椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

昭和十八年

第1話・広島①

 昭和十八年、十四歳の春──。


 はじめてひとりで汽車に乗り、はじめて降りた広島は、はじめて目にする大都会だった。


 数え切れないほど線路が敷かれた駅構内、長い長いプラットホーム、コンクリート造りの吹抜け駅舎を前にして、汽車に乗った三原駅がすっかり霞んでしまった。

 駅舎を出ると、広場と言うに相応しい駅前広場が広がっており、その向こうには商店がズラリと並んでいる。驚いて皿のようにした目でも、その光景は収まりきらない。

 行き交う人は、どこからともなく現れて、一切の迷いなくどこかへ消えていき、見ているだけで忙しない。


 足早に過ぎゆく喧騒には一切の隙がなく、美春は心細さを感じるばかりで、げた風呂敷包みをすがるように両手で掴み、ただひらすら呆然と立ち尽くすのみだった。

 決意を伝えた際の、両親の言葉が頭をよぎる。

『島を一歩も出たことのないお前が、広島なんかで三年も寮生活て、やっていけるんか?』

 両親が抱えた不安は自分自身のものとなり、胸をじわじわと侵していった。


 そのとき、低く野太い轟音が美春の鼓膜を震わせた。これもはじめて耳にする音で、目を向けずにはいられなかったが、美春には見たものを理解出来ず、視線は釘で打ち付けられた。

 板張りの物置小屋が、道路を滑り去っていったのだ。


「……物置小屋が走っとる、あれは何ね……」

「路面電車を見たことないん?」

 鈴のようにコロコロとした澄んだ声でも、後ろからでは奇襲である。美春は「わっ!」と悲鳴を上げて風呂敷包みを放り投げ、その場でペタリと尻餅をついた。


「ごめんなさい、驚かす気はなかったんよ」

 差し伸べられた手の主は、そう変わらない歳の少女だと知り、この街に加わる糸口を掴めた気になって、美春はようやく頬を緩められた。

「うちもビックリし過ぎたわ、ごめんごめん」

 手を引かれて立ち上がった美春は、微かな劣等感にさいなまれた。


 彼女はスラリと背が高く、透き通るような白い肌に整った顔立ち、七三分けのおかっぱは黒々と艶めいており、所作のひとつひとつも小さく無駄がない。手に提げているトランクも味のある風合いで、いかにも育ちのいい都会の娘、というたたずまいであった。

 一方美春は、兄と喧嘩になれば「チビ」にはじまり「チビ」に終わる幼い容姿で、空と海の両方から照りつけられて肌は浅黒く、雑に縛った髪は小豆色に焼けている。花や茶を教えてくれる先生が島にいなかったので、品のある振る舞いがわからない。どこからどう見ても、美春は立派な田舎娘である。


 広島の娘は綺麗じゃのう……。


 美春が見とれてポゥッとしていると、彼女は眉をひそめて首を傾げ、風呂敷包みを手渡した。

「ところで、どこへ行くん?」

「今日出来た家政女学校に通うんじゃけど、どこへ行ったらいいんかね?」

 すると突然、彼女が美春の両手を掴んだ。桃色に染まった頬は、一瞬にして真っ赤に燃えた。

「うちも入るんよ! 一緒に行こう! ちょうど宇品うじな行きが入ってきたよ!」

 どこへ行くのか明かさないまま、彼女は美春の手を引いて、駅前広場に滑り込んだ物置小屋へと連れて行った。


 近づいてよくよく見れば、それは物置小屋などではないことに気付かされた。

 頭より少し上には窓ガラスが嵌められている。その前後には台があり、詰め込まれていた人々が颯爽と降りていく。

 その様子から、これが何かが美春にわかった。

 これは客車だ。三原から乗ってきたものより、かなり小さいが、紛れもなく客車の形だ。客室の下にはやぐらみたいなものが組まれており、そこには車輪が収まっている。線路は地面に埋まっているから、これを辿って走ったのだ。

 不思議なのは、汽車がどこにも着いていない。さっきも今も、この小さな客車だけでゴロゴロと転がってきた。


 すべての客が降りたところで、客車の後ろから車掌が降りてきた。これでようやく乗れるのかと言えば、そうではない。

 屋根から長い竿が生えており、車掌はその先端から垂れた紐を掴み取る。竿を反対側にくるりと回し、線路に沿って張られた電線に引っ掛ける。すると、それを合図にしたように並んでいた客が次々と乗り込んでいく。彼女も、手を引かれている美春も後に続いた。


「切符は七銭じゃ、車掌さんから買うんよ」

「詳しいねぇ、さすが広島の子じゃ」

 感服している美春の言葉に、彼女は困った様子で目を泳がせて、使い込まれたトランクに視線を落とした。

「うち、前は広島におったけど、お父さんが出征してからは、島根のお祖母ちゃんの世話になっとったけぇ」

「……ほうじゃったん……」


 漂っている重い空気を掻き消すように、美春が疑問を吐き出した。

「ところで、これは何ね? 汽車もないのに客車が走っとるのは、どうしてなん?」

「やっぱり電車を知らんのね? これは、電気で走るんよ」

 クスッと笑う仕草さえも、洗練されて麗しい。自らの知識のなさも田舎臭さも、美春には恥ずかしくてたまらない。

「電気で……走る? そんなこと出来るんかね」

「うちにも仕組みはわからんけぇ……それは、これから勉強すればええ」

 なるほど、都会の暮らしひとつひとつが勉強なのだと納得した美春は、鉢巻きでも締めるように口を固く結んだ。


「ほれ、走り出すよ。吊り革に掴まって」

 彼女に言われるがまま頭上に下がる革紐に手を伸ばすと、車掌が紐を引っ張って鐘をチン、チンと鳴らした。それが運転士への発車合図で、客車は床から轟音を響かせながら加速をはじめた。

「待った待った待ったー!!」

 ひとりの少女が短いお下げを振り乱し、客車目掛けて駆けてきた。その勢いのまま乗降台に飛び乗ると、息を切らせながら車掌に行き先を尋ねていた。

「この電車、家政女学校に行きますか?」

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