女学校なんぞ入れるお金がない、言うて反対してたお父ちゃんも、これを言うたら
夏子の言うとおり、半分は授業を受けて、もう半分は仕事をする。この仕組みのお陰で、貧しい漁師の家に生まれた美春も、父親が出征していて様々苦しい千秋も、進学することが叶ったのだ。
「卒業したらタイプライターをもらえるんよね。ほんに、ええ会社じゃねぇ。
そこへ美春が、おずおずと割って入った。先生から女学校のことを聞かされたときも、職業安定所で面接試験を受けたときも、まったく理解できない話があった。仕事のことはさておいて、勉強したい一心だけで大都会広島に出てきてしまったのだ。
「その……電鉄ちゅうのは、何なんかのう?」
夏子も千秋も予想もしない質問をされ、ポカンとせずにはいられなかった。
そのうち千秋が、屈託のない笑顔を見せた。
「これよ」
しかし千秋は指を差さず、視線を向けることもしないから、これが何を示しているのか美春にはさっぱりわからない。
「これって……どれ?」
美春が客車の隅から隅、車窓の端から端まで見回すと、夏子が呆れた顔で客車の床を指差した。
「これや。こ、れ」
何のことだか、未だに美春はわからない。とうとう夏子が痺れを切らして、苛立ちながら答えを言った。
「電鉄っちゅうのは電気鉄道や。今乗ってる電車が広島電鉄で、うちらが入るんは広島電鉄家政女学校。この電車を走らせとる会社が開いた学校に
美春は思わず声を上げた。その絶叫に、かしましい三人娘に視線が集まり、中には迷惑そうに咳払いをする者まであった。
これじゃあ、まるっきり
耳まで真っ赤に染めて、肩をすくめてうつむく美春に、夏子はやれやれとため息をついた。
「あんた、何の会社や思うたん?」
「電気で鉄を何かすると思うとった……」
「
夏子が呆れきって発する言葉を失うと、美春は説教されている気がしてならず、みるみる小さく萎んでいった。
助け舟を出したのは、ふたりのやり取りに気を揉んでいた千秋である。
「夏子さん。この子は、電車を見たことがないんよ。知らんのも、しょうがないわ」
「そうなんか、恥かかせて堪忍な。どっから来たんや?」
「言うてもわからんよ、瀬戸内の小さな島じゃけぇ……」
縦横無尽に電車が走る大阪生まれの夏子には、電車を知らない美春が新鮮に映った。電車のない暮らしは、どんなものだろう。この子はその島で、どのように育ったのだろう。
期待に輝いていた夏子の瞳は、美春だけを映していた。
「……あんた、歌みたいな子やね!」
「歌?」
今すぐにも消え入りそうな美春に、夏子は笑いかけてからスゥッと息を吸い込んだ。
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る
夏子の歌を聞いて、千秋も同意した。そして、それを示すように歌声を重ねた。
これは、うちの歌じゃ。
大都会の波に揉まれて、今はぷかぷか浮かんでおるが、今日から女学校で芽を出し根を張り、天高くまで伸びるんじゃ。
美春は顔を見上げて、ふたりの歌に加わった。
枝はなお 影をやなせる
そうじゃ。女学校を卒業したら島の子供たちに勉強を教えて、みんなの役に立つことを伝えて、もっと楽しい島にしたい。そのために、女学校に進んだんじゃ。それがうちの夢なんじゃ。
われもまた 渚を枕
乗客は皆、島への憧れや郷愁に満ちた歌に聴き惚れていた。小さな車内は澄み切ったさえずりに包まれて、車輪がレールを踏みしめる音も消えている。
その歌声を止めたのは、深々と被った帽子から困り顔を覗かせている車掌だった。
「続きは会社で聴くけぇ、走れんから降りてくれんかの? 電鉄前じゃ、入学式は本社講堂でやるんぞ」
少女らは血相を変えて電車から降りた。運転士と車掌に頭を下げて、轟音が消え去ってから肩を震わせ、涙が出るほど笑いあった。
「早速、会社に迷惑掛けてしもうたわ」
「続きを歌えば、許してくれるじゃろう? 優しそうな車掌さんじゃけぇ」
「そんで、あんたの名前は? まだ聞いとらんかったわ」
美春の頭で渦巻いていた不安は、夏子の『椰子の実』がいっぺんに吹き飛ばした。このふたりがいてくれたら、私は広島でやっていける。そんな気がして、ようやく美春は胸を張れた。
「私は、森島美春! 一緒に頑張ろうね!」
すると、夏子が空を見上げて考える素振りをしはじめた。美春も千秋もその様子を不思議そうに覗き込むと、夏子はパッと見開いた目をふたりに向けた。
「美春、夏子、千秋……あとひとりやね!」
「そんな都合よういくかね?」
「行ってみな、わからんよ?
先陣を切って駆け出したのは夏子である。それに千秋が、そして美春が戸惑いながら笑みをこぼして後に続いた。
三人は夢と希望を胸いっぱいに膨らませ、広島電鉄本社の門をくぐって行った。
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